ラグビーW杯「笑わない男」稲垣啓太の忘れがたきプレーを振り返る | FRIDAYデジタル

ラグビーW杯「笑わない男」稲垣啓太の忘れがたきプレーを振り返る

藤島大『ラグビー 男たちの肖像』

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「笑わない男」稲垣啓太/写真 アフロ
「笑わない男」稲垣啓太/写真 アフロ

スコットランド戦、前半25分

あれは8月の初旬だった。東京の阿佐谷の商店街をたまたま通ると、数日後に始まるらしい「七夕まつり」の準備が進んでおり、それぞれの店舗が飾りを吊るしていた。

おっ。赤と白のジャージィが宙を跳んでいる。ラグビー好きの店主がいるんだ。うれしくて目を凝らす。

リーチマイケル。こちらは想定の範囲。

もうひとつ。

ヒゲに長髪の男が楕円の球を抱えている。

こ、これは。稲垣啓太ではないか。

いったい、だれなのだ。人類が滅亡するまで走り続ける丈夫で勤勉なプロップを選んだ目利きは。周囲を見渡すも、朝も早く、まだ営業開始の前、人の気配はない。

その瞬間に「ジャパンは勝ち進む」と思った。と書いたらウソになる。ただ「ワールドカップは成功するかも」とはウソでなく感じた。ちゃんと盛り上がるのかなあ、地上波テレビの視聴率はどうなるのか、なんて心配もなくはなかったころだ。アーケードの下のどこかに、派手なトライとは無縁のタフガイの真価をわかる人物がひそんでいる。

そして列島の膨大な数の老若男女は見た。

稲垣啓太の忘れがたきトライを。

生きるか死ぬかのスコットランド戦。前半25分過ぎ、もはやワールドクラスのフッカー、堀江翔太が巧みに上体をスピンさせて防御線を破り、仕事人、ジェームス・ムーアにつなぎ、元13人制ラグビーのプロ、ウィリアム・トゥポウへ。背番号1が左から走り寄る。左に浮いたパスをつかんでインゴールへ。貴重な勝ち越しのスコアだった。

4日後。会見で本人は言った。

「普段はトライした選手を追いかけて励ますような感じ。逆にあの時は励ましにきてくれた。いつもと違った光景が見られたのは感慨深いです」

そう。新潟県新潟市出身の29歳、新潟工業高校-関東学院大学-パナソニック ワイルドナイツの左プロップは、当日まで日本代表で32試合に出場しながら、いっぺんもトライを記録したことはなかった。ラグビーの古い言い回しを借りるなら「ピアノを弾く人ではなくピアノを運ぶ人」なのである。

しかし、実は、あの大切な場面、186㎝、116㎏の大きな体は、数え切れぬほどトライを挙げてきたウイングのように動いた。

映像を見返す。堀江からムーアへ球が渡るときの画面に姿はない。深いところにいるからだ。トゥポウがステップを踏んで抜ける。ややあって左後方に登場。サポートに駆け上がる速度が絶妙だ。足の速いバックスに追いつこうと焦ると、タックルをかわしたり浴びたり、ふいの出来事が発生した際、追い抜いてしまう。それではパスをもらえない。

本稿主人公は、微妙に速度を調整、ここしかないタイミングにしかるべき角度と距離を保ち、赤白ジャージィをまとっての初体験を成就させた。

傷ついた肉体で立ち上がる

のちに種明かしがあった。

「ボールをもらいにいったわけではないんです。もしあそこで彼(トゥポウ)が倒れていたら、僕はそのままクリーンアウトして(相手をはねのけて)ボールをプロテクトしていたでしょうし、それができたら外に展開して違うだれかがトライを獲っていた」

悠々として急げ。作家、開高健の言葉が思い浮かぶ。いい仕事の要諦である。痛みと引き換えに球を守るのも、球を託されトライをものにするのも同じなのだ。ゆったり、あわてず、必ずそこにいる。きっと、いいことがある。

未知の領域であった準々決勝。南アフリカ代表スプリングボクスは、どこか臆病なほどの心構えで、しゃにむに、ひたむきに、もちろん獰猛に向かってきた。それがうれしかった。稲垣啓太も、ジャパン大躍進の柱として猛烈なタックルの標的とされた。

後半8分。ベンチへ退く。放送席からは、ほとんど満身創痍にも映った。ところが交替で途中出場の中島イシレリも負傷する。20分後、再び、芝の上へ。

3対26の敗戦後の会見。ジャパンのジェイミー・ジョセフHC(ヘッドコーチ)は、みずから手がけた集団の「不屈の態度」について例を挙げた。

「いちど交替したのに、またベンチを飛び出し、そこから立ち上がった者もいた」

稲垣啓太である。

後半40分30秒あたり。すでに終了を告げる銅鑼の音は響いた。スプリングボクスは、なお、攻撃をやめない。あわよくば、もうひとつスコアを。2m6㎝の長身ロック、RG・スナイマンが縦へ。すかさずジャパンの1番が盟友のヴァルアサエリ愛とともに猛烈なタックルを仕掛けた。光景は消滅する。巨漢はぺしゃんこになった。

敗北必至の最後の最後の時間帯。傷ついた肉体。なのに。七夕まつりの飾りの人選は正しかった。

このところ「笑わない男」として人気だ。でも取材者にとっては「コメントがそのまま文章になる男」である。常に整然、明快。

先日、テレビのワイドショーが、スマイルを浮かべた映像を流した。本人は一言。

「口角が上がっただけ」

やはり文章になっていた。

※この記事は週刊現代2019年11月2日号に掲載された連載『ラグビー 男たちの肖像』を転載したものです。

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  • 藤島大

    1961年東京生まれ。都立秋川高校、早稲田大学でラグビー部に所属。雑誌記者、スポーツ紙記者を経てフリーに。国立高校や早稲田大学のラグビー部のコーチも務めた。J SPORTSなどでラグビー中継解説を行う。著書に『ラグビーの世紀』(洋泉社)、『知と熱』(文藝春秋)、『北風』(集英社文庫)、『序列を超えて』(鉄筆文庫)

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