中央大教授刺殺事件 元教え子が教授を逆恨みでメッタ刺し | FRIDAYデジタル

中央大教授刺殺事件 元教え子が教授を逆恨みでメッタ刺し

平成を振り返る ノンフィクションライター・小野一光「凶悪事件」の現場から 第32回

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送検のために警察署をでる山本竜太。目を閉じて終始うつむいたままだった
送検のために警察署をでる山本竜太。目を閉じて終始うつむいたままだった

犯行現場となったトイレで、逆恨みした相手がやって来るのを30分以上待つ男。やがて姿を見せたその相手に対し、男は事前に2枚の刃を1つに重ねる改造を施した、刃渡り約27㎝の枝切りバサミを使い、40箇所あまりをメッタ刺しにして命を奪った――。

2009年1月14日、東京都文京区にある中央大学後楽園キャンパス内にある4階男子トイレで、同大学理工学部の高窪統教授(死亡時45)が何者かに刺殺されるという事件が発生した。

現役の大学教授が勤務先の大学内で殺されるという衝撃的な事件は、その約4カ月後の5月21日に、同教授の卒論ゼミの元教え子だった男が逮捕されるという結末を迎える。

逮捕された男の名は山本竜太(当時28)。彼は04年3月に中央大学理工学部を卒業して大手食品製造会社に就職したが、職場になじめず、わずか1カ月半で退職。その8カ月後にはハローワークで見つけた中小の電子機器メーカーに技術者として再就職するも、試用期間中に解雇されてしまう。その後も別の電子機器メーカーに就職するが続かず、ホームセンターやパン製造工場などでのアルバイト生活を送っていた。警視庁担当記者は言う。

「山本は取り調べに対して、『卒業前の忘年会で高窪教授に話しかけられず、寂しかった。自分は隅でひとりで酒を飲んでいた。疎外されていると感じた』と供述しています。さらに希望していた電気関係の職に就けなかったことや、転職を繰り返したことも高窪教授のせいだと思い込んだことが、犯行動機だと捜査関係者は見ています」

だが、高窪教授は山本を邪険に扱うどころか、人一倍彼の行く末を心配していた。両者を知る同大学のゼミ生は取材に対してこう話す。

「山本は極端なほど周囲とのコミュニケーションが苦手だったので、高窪先生は彼のことをかなり心配していました」

別の同級生によれば、山本はおとなしく、人と口をきく際もか細い声で、異常なほどに周囲とコミュニケーションが取れなかったという。前出の警視庁担当記者も説明する。

「当時、高窪教授のゼミには11人の同級生がいて、そのうち山本を含めた7人が就職、2人が大学院へ、あとの2人が留年しています。就職組のうち、山本を除く6人はみな大手電機メーカーなどに就職しましたが、山本だけが食品関連の会社に就職したので、周囲は不思議に思っていたそうです。彼は、ゼミ生が集まる飲み会などには顔を出さなかったそうですが、そんな時に高窪教授は山本のことをいつも心配していました。実際に『あいつが心配だ』という言葉や、『(山本は)社会にうまく適合できないから、なんとかしなければならない』という言葉を口にしています。また、直接山本に声をかける際には、ほかの生徒とは違い、かなり気を遣ったような喋り方をしていたようです」

山本は大手塗料メーカーに勤務する父親と、ピアノ講師の母親との間に生まれた。おとなしく勉強のできる少年だった彼は、都立高校に進学。一人息子だったことで母親から溺愛されており、その過保護ぶりは校内でも際立っていたようだ。高校時代の同級生は次のように振り返る。

