阿部、今江、畠山……プロ野球引退選手“一生忘れない屈辱”克服法 | FRIDAYデジタル

阿部、今江、畠山……プロ野球引退選手“一生忘れない屈辱”克服法

偉大な成績を残し順風なプロ生活を送ったと思われる野球選手にも必ず逆境の時期がある。ブチ当たった壁と挫折をどう乗り越えたのか。プロならではの克服法だ

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巨人一筋19年のプロ生活を送った阿部慎之助。自主トレには坂本勇人や小林誠司などの後輩を自費で帯同させていた
巨人一筋19年のプロ生活を送った阿部慎之助。自主トレには坂本勇人や小林誠司などの後輩を自費で帯同させていた

日本シリーズがソフトバンクの4連勝で終わり、今季も長年第一線で活躍した多くのプロ野球選手がユニフォームを脱ぐ。成績だけ見れば順風なプロ生活に見えても、必ず壁にブチ当たりもがき苦しんだ逆境の時がある。以下に紹介するのは、『FRIDAY』のインタビューに答えた有名選手たちの挫折と苦悩の軌跡だ。

阿部慎之助:失策した翌日の打率は“驚異の3割5分以上”

巨人の阿部慎之助(40)は1年目から正捕手として活躍したが、「一生忘れられない」と語る屈辱を味わっている。’12年5月に行われたDeNA戦でのこと。2点リードの9回2死二塁の場面で、「これで試合終了」という平凡なフライを落球し痛恨のドローとなってしまったのだ。

「あのエラーは忘れられません。帰りのバスの中では気を紛らわすためにiPodで音楽を聴いていましたが、頭に浮かぶのは落球の場面ばかり。悔しくて悔しくて、宿舎に戻ってもなかなか寝付けません。明け方4時頃まで、薄暗い部屋で悶々としていました。バットを握りしめ、先端を見つめながら『必ず取り返してやる!』と念じていたんです」

マイナスイメージを引きずらないよう、多くの選手はミスを忘れようとする。だが、阿部は違う。

「ボクは『ミスは忘れてはいけないモノ』と考えています。悔しさをしっかり感じ反省しないと、進歩はない。だからボクのロッカーには、過去にエラーした写真がたくさん置いてあります。それを見たら、悔しさを忘れないじゃないですか」

阿部が失策した翌日の打率は、3割5分以上と驚異的だ。前述のDeNA戦翌日にも、3打数2安打2打点の活躍をしている。

今江敏晃:持ち味を引き出した“伊東勤監督の一言”

原因不明の眼病が原因で引退する楽天・今江敏晃(36)は、日本シリーズMVPに二度輝いたスターだ。プロ生活最大の壁は、’11年に導入された低反発の統一球だったという。

「試合に出るのが怖かったです。打率は1割台まで落ち、スポーツ紙の成績欄を見る勇気もなかった。家に帰れば何かキッカケを掴もうと、好調時のDVDを繰り返し見ていました。いつの間にか見入ってしまい、睡眠不足で疲れがとれないまま翌日の試合に臨む悪循環。『このままオレは終わってしまうのか』と悶々とし、チームメイトと会話をせず球場を後にすることもありました」

今江を救ったのは、伊東勤監督(当時)の一言だった。

「打撃練習のとき、『おいゴリ(今江の愛称)、最近ボールを見過ぎてないか』と話しかけられたんです。『オマエの持ち味はなんだ? 1球目から打っていくのがゴリのスタイルだろう』とも。気持ちがラクになりましたね。それまでは結果が出ないために萎縮し、初球からバットを振れずにいた。追い込まれてから、難しい球に手を出していたんです」

ファーストストライクから打つ本来の打撃を取り戻すと、徐々に成績も向上。気持ちが前向きになり、チームメイトとの会話も増えた。

「ある時、好調だった捕手の江村直也に『オマエ、よく打つなぁ。バット1本くれよ』と声をかけたんです。江村のバットはボクのより1cmほど短く、芯がやや内側にありました。振ってみるとミートしやすい。バットにも試行錯誤していましたが、偶然にも自分にピッタリのモノを見つけられたんです」

4月は1割台だった打率は、監督のアドバイスと新バットで5月に3割4分1厘と急上昇。以降4番を任されるようになった。

畠山和洋:門限破りの常習犯を目覚めさせた“10年目の危機”

「練習はいちおうマジメにやっていましたが、終わると毎日のように友人と酒を飲んでいました。二軍の寮がある戸田(埼玉県)近くの浦和や川口の繁華街に行き、明け方4時頃まで飲んで門限破り。朝寝坊もしょっちゅうです。当時二軍監督だった小川淳司さんにもよく怒られました。『プロとして最低限やらなきゃいけないことがある。もっと真剣に取り組め』とね」

こう明かしたのは、’15年に打点王になったヤクルトの畠山和洋(37)だ。入団してしばらくは真剣味が足りず、一軍と二軍を行ったり来たり。相手投手の研究をせず「来た球を打っていただけ」だという。

「10年目のシーズン前、『さすがに今年ダメだったら終わりかな』と危機感を覚えました。一度不安になると、気持ちがザワついて仕方がない。結果を残そうとミートを心掛けたり、バット短く持ったり練習中から頭を抱える日々です。そんな時、小川さんにこう指摘されました。『オマエは足が遅いし守備も下手。武器は遠くへ飛ばす能力だ。長打力で勝負しないでどうする』と。ちょうど腰痛で打撃不振に陥っていたこともあり、小川さんのアドバイスで思い切ってフォームを変えたんです。試行錯誤してたどり着いたのが、重心を深く沈ませ左脚を大きく振り上げるスタイル。安定感はなくても、より打球が飛ぶようになりボクにはピッタリのフォームでした」

この年(’10年)、畠山は一軍で初の二ケタ本塁打を記録。結果が出ると「もっと良い成績を残そう」と、ノートに対戦投手のデータを書き込み確実性もアップした。

「不思議と飲みに行くことも、ほとんどなくなりました。妻と家で缶ビールを2~3本飲むくらいです」

門限破りの常習犯は、危機感で変わった。ベンチでは常に気づいたことをノートに記し、翌年からは4番を任されるようになったのだ。

  • 撮影濱崎慎治

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