開幕戦3トライ 松島幸太朗「悲しみを乗り越えて」日本の至宝に | FRIDAYデジタル

開幕戦3トライ 松島幸太朗「悲しみを乗り越えて」日本の至宝に

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ロシアとの初戦を30ー10で快勝した日本代表。勝利に大きく貢献したのは3トライを決めた松島幸太朗だ。彼をジャパンの若きスピードスターに成長させたのは、父親の死と幾多の困難だった。知られざる秘話を公開する。

ロシア戦、前半12分に左サイドにトライを決めた松島
ロシア戦、前半12分に左サイドにトライを決めた松島

中学生時代から「別次元」の走りだった

178cm、88kgのサイズは、国際的なバックスプレーヤーとしては小柄な部類に入る。しかしピッチでの存在感なら特大だ。爆発的な加速と「目の前から消える」と評される鋭いステップで相手防御を切り裂き、一気にトライラインまで駆け抜ける。細身のシルエットながらコンタクトは頑健で、堅実なディフェンスでも貢献度は高い。

ジンバブエ人で新聞記者の父・ロドリックさんと、NGO(非政府組織)の研究員である母・松島多恵子さんの一人息子として、南アフリカの首都プレトリアで生まれた。6歳まで南アフリカで育ち、小学生時代は東京で過ごす。サッカー好きだった父の影響で当時はサッカーをやっていたが、中学1年の冬から1年間南アフリカに留学した際にラグビーと出会い、たちまち夢中になった。

帰国後は東京のラグビースクールに入り、3年時は東京都スクール選抜の一員として花園ラグビー場で行われる冬の全国大会に出場。優勝候補の地元の大阪府中学校選抜との準決勝では、別次元の走りを連発して独走トライを重ね、会心の勝利の立役者となった。

進学した桐蔭学園高校でも1年時からレギュラーに定着し、2年時には飛び級で高校日本代表入り。3年時は八面六臂の活躍でチームを冬の全国大会(花園)初優勝に導いた。準決勝の大阪朝鮮高戦、自陣ゴール前から約100mをひとりで走りきって挙げたトライは、高校ラグビー史に残る語り草だ。

トライを決め、流と抱き合う松島
トライを決め、流と抱き合う松島

3年間、校長先生に年賀状を送った

桐蔭学園ラグビー部の藤原秀之監督は、3年間松島の担任でもあった。生徒としての当時の様子を「ごく普通の高校生でしたよ」と振り返る。

「シャイで寂しがり屋。人見知りはするけど根は人懐こくて、仲のいい柔道部の同級生にしょっちゅうちょっかいを出していました。学校生活で悪い評判は一切なかったですね。他の先生に聞いても、授業を受ける姿勢がいいから『松島を見習え』と言われるくらいだったそうです」

在学中の出来事で印象に残っているのは、高校2年の冬に、父ロドリックさんが急逝した時のことだ。藤原監督は進路相談も含め三者面談をするために海外で仕事をするロドリックさんとメールでやりとりをしており、ひと月後に会う予定だったという。

「辛かったと思います。あんなに落ち込んだ姿は、見たことがなかったので」

ちょうど高校日本代表の合宿がある時期で、一時は辞退させることも考えたというが、「行かせてください」という母・多恵子さんの後押しを受け、海外遠征にも参加した。

さまざまな思いを胸にラグビーと向き合ったこの時期の経験が、本人にとって大きな転機になったのは確かだろう。そしてこのエピソードに象徴されるように、多恵子さんの育て方が松島の人生に与えた影響は大きかったと、藤原監督は話す。

「在学中の3年間、松島は毎年校長先生に年賀状を書いていたんです。お母さんからもすごくきれいな字で毎年手紙が送られてきたそうで、校長先生も『こんな親御さんはいない』と驚いていました。そういうことがなくなってきたこの時代に、すごいお母さんですよね。あのお母さんにしてあの子あり、と感じます」

開幕戦で3トライを決めた松島。彼がボールを持つだけで会場からは大歓声が上がった。
開幕戦で3トライを決めた松島。彼がボールを持つだけで会場からは大歓声が上がった。

南アフリカ代表より日本代表になりたい

高校卒業後は、大学進学ではなく南アフリカ屈指の強豪クラブ「シャークス」のアカデミー(若手育成機関)で挑戦することを決断した松島。1年目は慣れない環境や周囲のレベルの高さに弱音を漏らすことも多かったというが、地道なウエートトレーニングで大きくサイズアップを果たしたことで持ち味を発揮できるようになり、世界有数のラグビー強豪国である南アフリカのU20代表候補にリストアップされるまでに成長を遂げた。

「U20南アフリカ代表に選ばれたら、(代表選手資格規定で)日本代表にはなれなくなる。私は『(代表候補合宿に)行ってみたらいいじゃないか』と言ったんですが、本人は『行ったら選ばれると思います』と。それだけの手応えがあったんでしょうね。どうしたいんだと聞いたら、『日本代表になりたい』と言うので、それならということで、日本に帰国することになったんです」(藤原監督)

2014年シーズンよりサントリーに加入し、同年5月のフィリピン戦で日本代表デビュー。2017-2018シーズンにはトップリーグのMVPも獲得した。2015年にシドニーを本拠とするワラターズ、2016年にはメルボルンのレベルズと、オーストラリアのスーパーラグビーチームでもプレー。豊富な海外経験から英語はペラペラで、外国メディアのインタビューに通訳なしで堂々と受け答えする姿には、インターナショナルプレーヤーとしての風格がにじむ。

日本代表のチームメイトでは田中史朗と仲が良く、8歳上の田中に対し松島が鋭くツッコミを入れたり、そろいのポーズをとったりしているシーンが、日本ラグビー協会HPの合宿レポートやSNSでしばしばアップされている。茶目っ気たっぷりの意外な一面に、プレー中とは違った魅力を感じる方も多いだろう。

これまで数々のトッププレーヤーを育ててきた藤原監督は、松島がここまでの選手に成長できた理由をこう語る。

「やはり環境は大きいと思います。南アフリカ代表になるような選手たちとプレーして、やれるという自信もついたのでしょう。オーストラリアに行った時、『シャークスに行ったことがこれほど大きいとは思いませんでした』と言ってきたんです。若い時に自分の身体ひとつで挑戦しているから、向こうの選手からも『シャークスでやってたのか』と認めてもらえる。それが彼の通行手形になったんですね。

やっぱり、一流になるには一流の環境に行くことが一番。苦労したと思いますが、若くしてそういう経験をしたことが、今の日本代表での活躍につながっているのだと思います」

辛い悲しみや困難を乗り越えて、「日本ラグビーの至宝」と呼ばれるまでの存在になった松島幸太朗。26歳で迎える自国開催のワールドカップは、その名を世界にとどろかせる絶好の機会となる。

  • 取材・文直江光信

    1975年熊本市生まれ。県立熊本高校を経て、早稲田大学商学部卒業。熊本高でラグビーを始め、3年時には花園に出場した。現在、ラグビーマガジンを中心にフリーランスの記者として活動している。著書に『早稲田ラグビー 進化への闘争』(講談社)

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