「お前、覚悟しておけよ!」田村優の“引退危機”を救った父の一喝

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アジアで初めてとなるラグビーワールドカップが20日、味の素スタジアムで開幕した。記念すべき初戦で日本代表は硬さもあり、本来の力を出すまで時間がかかったが、ロシア代表を30―10と振り切った。苦心しながら試合を動かし、後半20分には40mを越えるPGを決めた背番号10、田村優の父・誠さんが息子の素顔を語った。

「私は長い間ラグビーをプレーしてきましたが、優にも(弟の)煕(現・サントリー)にも『ラグビーをしなさい』と言ったことはなくて、蹴り方も教えたことはないんです。優が4、5歳の頃、ちょうどJリーグが開幕した時期でした。私はトヨタ自動車ラグビー部の監督をしていて、練習場に誰もいないときには、選手の息子さんと一緒にサッカーボールで遊んでいました」

田村は、岡崎市のFCマルヤス岡崎でサッカーをはじめ、中3までは攻撃的なMFの選手だった。父の知らないところで名古屋グランパスユースから声がかかるような選手だったが、優はサッカーで一流になることに限界を感じていた。中学3年の年末を迎えようとする頃、進路の話をしたときに、優の方から「ラグビーをやりたい。久我山でやりたい」と言い出した。

国学院久我山は誠さんの母校で、3年時に花園で準優勝している。しかし当時、田村家は愛知県内にあった。愛知県内にも西陵商業、明和、俳優・舘ひろしの母校、千種高校と強豪校がしのぎを削っており、どのチームにも可能性があった。より花園での全国大会に出られる可能性が高くなる進路を考えた。誠さんが続ける。

「久我山は親元からでないと通うことができない。ただ、国学院栃木の吉岡(肇)先生は私が久我山時代の同級生ですし、社会人までラグビーをやってその後、教員になった苦労人。預かってもらえるなら知っている人の方がいいと考えて、受験の準備をはじめました」

高校でラグビーをはじめる選手は少なかったが、その中で田村は親元を離れて初めて楕円球に触れた。学校生活になれてきた高校1年生のある日、授業中に立たされた。本当であればシュンとなるはずが、教室の角に大きなスクリーンがあり、そこの死角で立たされていた田村は弁当を食べていたという。吉岡監督は笑い話として父・誠さんに伝えたが、誠さんは授業をしている先生に対して失礼なことをしたことに我慢ならなかった。

「今から行くから、正座をして待ってろ」

息子にそう電話した誠さんは、吉岡監督の自宅続きで建てられた寮の一室に、わざわざ愛知から栃木まで5~6時間かけて車を走らせ、一喝。滞在時間は10分ほどだったが、どうしても顔を見て話しておきたかった。

「電話だったらその場で終わっちゃう。でも顔を合わせれば、(怒りの)真剣さって伝わるかなと思ったんです」

「お前を殴るかもしれないぞ!」

主将に選ばれた高校3年の時には、いきなり“引退危機”に陥った。長野・菅平高原での合宿中、主将だった田村が叱咤する意味で仲間を叩き、それを見た吉岡監督は烈火のごとく怒った。誠さんが振り返る。

「ちょうどその日に菅平で部の保護者会が行われることになっていて、私は移動中でした。その場面を見ていないんですが、本人から電話がありました。先生からも『もう退部か、休部だ』みたいな話をされたので、私と優はチーム宿舎とは別のホテルに泊まることにしました。叩いてしまった子の親御さんからは『うちの子がタックルしないから悪いんです』と言っていただきましたけど、ウチの(優)だって他の人に言えるほどタックルができるわけではないので(親御さんと仲間に)もう本当に申し訳なくて……」

傷心の親子。うなだれる息子とどんな話をしたのか。

「本人には、『辞めさせられることになったら、しょうがないぞ。次、どこか学校を探して、そこで勝負するんだな』と言いました。本人は『辞めたくない』という感じでしたけど、その日はそれで終わらせて一晩、頭を冷やしました」

翌朝。親子は再び向き合った。

「どうする?と聞くと『やっぱりやりたい』と。『じゃあ、謝りに行こう』と言ってグランドに行きました。その時、こう付け加えました。『話の流れの中で、俺がお前をみんなの前で殴るかもしれないけど、覚悟しておけよ』と。本人も『わかった』と覚悟を決めていました。それぐらい大きなことだったので。『ごめんなさい』と謝りに行って……。実際は殴ることなく済みましたが」

結局、主将は他の選手と交代し、部活動を再開し、現在に至る。高校進学、ラグビーを続けるのか、お詫びに行くのか、大事な決断は結局、優自身に決断を促してきた。そこに誠さんのポリシーが垣間見える。

「たぶん『こうしろ』と言われるほうが本人は楽だと思います。でも自分が決めれば、ある一定のところまでは必ずやり続けることができる。結局、辞めること、変更することも自分で決める。その最初の決断はやっぱり自分がしなきゃいけないと思うんですよね」

ロシア戦の前半、タイトな試合をリードした田村優(撮影:渡部薫)

ラグビーをはじめること、そして続けることは自分が決めた。だからラグビーに向き合う気持ちは中途半端ではない。明大時代から、誰もいなくなった八幡山グラウンドでキックの練習を黙々と続けてきたことも、自信を持つ「技」を磨いてチームを救いたい、という思いの表れだ。誠さんが続ける。

「結局、周りの方に恵まれてきたと思います。自分の蒔いた種で、時としていろいろなところに火がついてしまって、それをみんなに助けていただいて今がある。だから今度はこっち(田村優)が頑張ろう、みたいに気持ちなんじゃないですか。日本代表としてW杯を戦いたいと願っていても、大会が開催されるときに20~30歳中盤ごろまでの年代にいて、しかもW杯が日本に来ないと戦えない。そのめぐりあわせにも感謝しながら、日本のために頑張ってほしい。最近、(田村優が)ゴールキックを狙うとき、以前と違って緊張するんです。特に入りやすそうな場所はね」

ちなみにW杯組織委員会のレガシー局長をつとめる誠さんは、大会にアクシデントが発生した場合に備えて本部で待機する仕事があるため、日本代表戦の会場に行く予定はない。立場は違えど、誠さんも戦う気持ちは一緒だ。父の顔に戻れるのは、きっと大会後になるだろう。

◆田村誠(父)現・ラグビーワールドカップ(W杯)組織委員会

国学院久我山―帝京大で活躍し、トヨタ自動車に入社。現役引退後はトヨタや豊田自動織機で監督も歴任。日本代表候補合宿には呼ばれたが、出場経験はなし。日本代表BKコーチの経験がある。2016年に発足したスーパーラグビー・サンウルブズのGMもつとめた。

田村優は後半20分、40mを越えるPGを決めた(撮影:渡部薫)
円陣を組む日本代表(撮影:渡部薫)
  • 映像編集、撮影木村匡希

Photo Gallary5

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