【安倍総理も必読】吉田茂が現代ニッポンの政局に蘇る?

『大宰相』第一巻「吉田茂の闘争」 解説:手嶋龍一(外交ジャーナリスト・作家)

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『歴史劇画 大宰相』「第一巻 吉田茂の闘争」の登場人物(一部)著:さいとう・たかを 原作:戸川 猪佐武

現在の日本、政治家はすっかり小粒となり、父や祖父の業績を汚しているかのような二世・三世政治家が溢れている。首相在任期間が歴代最長となった安倍晋三氏も、その振る舞いは、あまりに不誠実だ。

そこに、「今しかない!」というタイミングで、さいとう・たかを氏の“異色作”が蘇った。『ゴルゴ13』『鬼平犯科帳』『仕掛人・藤枝梅安』などで知られる人気劇画家が描いたのは、「狙撃手」でも「火付盗賊改方長官」でもなく「政治家」。タイトルはズバリ『歴史劇画 大宰相』だ。

本作に登場する政治家たちは今とはまるで違う。首相たちは、まさに”大宰相”の名に恥じず、誰もがパワフルで信念があり、粘り強く(執念深く)、魅力的だ。自分の主義や思想を抱きつつ、派閥抗争、与野党対立、国際問題などに立ち向かう。奇妙な感想だが、「まるで劇画!」とも言えるほどに個性的な登場人物が次から次へと登場し、難局を切り開き、あるときは時流に呑み込まれてゆく……。

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『歴史劇画 大宰相』第1巻の主な登場人物①
『歴史劇画 大宰相』第1巻の主な登場人物②
『歴史劇画 大宰相』第1巻の主な登場人物③
『歴史劇画 大宰相』第1巻の主な登場人物④

原作は、政治評論家の戸川猪佐武(いさむ)による実録政治小説『小説 吉田学校』(全8巻)。1983年には同名映画『小説 吉田学校』として映像化されている。監督は『日本沈没』『八甲田山』などで知られる森谷司郎が務めた。

主人公・吉田茂森繁久彌が演じ、最大の政敵である三木武吉若山富三郎が扮した。この二人だけでも大迫力だが、以下、他のキャストも抜粋すると……。

鳩山一郎:芦田伸介 /河野一郎:梅宮辰夫(『いだてん』では桐谷健太が演じた。河野太郎は孫) /佐藤栄作:竹脇無我 /田中角栄:西郷輝彦 /中曽根康弘:勝野洋 /三木武夫 :峰岸徹 /麻生太賀吉(麻生太郎の父):村井国夫 /宮澤喜一:角野卓造 /福田赳夫:橋爪功 /麻生和子(麻生太郎の母):夏目雅子……。

演じる側・演じられる側、どちらも見事なオールスターである。これだけのキャストで映画化される題材・原作を、さいとう・たかを氏が劇画化したのだから、面白さと分かりやすさも折り紙つきである。

外交ジャーナリスト・作家の手嶋龍一氏は、本書の解説で〈吉田茂はいま、現代ニッポンの政局に蘇ろうとしている〉とし、さらにこう記している。

〈若い世代の読者は、平易な語り口と魅力的な劇画で蘇った本書を通じて、吉田茂の素顔と向き合ってみてはどうだろう。ノンフィクション作品『大宰相 吉田茂の闘争』を手にとることで、戦後日本の出発点に立ち返り、明日のニッポンの針路はどうあるべきか、自ら考え、探りあててほしいと思う。〉

まずは第1巻「吉田茂の抗争」、第2巻「鳩山一郎の悲運」、第3巻「岸信介の豪腕」までの復刊が決まっている。

全10巻が復刊されれば、第4巻「池田勇人と佐藤栄作の激突」、第5巻「田中角栄の革命」、第6巻「三木武夫の挑戦」、第7巻「福田赳夫の復讐」、第8巻「大平正芳の決断」、第9巻「鈴木善幸の苦悩」、第10巻「中曽根康弘の野望」と、大宰相たちの生き様が俯瞰できる。

