ラグビーW杯 学生時代からスターだった田村優の大きな「母校愛」

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スコットランド戦では4本のコンバージョンを決めた田村優/茂木あきら(JMPA)

その姿はまさに「ピッチの王様」

ラグビー日本代表の快進撃が止まらない。なかでも4試合全てに出場して、全試合で得点を挙げている選手は、スタンドオフの田村優だけだ。海外選手を含めたW杯得点数ランキングも48点とダントツの1位である。

国内随一と評される多彩なスキルを駆使し、味方選手を自在に操りながらプレーを組み立てる姿には、「ピッチの王様」と呼びたくなるような風格が漂う。戦術をつかさどる司令塔にして、チームをまとめるリーダーグループのひとりであり、プレースキッカーの重責も担う。文字通り、日本代表の運命を握る男だ。

中学まではサッカーに没頭し、ラグビーを始めたのは高校から。それでも帝京大学、トヨタ自動車で活躍した父・誠氏譲りのセンスに、サッカーで鍛えたキック力と視野の広さも加わり、2年時からレギュラーとして2年連続で花園に出場する。進学した明治大学では、初先発試合が1年時の早明戦(早稲田大学との伝統の一戦)という華々しいデビューを飾り、4年間チームの顔として活躍した。

類い稀な才能が完全開花したのは、大学卒業後にトップリーグのNECグリーンロケッツに加入してからだ。

1年目からスタンドオフ(SO)、センター(CTB)としてスターターに定着すると、翌2012年にはエディー・ジョーンズヘッドコーチ(HC)就任後最初の日本代表に名を連ねる。以降、エディー・ジャパンの常連として国際舞台でキャリアを重ね、2015年のラグビーW杯南アフリカ戦にも出場して歴史的勝利の感激を芝の上で味わった。

ジェイミー・ジョセフ現HCが就任した2016年からは、日本代表の不動の10番に定着。2017年6月からラグビーW杯開幕前までのテストマッチ16試合中12試合でSOの先発を務め、タイトなゲーム経験を積んできた。元ニュージーランド代表SOでもあるトニー・ブラウン・アタックコーチも「調子がいい時は世界でもトップ3のSOのひとり」と田村の能力を高く評価している。

学校のカリスマだった高校時代

長身、細身のすらりとした体型で、いかにもサッカー出身という感じ。当然ながらキックは得意で、ランニングセンスや相手をかわす身のこなしにも非凡なものがあった――。國學院栃木高校の吉岡肇監督は、入学当初の田村の印象をそう振り返る。

もっとも、「正直その頃は、のちに日本代表のスタンドオフになるとは思わなかったですね」と苦笑する。

「身長は180cm近くありましたが、足はそこまで速くないし、相手を弾き飛ばして突破するような強さもなかった。当時コーチを務めていた古庄史和(現白鷗大学ラグビー部監督)も同じ印象だったようで、『ここまでの選手になるような感じはなかったよな』と今でも話すんです」(吉岡監督、以下カッコ内は同)

ただ、校内での存在感は入学直後から際立っていた。彫りの深い端正なルックスに、教師にも媚びない豪胆なキャラクターが相まって、カリスマ的な雰囲気を漂わせていたという。

「人に注目されるスター性は感じましたね。一筋縄じゃいかないところがあって、教員に対して反抗的な態度をとったりするけど、その教員も『また口ごたえしやがって』と言いながら可愛がる、というような。他の部活動の生徒からも一目置かれる存在で、いわばあの時代の学校のヒーローでした」

自他ともに認めるマイペースな性格で、豪快なエピソードには事欠かない。

授業中に教室の隅に立たされた時、教壇から死角になる場所で弁当を食べていたのが見つかり、その話を伝え聞いた父・誠さんが愛知から栃木まで車を5時間運転して駆けつけ、吉岡監督の自宅兼寮の一室で一喝した――というのは有名な逸話。さらにこの話には、続きがあった。

「田村の親父とは、私の國學院久我山時代の同期の中でも特にウマが合う間柄だったのですが、よほど我慢ならなかったんでしょうね。『どれだけ先生方に迷惑かけてるんだ!』といってブラウン管のテレビをぶん投げたり、ものすごい剣幕でした。ところが親父が帰ったら、田村は何事もなかったかのように熟睡(笑)。さらに翌朝起きて散乱した部屋を見て、『悪い夢を見たと思ったけど、夢じゃなかったんだ』と。大物だなぁと思いましたね」

スコットランド戦ではジェイミー・リッチーとの小競り合いもあったが、後にTwitter上で和解した/茂木あきら(JMPA)

誰よりも大きな「母校愛」を持っている

國學院栃木は当時から花園の常連校だったが、田村の代は同期が9人と少なく、春は7年ぶりに栃木県大会で黒星を喫するなど苦しんだシーズンだった。

それでも秋の花園予選では、劣勢の前評判を覆して作新学院高校との準決勝に勝利し、決勝では現ヤマハ発動機のフランカー(FL)三村勇飛丸率いる佐野高校と土砂降りの中で激突。0-3で迎えた試合終盤に田村のペナルティゴールで追いつき、さらにロスタイムに田村のカウンターアタックを起点に勝ち越しトライを挙げ、10-3で劇的な逆転勝利を収めた。

「苦しかったあの年に、田村たちが先輩らから受け継いだタスキをつないでくれたことが、現在の19年連続花園出場につながっているんです。残念ながら花園では初戦敗退でしたが、私としては最高の恩返しをして卒業していったな、と今でも感謝しています」

そうした多くの忘れがたい思い出が詰まった時間を過ごしたからだろう。田村の國學院栃木に対する愛着には、並々ならぬものがあるようだ。大学時代から、オフになれば決まって栃木へ“帰省”。後輩たちに混じって練習に参加するほか、シーズンの節目に行われるOB戦にも、毎回必ず出場するのだという。

「大事な時期にケガでもしたら大変だからやめろというのですが、いつも『ちょっとなら大丈夫ですよ』といって出るんです。栃木に来る時は必ず、スパイクと練習着を持ってきますね。学校に来た時も、練習中にふらっといなくなって、あとで聞いたら『職員室に行ってました』と。お世話になった先生に挨拶に行くなんて、アイツもずいぶん大人になったなあと(笑)」

未経験者として高校でラグビーを始め、スキルと判断力が必要とされるSOのポジションで日本代表の主軸となった田村は、吉岡監督にとって誇りであり、國學院栃木高校ラグビー部に自信と勇気をもたらす存在でもある。今回のW杯で期待することを聞けば、こんな答えが返ってきた。

「もう親心なんですよ。親友の倅だし、同じ屋根の下で3年間一緒に暮らして、親代わりをしたというのもあるから。他の選手には大変申し訳ないんですが、倒れている選手を見るとつい『田村じゃないか?』と心配してしまう。とにかく無事に、最後まで戦い抜いてくれれば」

ロシアとの開幕戦時は、極限の重圧から「10日間ぐらい眠れなかった。緊張して死ぬかと思った」と心境を吐露した田村。一方で、舞台が大きくなればなるほど力を発揮するのが、この男の真骨頂でもある。優勝候補の南アフリカ相手にどんなプレーを見せてくれるか、楽しみだ。

  • 取材・文直江光信

    1975年熊本市生まれ。県立熊本高校を経て、早稲田大学商学部卒業。熊本高でラグビーを始め、3年時には花園に出場した。現在、ラグビーマガジンを中心にフリーランスの記者として活動している。著書に『早稲田ラグビー 進化への闘争』(講談社)

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