48年前の名勝負を支えた伝説のラガーマン「阿修羅原」の生き様 | FRIDAYデジタル

48年前の名勝負を支えた伝説のラガーマン「阿修羅原」の生き様

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元日本代表の原進、引退後はプロレスラー阿修羅・原として活躍した
元日本代表の原進、引退後はプロレスラー阿修羅・原として活躍した

ラグビー日本代表からプロレスラーへ

阿修羅・原を知っているか。没後4年、享年68、そう書き出してもおかしくはないだろう。それはそれはタフなプロレスラーだった。作家の野坂昭如の命名である「阿修羅」の字の並びが精悍にして剛毅な風貌にふさわしかった。1994年にリングから退いた。

原進を知っているか。こちらは、はっきりとそう記そう。ずいぶん昔の英雄なのだから。いろいろあってプロレスの世界へ去るまで、長崎の諫早に生まれた頑健な人物は日本代表のラグビー選手であった。ポジションはスクラム最前線のプロップである。1976年秋、ふいにグラウンドに別れを告げた。

怪力。なのに俊足。そして辛抱強かった。キャリアのハイライトは、1971年9月、あのイングランド戦である。24日の大阪・花園での初戦は19−27。4日後の東京・秩父宮における再戦はともにノートライの3−6。史上初めて強豪国とぶつかったジャパンの大善戦はラグビーの母国の随行記者に驚きを与える。

かつてウェールズ代表の名手であったサンデー・タイムズ紙のヴィヴィアン・ジェンキンスは述べている。「パスのタイミングだけで相手を外す」「信じられないような位置から逆襲」「イングランドを恐慌に陥れた」「ゴールラインへの最短距離をとって攻撃」。そして「日本の軽量FWがはるかに大きいイングランドのスクラムに拮抗した」。このスクラムを支えた背番号1こそは阿修羅のごとき原進であった。

あれから48年も過ぎて語り継ぐに値する。なぜなら原進は、ナンバー8からプロップへ転向して計11日の練習だけで、有数のスクラム国との決戦に臨んだ。まだラグビー界は国際的にもアマチュア時代で代表拘束期間は限られている。協会資料をひもとくと、7月21日から25日までの夏合宿および対戦直前のキャンプのみ拘束は許された。無謀。しかし、名将、大西鐵之祐監督は熟慮ののちに賭けた。体の小さな経験者では、どのみち重圧をこらえられない。突貫の猛鍛練でも際立つ身体能力を持つ偉丈夫であれば耐えられるはずだ。

24歳の原進の体格は「182cm・87kg」。そのころの破格に近い。しかも100mを「11秒7」で走った。諫早農業高校時代は相撲の県王者、2年からラグビー部員を兼ねて、後者で誘ってくれた東洋大学へ進んで、近鉄に入社した。いわば粗削りなアスリート。大西鐵之祐は、だからこそ、職人の細かな技術も要求されるプロップへ「飛び級」で放り込んだ。合宿のスクラム練習は壮絶をきわめた。

ラグビーを諦めた理由は「お金」

2007年盛夏、原進その人に会った。故郷へ帰り、父を介護しながら、その「年金と原爆手帳(被爆者健康管理手当)」で生活していた。対イングランドに向けた合宿の様子を微笑とともに明かした。土のグラウンド。砂粒で首の皮がずる剝ける。化膿してハエがたかった。

「そのハエを払う腕が上がらない。宿舎に戻ると這って動いた。腰が痛くて立てないの。なのにグラウンドに出ると走れるんだよね」

のちに史上最高級ともうたわれた巨漢のフラン・コットンに押し負けなかった。「イングランドの体格でジャパンと同じ技術で背筋をピッと伸ばして組まれたら、どんなにか強いだろうとは思ったよね」。味わい深い一言だ。この大接戦を機に、押して走ってなぎ倒すプロップは誕生した。なのに5年後、ラグビー界から消えた。

ためらわれたが理由を聞いた。「お金、お金、お金の問題」。会社で観光バスの手配を行う部署にいた。一般社員と同じ待遇、合宿は通常の休暇を消化、不満はふくらんでいた。なんらかの入金の扱いに瑕疵が認められた。’76年、ウェールズのカーディフRFC創立100周年記念試合の「世界選抜」に招かれた。そのままジャパンの英国・イタリア遠征へ合流、途中に解雇を通知される。絶頂からの転落。以後、裸一貫、「スポーツではない」プロレスを働き場とした。

インタビューでは秩父宮のイングランド戦を語った。芝の上へ走り出す直前、大西鐵之祐監督の声がかかる。

「原、信じてるぞ」

死んでもいい。そして観客席にあふれる「お客さん」を見て「この人たちを喜ばせたい」と思った。原進は他者の喜びを生きた。プロレスを「仕事」と割り切ったはずなのに「蹴りが当たってないのに痛い表情はできない」と顏を突き出した。まぶたの筋肉が切れ、歯はどんどん欠けた。経済の破綻を招く夜の街の散財も後輩や周囲を喜ばせるためだ。本当にしたかったのは「高校ラグビーの指導」だった。山小屋にひっそりと暮らし、子どもたちを招いて野山の遊びを教えたい。そんなことも話した。まるで『ライ麦畑でつかまえて』ではないか。自由に走り回り、あげく崖から転げそうになる少年少女をどこからともなく現われてつかまえる。

実家の化粧室のペーパーには三角折が施してあった。ラックに突っ込むや相手と一緒に仲間もケガさせた怪物はそういう男だった。

  • 藤島大

    1961年東京生まれ。都立秋川高校、早稲田大学でラグビー部に所属。雑誌記者、スポーツ紙記者を経てフリーに。国立高校や早稲田大学のラグビー部のコーチも務めた。J SPORTSなどでラグビー中継解説を行う。著書に『ラグビーの世紀』(洋泉社)、『知と熱』(文藝春秋)、『北風』(集英社文庫)、『序列を超えて』(鉄筆文庫)

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