アイルランドから金星。明大時代の盟友が語る田村優のキック伝説 | FRIDAYデジタル

アイルランドから金星。明大時代の盟友が語る田村優のキック伝説

アイルランド戦を勝利に導いた、そのキックの凄さ

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ラグビーワールドカップが28日、世界ランク2位のアイルランド代表と対戦。19―12。15年W杯の南アフリカ戦以上の番狂わせが起こった。

 

前半終了間際、40m近いPGを決めるなど、7本蹴って5本成功。金星の立役者となった
前半終了間際、40m近いPGを決めるなど、7本蹴って5本成功。金星の立役者となった

史上初のベスト8進出にむけてこの試合が最難関と言われたが、SO田村優が前半終了間際、39mPGを決めるなど、ロシア戦での不調を克服し、完全復活。一人で14得点たたき出した田村の明大時代の同期で4年間一緒にプレーし、4年時には主将もつとめた杉本博昭(クボタスピアーズ)は、田村のキックを最初に見たときの衝撃が忘れられない。

「僕が初めて(田村に)会ったのが、12年前に入寮するときでした。直前の花園(の全国大会)で(国学院栃木の選手で)目立っていたと聞いていましたが、正直、田村のことはあまり知らなくて。でも自主練をしているときに『すごい』と思ったことがありました。自陣の22m手前ぐらいからスクリューキックを蹴って、そのまま敵陣の22mを超えるぐらいまで飛んでいった。60m以上軽々飛ばしてそれでも首かしげていて……。彼は距離より、コントロールを大切にしていた。今までそんなキッカーを見たことなかったので、『何か持っているな』と思いましたね」

キック伝説はロングキックにとどまらない。

「彼はゴロのグラバーキック(地面をゴロゴロ転がるように蹴るキック)がすごいうまいんですが、縦回転でまっすぐいけばいいのではなく、彼はグラバーキックの距離まで計算している。彼なりの力加減があるみたいで……。ボールの回転や転がったボールが地面から跳ね返るタイミングにもこだわっていて、その蹴り方を教えてもらいました。聞いてもよくわからなかったですが(笑)。

7月、日本代表のフィジー戦で、福岡(堅樹)選手が田村のキックをキャッチしてそのままトライしたプレーがありましたが、福岡選手のトライにつながるように意図してピンポイントで落としている。そのスキルはかなり長けてると思いますね」

「アイツをトライさせる」

明大時代、田村優(右)のキックを見守る杉本博昭(撮影:井田新輔)
明大時代、田村優(右)のキックを見守る杉本博昭(撮影:井田新輔)

田村は仲間を「トライさせる」と言って本当にトライにつなげたこともあった。杉本が懐かしそうに振り返る。

「明大の同期に山口裕貴というウイング(WTB)の選手がいました。彼はずっと公式戦には出られなかったんですが、4年生にとって最後の公式戦となる大学選手権の準々決勝・流経大戦ではじめてリザーブに入りました。途中からでも出たら紫紺のジャージーのデビュー戦でした。試合前、田村が『ユウキに絶対に(トライを)とらせる』って僕に言ってたんですよ。そうしたら田村がおぜん立てして本当にトライして……。今、思い出しても鳥肌立ちますね」

その試合、山口のポジションで先発したのは、TBSの日曜ドラマ『ノーサイド・ゲーム』で里村亮太役で熱演が光った佳久創。山口は佳久にかわって後半29分から出場し、そのわずか3分後、田村のパスを受けて左ライン際を駆け抜け、トライした。試合も60‐7と快勝だった。トライした瞬間、照れくさそうにする山口と対照的に、田村はまるで自分がトライをしたかのように両手をつきあげて喜びを爆発させた。

「田村のいいところは、誰かのために頑張るっていうことが彼のモチベーションになっているところです。ラグビーを離れると、ちゃらんぽらんだったり、ルーズな部分もありますよ。でもラグビーは本当に好きで一生懸命。背番号10を背負う立場として、勝たないといけない、という思いが強いからつい周囲にキツく接することで喧嘩になったこともあったと思うんです」

国学院栃木高時代のやんちゃな一面も残しながら、それでも4年生になって田村は変わった。杉本が続ける。

「春シーズンはチームが好調で、全勝のまま王者の帝京大と試合をしました。勝てると思っていたのに負けてしまい、雰囲気がガクって落ちて。その時、4年生だけで話し合ったんです。3年生までの田村は、極端な言い方をすれば、ときどき言葉を吐き捨てるような言い方で指示を出していたんですけど、あの時を境に、後輩に対しても言葉を選んで伝える話し方に変わりました。田村を含めて当時の4年生は個性的な人が多かったんですが、その個性を出してもらいながらうまく導くことが主将の僕の仕事だと思ったので、月に1回、バーベキューをすることにしました。11月ごろまで毎月やりましたね」

そこで育まれた結束によって、田村は仲間に対する思いがより一層強くなり、「4年生みんなで試合に出たい」というのが口癖のようになった。卒業後も結束は変わらず、数年前には杉本や田村ら同期が10人集まり、一緒に飲みながら語らい、テキーラだけで200杯を飲み干した。杉本が続ける。

「(田村が担う)ゲームメーカーが試合を支配するんですが、(日本代表主将のリーチ)マイケルともすごくいいコミュニケーションがとれていると思うし、そこをしっかりやれている彼がいるからこそ、日本代表は勝てると思っています」

田村は、リーチマイケル主将とも同学年。札幌山の手高校時代からずば抜けた実力で、高校日本代表に選ばれていたリーチと違い、当時の田村に代表歴の肩書はなかった。それでもコツコツと得意のキックを磨き、ゲームメークを学び、今の地位を築いた。立場が変わっても仲間と一緒に勝利を分かち合いたい、というあの頃の気持ちは変わらない。

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