若い読者はもちろん、安倍晋三総理や麻生太郎副総理にも、この正月休みを利用して読んでもらい、祖父や父たちの真摯な働きっぷりを噛みしめていただきたいところだ。

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《解説:全文掲載》 手嶋龍一(外交ジャーナリスト・作家)

※無断転載厳禁

吉田茂はいま、現代ニッポンの政局に蘇ろうとしている。

アジア・太平洋戦争に敗れ、七年の永きにわたって連合軍に占領された日本。焦土と化した敗残の国を率いて独立を取り戻し、国際社会への復帰のありようを定めたのは、時の宰相、吉田茂だった。当時の吉田内閣は、アメリカが求める再軍備を峻拒(しゅんきょ)し、戦勝国の軍事力に身を寄せる道を選び取った。冷たい戦争のさなか、西側陣営の一員となり、持てる力の全てを注いで経済の再建に邁進していった。その果てにこの国は一時、アメリカに次ぐ世界第二の経済大国に駆けあがった。だが、東西冷戦が終わって三十年の歳月が経ってみると、この国の繁栄の礎となった安全保障をめぐる日米の盟約も、根底から揺らぎつつあるように見える。そうした時だからこそ、吉田茂という政治家が下した歴史的決断に遡(さかのぼ)り、いまいちど戦後の風景を見渡してみたい。

ワシントンからの号砲

「トランプ大統領は日米安全保障条約を破棄する可能性を側近に漏らしていた」

二〇一九年六月のG20大阪サミットを前に、衝撃的なニュースがワシントン発で報じられた。だがドナルド・トランプが放つ号砲はこれにとどまらなかった。トランプ大統領自らがテレビ・メディアのインタビューに応じて日米同盟の在り方に不満をぶちまけた。

「ニッポンが攻撃されたら、我がアメリカは命がけで戦うが、我々が殺(や)られてもニッポンはソニー製のテレビでただ見物しているだけだ」

永きにわたって東アジアの平穏を担保してきたはずの日米安全保障条約は、アメリカに一方的な防衛義務を負わせる「不平等条約」だと大統領自身が難じたのである。導火線となったのは、核合意をめぐって高まるアメリカとイランの緊張だった。安倍晋三総理がイランに乗り込み、最高指導者ハメネイ師と首脳会談に臨んでいたさなか、ホルムズ海峡を航行していた日本のタンカーが何者かに攻撃されて炎上した。ニッポンは中東の石油に大きく依存しながら何もせず、アメリカだけがなぜ無報酬で経済大国のシーレーン(海上交通路)を守らなければならないのか。「ディールの達人」として知られる大統領の狙いは明らかだった。日本や英国など関係国が多国籍艦隊を組んで共同で海上警備にあたり、ホルムズ海峡の安全な航行を確保すべきだというのである。国会という名の「箱庭」で戦われていた日本の安全保障政策は、トランプの号砲に晒(さら)され、現実の国際政局に投げ込まれ、日本政府に新たな決断を迫りつつある。

非対称の同盟

サンフランシスコの地に赴き、全権の吉田茂がひとり署名した日米安全保障条約。太平洋を跨ぐ盟約は、敗戦国日本が主権の一部を犠牲に供して米軍に基地を提供しながら、アメリカには日本を防衛する義務を課していない。日本にとって不平等な片務条約だったのである。

それゆえ安倍晋三の祖父にあたる岸信介(のぶすけ)が総理となって旧安保条約の改定に取り組み、新安保条約ではアメリカの対日防衛義務がようやく明記された。一方の日本は米軍に基地を提供し駐留経費の多くを負担することになった。日米が担う義務は非対称だが、双務的な条約体制がここにようやく整ったのだった。

だが、そうした過去の経緯を知ろうとも、認めようとしない大統領がアメリカに現れた。自分たちの国土や船舶は自らの手で守るべきだと主張し、現行の安保条約に非を鳴らす。東京が攻撃されればアメリカの若者が命を犠牲にする覚悟で駆けつけるのに、ハワイが攻撃されても日本は助けに来ない。そうした訴えは、草の根の選挙民の心を鷲掴みにするはずと思い込んでいるのだろう。だが、日米の盟約を結び、運用してきた歴代の大統領は、日本がアメリカの国土を防衛する軍事力を備えることなど誰ひとり望まなかった。トランプという異形のリーダーが現れたいまこそ、歴史の襞(ひだ)に分け入り、埋もれた実相に触れることは意義があるだろう。戦後の針路を定めた宰相の足跡を簡潔に辿ってみよう。