「高校2年のときでしたが、山本のお母さんがなにかの件で学校に文句を言いに乗り込んできたことがあり、みんなで『すげえなあ』と話をした記憶があります」

高校時代の山本竜太。同級生によると学校に制服はなく、服装は地味だったとのこと
高校時代の山本竜太。同級生によると学校に制服はなく、服装は地味だったとのこと

また大学に入学後も、母親が過剰ともいえる反応で息子を庇っていたことを、近隣住民は証言する。

「お母さんは彼のことを『竜ちゃん』と呼んで、とてもかわいがっていました。彼も『学食はまずい』と、お母さんの作った弁当を持って大学に行っていたくらいです。1年生のときに単位がほとんど取れず、2年生に進級するときにはすでに留年が決まっていたそうですが、お母さんが『大学は要領のいい子にばかり単位を与えて、うちの子にはくれない』と憤慨していたことがありました。なんでも、そのことで大学に抗議に行ったそうです」

こうした母子関係は就職後も続き、約1カ月半で「一身上の都合」により退職した最初の就職先では、山本が入った社員寮に母親が挨拶に訪れた姿が目撃されている。また、3番目に勤めた電子機器メーカーでは、試用期間が終わる頃に、「機械の操作が難しい」と山本がみずから辞職を願い出たにもかかわらず、その翌日に母親が会社に「もう少しお願いできないか」と雇用の継続を懇願。山本自身も翻意して再雇用を求めている。しかしそれが逆効果となり、「当初は本採用する予定だったが、母親に説得されて態度が変わるようでは、取引先に迷惑をかけるかもしれない」との理由で、再雇用を断られていた。

そうした母親との関係を見直すためか、山本は07年に神奈川県平塚市で一人暮らしを始める。そこでホームセンターとパン工場でのアルバイトを掛け持ちするようになり、パン工場からは「正社員にならないか」と持ち掛けられていた。だが、山本は「パソコン関係の仕事がしたい」と誘いを断り、08年6月にはそのアルバイトも辞めてしまう。パン工場の元同僚は話す。

「誰ともしゃべらない。人間関係も仕事も不器用で、ちょっとしたトラブルでも対応できませんでした」

逮捕後、平塚市にある自室から押収されたノートには、「人としゃべらない自分を変えないといけない」や「性格を変えないと」などの記述があり、人とうまく付き合うことができない彼自身の苦悩も窺える。だが、それが次第に高窪教授への逆恨みというかたちで、殺意を募らせていったのである。

遺体の第一発見者となったスイス人元留学生は、そのときの様子を鮮明に記憶していた。

「事件の当日は試験勉強のために大学に泊まり込んでいました。午前10時20分頃、トイレに行こうとしたら、トイレの扉がドンと強く閉まる音がして、前方から来た黒っぽいグレーのコートに黒いニットキャップ、黒縁の眼鏡をかけた男とすれ違いました。それでトイレの扉を開けると、なかに1mくらい入ったところで、こちらに頭を向けてうつ伏せの状態で倒れた高窪教授がいたのです。床は血まみれで、壁にも膝下の高さまで血がついていました。捜査に協力した私は、3月に留学を終えてスイスに帰国していたのですが、5月初旬に日本の警察から、渡航費や滞在費を支払うから日本に来て協力してほしいと言われ、来日したのです」

この元留学生は警察署で、何人かの男が写っている写真を見せられたという。

「そこにあった写真を見て、『私が目撃した人物は彼だと思う』と答えたのが山本でした」

山本が逮捕されたのはその翌日のこと。精神鑑定の末、責任能力が認められて起訴された彼に対して、東京地裁は10年12月に懲役18年(求刑懲役20年)の判決を下しており、検察側と弁護側双方からの控訴がなかったことから刑が確定している。

  • 取材・文小野一光

    1966年生まれ。福岡県北九州市出身。雑誌編集者、雑誌記者を経てフリーライターに。アフガン内戦や東日本大震災、さまざまな事件現場で取材を行う。主な著書に『新版 家族喰い 尼崎連続変死事件の真相』(文春文庫)、『全告白 後妻業の女: 「近畿連続青酸死事件」筧千佐子が語ったこと』(小学館)、『人殺しの論理 凶悪殺人犯へのインタビュー』 (幻冬舎新書)、『連続殺人犯』(文春文庫)ほか

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