50年間ユニフォームを着続けた内田順三の告白「清原が泣いた日」

松井秀喜、落合博満など名打者に慕われ続けた元コーチが明かす秘話

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名選手たちから贈られてきたバットを前に、37年の指導者生活の思い出を語った

1970年にヤクルト入団以来、現役、指導者として50年間ユニフォームを着続けた男が、静かにユニフォームを脱いだ。今季、巨人での巡回コーチを最後に37年間のコーチ生活にひと区切りをつけた内田順三氏だ。「作る、育てる、生かす」を信条に巨人で16年、広島で21年、指導を通して接してきた、球史に名を残すスラッガーたちとの秘話を明かした。

先日、キヨ(清原和博)が日米のプロ野球へ挑戦する公開トライアウト(「ワールドトライアウト2019」)の監督を務めることが発表されて、野球界復帰への光が少し見えた。道が開けてくれたらいいね。とにかく野球に対して実直な男だから。

出会ったときの印象もそうだった。キヨが97年に西武から巨人にFAで移籍してきたとき、私は巨人の一軍の打撃コーチだった。春季キャンプでのこと。宿舎の2階にある、選手がバットを振れる畳部屋に私が好きなコーヒーを片手に観に行くと、キヨが1人でバットを振っていた。「キヨ、ご苦労さん」と話しかけても、反応はなく、挨拶もしない。それでも私は、コーヒーを飲みながら黙って見ていた。キヨは部屋の隅でガラスに映る自分の姿を見ながら日によって30分から1時間ほどスイングして終える。「ご苦労さん」と言っても返事はない。キヨは毎日、同じ時間にバットを振りに来た。他の選手はまだ遠慮があるのか、キヨが振っているときにはその部屋に誰も来なかった。そんな2人の時間が1週間以上続いた、ある日、キヨから「内田さん、僕のスイングはどうですか?」と声を掛けてきた。少し心を開いてくれたんだと思う。西武の関係者などからは、キヨはOBなどが球場に来て5分、10分見ただけで欠点を指摘してきたり、(苦手としていた)インサイドはこう打て、と言われたりするのを嫌がると聞いていた。自分は必死に練習を積み重ねてやってきているのに、ちょっと見ただけで俺のことがどれほどわかるんだ、と。そんな気質を知っていたから、私はキヨの方から来てくれるのをジッと待っていた。

キヨのほうから初めて尋ねられたとき、「こことここを意識してやっているんだろう」と返した。毎日、見ているからやっていることはわかる。「そうなんです。ここがどうしてもうまくいかないんです」と、自分がやっていることを理解してもらえたことが嬉しかったようで、すごく喜んでいた。アドバイスを伝えると、「わかりました。明日から、それをやってみます」と素直に受け入れてくれた。そこから信頼関係を築いていけたように思う。

キヨに出会う前はカープ(広島)で11年、その後、94年から巨人の若い選手を指導していた。でも、キヨほどの選手になれば当然、「作る」「育てる」という段階じゃない。コーチとしてやることは、彼の能力を「生かす」ことだった。

キヨは人前でコーチングをされることを嫌った。だから、シーズン中に状態が悪いとき、試合前のフリーバッティングでは、バッティングケージの後ろからあれこれ言うのではなく、私が自らセカンドのポジションあたりに立って「俺を狙って打ってこい」とあらかじめ伝えた。私はセカンドの位置からキヨの打撃フォームを見て、肩が開かないように、バットの軌道がインサイドアウトになるようにチェックしていたんです。

松井や落合から教わったこと

2005年4月、清原和博は通算500号本塁打を放つと、使用バットを内田順三氏に贈った

私の前で悔し涙をこぼしたこともあった。2000年のオープン戦で、まだ寒いから出なくてもいいと言われていたけど、キヨは前年に満足な成績を残せず、この年に懸ける思いが強かった。オフには肉体改造トレーニングをし、酒も断って臨んでいた。年明けには大きな字で「力を貸してください」と書いた年賀状を私に送ってくれていました。しかし、この試合で肉離れをやってしまった。キヨが帰京する前、私が宿舎の部屋を訪ねると、「内田さん、今日は徹底的に飲みます」と涙を流した。どれだけ辛抱してやってきたかわかっていたから、「今日くらいはいいんじゃないか」と言ったことを覚えている。