叛骨のひと

吉田茂は、一八七八年(明治十一年)、土佐の自由民権運動の闘士、竹内綱(たけのうち つな)の五男として生まれた。幼くして豊かな実業家、吉田家の養子となり、東京帝国大学法科大学で学び、二十八歳で外務省に入って職業外交官となった。入省して二十年、在外での勤務は、動乱が続く中国大陸が大半だった。張作霖(ちょう さくりん)が割拠する奉天では総領事を務めている。当時の日本外交にとって、欧米こそ華やかな活躍の舞台であり、彼は陽の当たらない裏街道を歩んだと言っていい。

その一方で吉田茂は、婚姻を通じて明治の元勲、大久保利通の次男、牧野伸顕(のぶあき)の女婿となったことで政界の中枢に繋がりを得ていた。奉天での活躍が田中義一(ぎいち)総理に認められて外務次官に抜擢され、後にはイタリアとイギリスの大使を歴任している。吉田茂は生来の叛骨精神もあって軍部としばしば衝突して親英米派とみなされ、外務大臣への就任を阻まれてしまう。だが官界を退いても彼の行動は衰えを知らなかった。

日本が対米英戦争への坂道を転げ落ちていくさなかにあっても、吉田茂は戦争を回避すべく懸命の努力をやめなかった。その甲斐もなく対米英戦争は始まり、敗色は日ごとに濃くなっていく。吉田茂は、宮中や軍部の要人と連携しながら、密かな終戦工作を繰り広げるが、陸軍憲兵隊に睨まれて身柄を拘束されてしまう。だが、身を挺して軍部に抗ったこうした経歴は、敗戦直後の政界に吉田を登場させる資産となった。

終戦処理を担う東久邇稔彦(ひがしくに なるひこ)内閣に外相として起用され、幣原喜重郎(しではら きじゅうろう)内閣の外相を経て、ついに吉田茂に組閣の大命が下る。戦後初めての総選挙で第一党となった日本自由党の総裁、鳩山一郎が公職追放となったため、急遽首班となって第一次吉田内閣が発足したのである。だが、占領下の支配者は、連合国軍最高司令官のダグラス・マッカーサーだった。この最高権力者と渡り合った吉田茂は、戦前、戦中も軍部に迎合せず、戦後も誇り高き敗者であった。それゆえ、ふたりの間には仄かな信頼の絆が生まれ、天皇制の存続に道をつけることができたのだろう。

日本独立への決意

一九四九年、毛沢東率いる中国共産党が中国全土をほぼ掌握して中華人民共和国が成立した。そして翌年、中ソ両国は、日米を仮想敵とする友好同盟相互援助条約を締結。朝鮮半島は南北に引き裂かれ、冷たい戦争は東アジア全域を覆っていく。アメリカ本国では国防総省を中心に在日米軍基地を自由に使用できる占領の継続を望む声が根強く、講和条約を締結して早期の独立を達成することは容易ならざる情勢だった。

こうしたなかで片山哲、芦田均の両政権が相次いで瓦解した後を受けて、吉田茂が率いる民主自由党は、戦後二度目の総選挙で大勝。第二次吉田内閣を発足させて政権の座に返り咲いた。その最大の責務は占領に終止符を打つことにあった。だが、国内では学界や言論界に加えて経済界にすら、ソ連や中国を含めた全面講和論を支持する声が根強く、アメリカなど西側諸国との多数講和には、前途に多くの試練が待ち構えていた。

