鈴木誠也、江藤智、嶋重宣 広島カープの名スラッガーが若かった頃

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指導をしながら気づいたことがあれば書き続けたメモ帳を手に振り返る内田順三氏

巨人と広島で通算37年間、打撃コーチをつとめた内田順三氏は今季限りでユニフォームを脱いだ。「作る、育てる、生かす」を信条にしていた内田氏は、質の高い選手が豊富にいる巨人では、その才能を「生かす」ことに重きを置いたが、指導者生活をスタートさせ、計21年間在籍した広島では、選手とともに汗を流し、知恵を絞り、「作る」「育てる」に注力した。数多くのスラッガーの拠り所になり続けた名伯楽が目指したもの、それは「余韻を残せる」コーチだった。

鈴木誠也が大成できた理由

先月、国代表の世界一を決める「プレミア12」で4番の重責を大会MVPで見事に応えた鈴木誠也は、2013年に広島に入ってきたときからその素材の素晴らしさを感じさせた。前田智徳が新人のときと同じように、動きにスピードがあって、肩が強く、バッティングも遠くにではなかったが、強い打球が打てた。ただ、高校では金属バットを使っていたので後ろの手である右手の力が強くて、スイング軌道がアウトサイドインに入る傾向があった。

木製バット特有のバットのしなりをよりうまく使えるようにするために、誠也(鈴木)には体に正対させるようにネットを立てて、その間にスタンドティーを置いて打たせる練習を数多くやった。アウトサイドインの軌道になるとバットはネットに当たってしまう。ネットに当たらないようにインサイドアウトで振るには、右肘は体をこするようにして使わなければいけない。最初はバットのヘッドが寝ない高い位置にボールを置いて、それを段々と低い位置に下げていった。これは徹底してやらせた。

ファーム(二軍)でも、勝ちにこだわってプレーすることは大切だけど、結果としての勝ち負けは重要ではない。私は、誠也の能力なら(本職である)外野はいつでもできると思っていたから最初はショートを守らせた。内野の動きなんてわからないし、エラーもすれば、暴投もする。でも、ショートでゴロの捌き方、野球観を多角的に磨いてほしかった。

本人もよく練習したし、ウェイトトレーニングにも励んで体が強くなっていくと、打球の飛距離も伸びていった。車でいえばクラウンの2000㏄からベンツの5000㏄になったように排気量が上がった感じ。土台である下半身がしっかりすると、スイングも変わっていった。パワーは0の状態から振り始めて、1、2、3と徐々に上がってボールをとらえるインパクトの瞬間に10になって、その後は下がっていくのが普通のバッター。しかし、これは巨人の坂本勇人も同じなんだけど、誠也も10のあと、さらに11、12とさらに力を伝えようというイメージを持ってスイングをしている。ソフトバンクの柳田悠岐もフォロースルーで背中を叩くくらい振っている。オリックスの吉田正尚、広島なら松山竜平もそうだね。

中距離打者として入ってきた鈴木誠也はホームランも打てる打者に成長した(時事通信)

誠也はこちらが期待した以上の選手になった。私が巨人の二軍打撃コーチをつとめていた2018年、打率3割2分、30本塁打、94打点と素晴らしい成績を残した。ところが、そのシーズンの終わりに誠也から電話がかかってきて、「バッティングフォームを変えようと思っている」と相談された。私は「それだけの数字を残しているんだから変える必要はないんじゃないか。シーズンが終わって、秋のキャンプの課題としてやればいいんじゃないか」とだけ伝えた。でも、その誠也の向上心には頼もしさを感じたね。そして、そういう会話ができるのはコーチ冥利に尽きると嬉しかった。選手とコーチという間柄ではなくなっても、繋がりが途切れない。そういう付き合いができるようなコーチになるのが私のテーマでしたから。

1990年代にカープの主軸をつとめた江藤智とは、彼が引退して、巨人で一緒にコーチとして仕事するようになったとき、彼が広島で4番に成長するまでの話をしたことがある。

江藤は入団したときから打球の飛距離は群を抜いていた。強化選手としてとにかくバットを振らせた。足でしっかり土をつかんで下半身を安定させるために裸足でスイングをしたりもした。またノックで下半身強化を図り、江藤の土台ができたんじゃないかな。当時の江藤も必死だったし、何より体が強かった。江藤は当時について「夢中でわけがわからなかったですけど、すべてを素直に受け入れて乗り越えることができた。選手として成功して今、コーチをする上であのとき厳しくやってきたことが生きています」と言ってくれた。泥にまみれながらプロで生きる道を作った。そんな江藤と一緒にコーチをやれたのも幸せなことだった。

現在は西武の二軍コーチの嶋重宣も思い出深い選手の一人。私が嶋を初めて指導したのは2003年の秋季練習。その年、ウェスタンリーグの首位打者になっていたものの、1軍では2打席に立っただけで9年目を終えた嶋に対し、球団は戦力外を通告し、トライアウトを受ける予定になっていた。しかし、練習でバッティングを見ていると、ボールに対して良いコンタクトの仕方をしていた。私は球団に残してもらえるようにお願いし、嶋には「私は先入観を持たずにフラットな目で見る。今の嶋には失うものは何もないんだから、頑張ってみなさい」と伝えた。彼もそこからずっと必死に頑張ってくれて、翌シーズンに首位打者を獲得した。その嶋も今、自分の経験を踏まえて西武の二軍の選手に相当バットを振らせているらしいね。

指導者人生の原点を作ってくれた選手

2004年に首位打者になり、「赤ゴジラ」と命名された嶋重宣。この年の日米野球でメジャーリーグの名投手、クレメンスからもタイムリーを放った

振り返った3人に共通するのは、「量で質を作る」という言葉に集約されますが、その原点になってくれたのが、私がコーチ生活をはじめて3年目に入団してきた正田耕三だ。ドラフト2位で入ってきたけど身長は170センチ。入団当初は代走や守備要員くらいでしか出られなかった。もっと試合に出るために、右打ちからスイッチヒッターに挑戦することを勧めると、正田はがむしゃらにやってくれた。

最初は投手との距離を半分にしてマシンを打たせた。10日間くらいはバットにかすりもしない。それでも疑うことなく続けてくれた。やがてチップできるようになり、ついには芯に当たるようになった。試行錯誤をしながらマンツーマンでともにやったその方法は、その後の選手指導でも1つの引き出しになった。「習うより慣れよ」で、正田は毎日1000球近くボールを打ち続けた。そして、2年連続で首位打者を獲る選手へ成長してくれた。私のコーチ人生は、この成功体験があったからこそです。

選手を引退してコーチになったとき、熱い気持ちと情熱、そして辛抱だけは絶やすことなく持ち続けようと思って始め、いろいろと勉強もして、とにかく夢中でやってきた。内田がたくさんの選手を成功させたとか、いろいろ持ち上げて書いてもらうこともあるけど、実際には私がどうこうじゃない。選手たちが頑張ったから伸びたんです。むしろ、たくさんのことを学ばせてもらったし、これだけ長い年数をやらせてもらえたのも選手たちに恵まれたおかげ。みんなには感謝しかありません。

2005年当時、現役選手だった野村謙二郎が1999本目の安打を打った試合後の夜、内田氏の自宅にバットを持ってきたという、その翌日、野村は2000本安打を達成した

  • 撮影西﨑進也(内田順三氏)

Photo Gallary5

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