高倉健が最後に愛した女性 手記に記した“2人の17年”の違和感
健さんの最期を看取った小田貴月さんが手記を出版。記されたエピソードには不自然さが
「一読して思ったのは、『高倉健、その愛。』という書名にもかかわらず、高倉健と小田貴月(たか)という二人の間に全然”愛情”を感じないということ。健さんの発言として出てくる言葉は『あれをしてほしい、これをしておいてくれ』という注文か、回想です。発言は常に一方通行で、愛情ある相手との”会話”とは到底思えない。まるで健さんのインタビュー記事のまとめを読んでいるような印象を受けました」
こう語るのは、『高倉健 七つの顔を隠し続けた男』の著者であるジャーナリストの森功氏である。
高倉健(享年83)の没後、その存在が明らかとなった”養女”の小田貴(たか)さんが、貴月と名前を改めて手記を出版した。そこにはこのようなことが書かれている。
高倉健との出会いは、’96年の香港。有名中華店に雑誌取材で赴いた彼女は、偶然そこで食事中の高倉健と鉢合わせする。映画スターの食事の邪魔をしないよう店内撮影をしばらく待っていたところ、高倉が退出時に「お気遣いいただいて、どうもありがとうございました」と声をかけてきたという。森氏が続ける。
「双方とも他のスタッフが同席していた中での出来事で、本人も〈すれ違いに近いものでした〉と書いています。それで店のスタッフが後を追いかけて人数分の名刺をもらってきた、とある。高倉健のような俳優が、そんなふうに初対面の人に名刺を配るでしょうか。作り話とは言いませんが、不自然な印象を受けました」
高倉健は’14年4月、悪性リンパ腫で入院、闘病むなしく同年11月に死去している。貴月さんは、その死を親族にも一切知らせず、火葬場で密葬。生前に高倉が購入した墓地は更地にされ、本人の遺骨は散骨された。自宅は取り壊され、愛車やクルーザーも処分、40億円と言われる財産は、すべて彼女のものとなった。
高倉健の実妹を含む近親者に取材を重ねた森氏は、こういぶかる。
「手記の宣伝オビには〈人知れず2人で暮らした17年の日々。〉という記述がありますが、本文中では、同居していた、とはひとことも書かれていないのです。
彼女の存在を唯一知っていた高倉プロの元専務(高倉健とは従兄弟の関係)は、貴月さんから度々書状を受け取っており、それには健さんの自宅とは違う住所が常に書かれていた。また高倉プロの事務員も、ずっと彼女の存在を家政婦さんだと思っていたそうで、それが突然、恋人として振る舞い、戸惑ったそうです。第2章には、高倉邸のどこに何がしまってあるか、どんな食事メニューだったか、などが詳細に書いてありますが、家政婦さんだからこそ、わかるような記述に思えて仕方ありません。
健さんが病気になった後、彼女が泊まり込みで看病していたことは、元専務たちも認めています。この頃、貴月さんは養女となっており、その経緯について彼女はインタビューで”近親者でないと病室で看病ができないから”と話しています。が、財産の処分については『高倉の遺志です』とだけでそれ以外は答えない。
冒頭で、貴月さんは健さんから〈僕のこと、書き残してね〉と言われたとあり、彼の死去後、資料ボックスを前に〈高倉が言い残した宿題にとりかかりました〉と記述しています。つまり、この手記は、小田貴月という女性が、高倉健について一生懸命、勉強した成果が書いてある、ということではないかと思うのです」
二人の関係の真実は、わからない。最後まで身の回りの世話をしてくれた女性に対する感情は、愛ではなく感謝だったのかもしれない――。(一部敬称略)
『FRIDAY』2019年11月22日号より
- 撮影:等々力純生、足立百合(4枚目写真)