東西両陣営の冷たい戦争のさなか、アメリカ、ソ連、中国が合意できる平和条約体制など到底望めない。そうした全面講和が実現したとしても、日本にとっては甚だ不利な条約になってしまう。吉田茂はそう主張して、西側陣営との多数講和を敢然として選びとった。高坂正堯(まさたか)はその著書『宰相吉田茂』(一九六八年、中央公論社)のなかで、安保条約の署名に吉田ただひとりが臨んだ事績に触れ、歴史に責任をとる覚悟が滲んでいると次のように述べている。

「それは、ある仕事に自己の全てを注ぎ込んだ人間のみが持つことができる信念であった。彼は、自分が『戦後を作った政治家』であることを意識していたし、そこに責任と自信と誇りとを感じていた」

そしてアメリカ側が日本に再軍備を求め、東アジアでのアメリカの抑止力の一翼を担ってほしいという当時のジョン・フォスター・ダレス特使の要請をはっきりと拒んだのだった。

「吉田ドクトリン」を超えて

佐藤栄作、池田勇人、前尾繁三郎といった官僚出身者で溢れる吉田学校の系譜を継ぐ人材で、後に総理となる宮沢喜一蔵相がワシントンを訪れた折、筆者はマディソン・ホテルのスィート・ルームでふたりだけで話し込んだことがあった。

「だから、戦(いくさ)にだけは決して負けちゃいけませんぜ」

このひとの語りが、べらんめえ口調になると本音が覗く。話題は池田勇人蔵相の秘書官としてワシントンに乗り込んだ時の思い出に及んだ。講和の感触を探る一九五〇年四月の池田訪米である。池田・宮沢のふたりは、アメリカ政府から指定されたワシントン・ホテルに滞在した。

「いまも残っているでしょう。一泊がわずか七ドルのひどい宿だったぜ」

重要閣僚がかくまで粗末な扱いを受けたというエピソードに事寄せ、無謀な戦争を始めて負けた国家指導者の愚をあげつらい、敗戦国にはわずかの選択肢しか与えられていなかったと語って無念そうだった。

吉田から池田、宮沢へと受け継がれた戦後政治の系譜は、軽武装・経済重視を掲げる平和主義の真髄のように語られてきた。軍備に重きを置かないその思想は、時に「吉田ドクトリン」と呼びならわされた。だが、それは宮沢証言にあるように、敗戦国の手中にあった、かぼそい選択肢から選び取られた苦肉の策にすぎなかった。その内実を誰よりもよく知るゆえに、この知性派の政治家は、パシフィズム(平和主義)の美名に隠れて新たな国際環境に対応できず、自己改革に踏み出そうとしない戦後日本の危うさに気づいていたのだろう。

このひとが当初から抱き続けていた暗い予感は、湾岸戦争にニッポンが遭遇したことで的中してしまう。隣国クウェートを武力で踏みにじったイラクの不正義を前に為す術を知らず、国連の平和維持活動に加わる法的な備えすら持っていなかった経済大国。血も流さず、汗もかかず、すべてをカネで済ませようとする。そんな批判を浴びて、ニッポンは惨めにも立ちすくみ、沈黙するだけだった。

この国の安全保障政策は、戦後永く国会という「箱庭」の論戦を通じて形づくられてきた。それは湾岸戦争からイラク戦争へと続く現実のなかで揺れ動き、トランプという名の烈風に晒されて身をすくめている。こうした状況下にあるいまこそ、「戦後を作った政治家」吉田茂の足跡を辿ることは優れて現代的な意義があるはずだ。

「戦争は、勝ちっぷりもよくなくてはいけないが、負けっぷりもよくないといけない。鯉は俎板の上にのせられてからは、包丁をあてられてもびくともしない。あの調子で負けっぷりをよくやってもらいたい」(吉田茂『回想十年』)

吉田茂外相は、天皇の意を受けて終戦へのとりまとめを委ねられた鈴木貫太郎前総理からこう諭されたという。

若い世代の読者は、平易な語り口と魅力的な劇画で蘇った本書を通じて、吉田茂の素顔と向き合ってみてはどうだろう。ノンフィクション作品『大宰相 吉田茂の闘争』を手にとることで、戦後日本の出発点に立ち返り、明日のニッポンの針路はどうあるべきか、自ら考え、探りあててほしいと思う。

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