私が2002年に巨人を離れることがわかると、便せん5枚くらいに出会いからなにから綴った手紙をくれた。これには私の女房もすごく感激していた。キヨはやんちゃ坊主なところもあるけど、真っすぐで漢気がある。好きな男だ。だから、事件のことは残念だったんだけど、また野球界で頑張る姿が見たいですね。

私が最初に巨人を退団した同じタイミングでメジャーに行った松井秀喜が、巨人に入団してきたのは96年。高卒とは思えない、すでにプロで10年やっているんじゃないかという大きな体をしていた。もちろん、中身はまだそこまで伴っていないけど、背中からなにから立派な体をしていて驚かされた。内面もそう。甲子園での5打席連続敬遠だったり、高校のときからマスコミに取り上げられてきたこともあるのか、話していてもそうだし、取材対応、言葉遣いなども大人だった。ただ、不器用なタイプで、センスの塊というわけでもなく、コツコツと努力して自分のバッティングを作っていた。一軍に上がってからも「内田さん、今日、僕のバッティングどうでしたか」とよく聞いてきた。ナイターを終えて寮に帰ってきて、彼が食事を済ませた後、あの打席はどんな感じだったという話をした後、松井は30分、長ければ1時間くらいスイングすることをルーティンにしていた。

松井は長嶋さん(茂雄監督、当時)が「4番1000日計画」ということで毎日、マンツーマンで指導していたけど、長嶋さんがどんなアドバイスをしたのかをよく松井から聞いていた。「『構えた姿を後ろから見られて、今日はもういいよ』と言われました」とか、「バットスイングの音を聞いていて、それが変わったからとOKが出ました」とか。勉強させてもらったし、そうした話はほかの選手も知っていたから、指導中に長嶋さんをまねして、背中を見て「おっ、もういいよ、おまえ」なんて言いながら、リラックスさせたりもした。長嶋さんには独特の感性があって、よく自分の目から見た投手が投げるボールの仮想の「ライン」を作る、というのを話していたみたい。松井は構えて投手を見た後、顎を引いて下を見ていたけど、あれはその「ライン」を作るための動作だったんだと思います。

勉強になったという意味ではオチ(落合博満)とやれたことも私には大きかった。94年、同じタイミングで巨人のユニフォームに袖を通したけど、その時すでに自分のスタイルを作り上げていた。キャンプでも午前中まではチーム練習やノックを受けるけど、午後になったらコーヒーとアンパンとタバコなどを持って、その当時、設置されたエアドームにこもった。緩いカーブマシンを20、30分打ったら休憩を取って、一服して、コーヒーを飲む。それを12時半から17時ころまで繰り返していた。しかも、時折、マシンに体を正対させて打ったりする。オチは右肘を体にこするようにして柔らかく振ってボールを的確にとらえることができる。でも若くて、まだバッティングが下手な子にやらせると、ボールをバットで叩こうとして失敗したら、マシンから出たボールが体にドーンとぶつかる。オチの肘の使い方、バットコントロールは秀逸だった。

ティーバッティングで私がオチに向かってトスを上げたときも、流し打ちをイメージした時は私の体の右横、30~40センチくらいのところに打ち返してくる。「オチ、危ないよ」と言うと「いや、内田さん、絶対に当てないから」って。それだけバットコントロールに自信を持っていた。三冠王3度の技術を学ばせてもらった。そんな経験が、その後、若い選手を指導し続ける上で、貴重な財産になったんです。

2002年、巨人最後の年に松井秀喜が50号本塁打を打った後、松井本人が内田氏に持ってきたバット(左)。右は清原のバット
左は落合博満から贈られたバット
選手たちから贈られてきたバットの数々。右から落合博満、清原和博、野村謙二郎、阿部慎之助、嶋重宣、新井貴浩、高橋由伸、松井秀喜、前田智徳

Photo Gallary5

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