初のW杯スタメン出場 山中亮平が平尾誠二に託された思い

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初戦のロシア戦では途中出場だった。日本代表の大一番、アイルランド戦では初の先発で出場する

大きいなあ。

山中亮平に初めて会った印象だ。

土井崇司も福本正幸も同じように思った。

ラグビー日本代表のフルバックはいま188センチ。欧州や南半球のバックスと比べてもサイズのそん色はない。

代表では「最後の砦」を任されている。最後尾からトライを防ぎ、獲る。

土井は出会ったころ、東海大仰星の監督だった。中3生の勧誘のため、夏の関西中学大会を視察した。山中は大阪の選抜チームで、「司令塔」と呼ばれるスタンドオフとして試合に出ていた。

「当時でも182センチはあったはずです」

メンバーたちより頭ひとつ抜けていたが、それよりもそのプレーに度肝を抜かれた。

「蹴れば60、70メートル。走れば速い。それに大股なので中学生には止められない。タックルに入っても片足にしがみつく程度。上半身は自由なのでロングやバックフリックのパスをぽんぽんつないでいましたよ」

オフロードと呼ばれる、タックルに入らせておいてのつなぎを長距離や背中越しに披露する。土井を驚かせたことはさらにある。

「彼は本格的にラグビーを始めて、まだ2、3か月でした。なんじゃこいつは、と思いました」

天性の身体能力の高さとテクニシャンぶりは図抜けていた。

土井の評価は「天才」。教え子では、ラグビー殿堂入りをしている大畑大介と同じだった。日本代表キャップ58を持つウイングは山中にとって13歳上の先輩になる。

山中にとって幸運だったのは、土井が高校ラグビー界で屈指の理論家だったことだ。

プレーのみではなく、グラウンドを縦に5つに割って、どこにボールを運び、どう崩してトライラインを越えていくかという頭脳的な部分もこの時代に磨かれる。

山中は3年時、仰星に7大会ぶり2度目の全国優勝をもたらす。第86回大会(2006年度)では決勝で東福岡を19-5で降した。

チームメイトには後年、フッカーとして日本代表になる木津武士がいた。木津は南アフリカを34-32で破り、世界を驚愕させた前回のワールドカップに出場している。

土井は述懐する。

「山中や木津がいたチームは歴代の高校大会に出場した中でも一番強かったと思っています。体の大きさもうまさもありました」

この時の先発メンバー15人から実に9人がトップリーガーになっている。

大学はあまたの誘いの中から早大を選んだ。土井にとっても最良の選択だった。

「彼が成長するためにはスタイルのあるチームがいいと思いました。それがないと能力が高いがゆえに好き放題をしていたでしょう」

早大は大学選手権で最多優勝15回を誇る名門だ。創部は1918年(大正7)。その100年を超える歴史の中で創り上げたノウハウがある。個の判断を優先してくれた土井の元を離れ、組織が先に来るチームに進んだことは、山中に選手としての厚みを加える。

「ワセダに五郎丸君がいてくれたことも大きかったと思います。山中が不満を持って、あっちを向くことがあれば、『おまえねえ』と諭してくれたと聞いています」

五郎丸歩は日本のラグビー選手として一番の知名度を誇る。日本代表キャップ57を持つフルバックは山中が1年の時の最上級生。大学では、上には上がいること知る。そして、正しく伸びていく。

新人からレギュラーだった山中は下級生時に大学選手権を連覇する。4年時の第47回大会(2010年度)では決勝で帝京大に12-17と敗れた。勝者は連続優勝。このあと連覇を9にまで伸ばすことになる。

同年5月8日、山中はアラビアンガルフ戦で日本代表の初キャップを得ている。

社会人は地元・関西の名門である神戸製鋼に決める。高炉をイメージした深紅のジャージーをまとうチームは、山中が加わる20年ほど前には社会人選手権(トップリーグの前身)、日本選手権の7連覇の真っただ中にあった。

現在、チームディレクターをつとめる福本も第一印象は土井と一緒だ。

「神戸の三宮で昼ごはんにラーメンを食べていました。そうしたら、そこに山中が平尾さんと入ってきました。あいさつをされましたけど、デカいなあ、と思いましたよ」

当時、平尾誠二はゼネラルマネージャーだった。2016年10月、がんのため逝去。7か月後の2017年5月、福本は役職名こそ変わるが、チームトップの運営者を引き継ぐ。

平尾は大きな可能性を持った山中をかわいがっていた。同じスタンドオフ出身ということもあり、若いころの自分の姿を山中に重ね合わせていたのかもしれない。

山中の使用したヒゲの育毛剤から禁止薬物が出たのは2011年。入社1年目だった。平尾は社内での事後処理に奔走する。プロから社員に契約を変える。生活の道を保障した上で、競技禁止の2年間を送らせた。その期間を終え、再びプロ契約を結ばせた。

土井は振り返る。

「山中は平尾さんに助けてもらいました。本当にお世話になったと思います」

福本はその言葉を受ける。

「そういうこともあって、彼はスティーラーズに対して愛情が深いんですよ」

昨春、社会人で再びチームメイトになった木津が日野に移籍した時にも、真っ先に引き留めにかかった。

神戸製鋼は2018年12月15日、サントリーを55-5と圧倒して、15季ぶり2度目のトップリーグ優勝を決める。

山中は記念盾を持って喜んだ。

「自分のラグビーに関してもいつも一生懸命に取り組んでいます」

福本は山中が入社2年目のフルバック・井関信介からも知識を得ていることを知っている。チームではスタンドオフ、センターが主であるため、年下に頭を下げ、教えを乞う。

代表に関しての愛着も福本は感じている。

「彼はミスター追加召集と呼ばれていますよね。普通はくさるけど、ケガ人が出ても『はいはい』って二つ返事で行きますもんね」

初キャップ獲得は2010年。そこからワールドカップは2大会逃した。10年をかけ、3度目の正直で晴れの舞台をつかみ取る。

土井は山中の躍動を楽しみにしている。

「ドーピングが自分にとってプラスになったかどうかはわからないけれど、辛抱して、経験を重ねて今がある。ワールドカップに選ばれた時は涙が出てきました」

皆が感じた「大きさ」を、代表躍進の資としたい。そして、生まれ育ったこの国で、その能力を世界に知らしめる。

◆山中亮平(やまなか・りょうへい) 1988年6月22日生まれ。大阪府出身の31歳。真住中→東海大仰星→早大→神戸製鋼。日本代表キャップ(日本協会が定める国際試合に出場した数)は13。神戸製鋼では7年目。2016、2017、2019年には国際リーグのサンウルブズでも戦った。188センチ、95キロ。家族は夫人と子供3人。

  • 取材・文鎮勝也

    (しずめかつや)1966年(昭和41)年生まれ。大阪府吹田市出身。スポーツライター。大阪府立摂津高校、立命館大学産業社会学部を卒業。デイリースポーツ、スポーツニッポン新聞社で整理、取材記者を経験する。スポーツ紙記者時代は主にアマ、プロ野球とラグビーを担当

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