スクラムに執着し続けた…京産大ラグビー部の名将「大西健」の功績

藤島大『ラグビー 男たちの肖像』

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執着、泥臭さ、猛練習

その日、大阪の花園ラグビー場にいた。

全国大学選手権3回戦。同志社大学対筑波大学。午後2時キックオフ。試合が進むと、関西圏の記者や放送局の関係者がしきりにスマートフォンに目を落とす。

気になるのだ。埼玉県は熊谷。ひとりの男の最後になるかもしれぬゲームの行方が。

大西健、69歳、今季限りで勇退。

京都産業大学ラグビー部を監督として率いて47年目、関西の下部リーグから猛然とのし上がった軌跡、強豪の一角に名を刻む戦績、なにより、日本代表やトップ級選手を輩出した人材育成の積み重ねを思えば「勇退」で間違いない。ただし、本当の意味での勇退となるには熊谷ラグビー場での日本大学との攻防を制して、さらに勝ち進む必要がある。

「負けてますね。5点差」

終盤、そんな声が聞こえた。

やがて「終わりました」。

19対24。おしまいの笛の音が遠く北関東から流れてきた。

「どのレベル、どんなメンバーでも日本一を目指した。日本一を目指し、どれだけ努力をしたかに意味がある。悔いはないです」(スポーツニッポン)

こう言い切れる、いや、口にするのみならず実践できる指導者は少ない。

明治大学の、かの故・北島忠治監督の在任67年間を例外として、まれなる年長記録である。全国4強が計7度。あらためて「大西イズム」とも解釈できる京都産業大学のラグビーを考えたい。思い浮かぶのは以下のワードである。

スクラム徹底強化。

栄養合宿。

早朝の鍛錬。

並べてみて、気づくのだが、なにやら近年のジャパンの強化と重なるではないか。

「京産大のラグビー」は、押して押しまくる執着、泥臭さ、猛練習のイメージによって、つい「旧式」とくくられがちだ。でも発想は先を走っていたのである。

まずスクラム。粘り、まとわりつき、わずかな壁のひびから重油がドロリと流れてくるような推進力で、相手の8人をちぎっては捨てる。根底に激しく厳しい鍛錬があった。

卒業生の元日本代表プロップ、押しと忍耐の職人、長江有祐(豊田自動織機シャトルズ)の名言がすべてを表している。

「思い出したくない、いい思い出です」

30年前のスコットランド戦に勝利の背番号3、田倉政憲、4年前、南アフリカから金星のやはり右プロップ、山下裕史(神戸製鋼)ら日本ラグビー史に残るスクラムをOBが支えた。「猛」のつく反復練習の成果だった。カリフラワーもしくは揚げた餃子の耳の若者をトップリーグへ送り出し、隊列は途切れない。今季の3番、寺脇駿は日本航空高校石川ではレギュラーではなかった。たっぷり京都の地に鍛えられ、仕込まれ、宗像サニックスブルースへの入団が決まった。

彼でなければならなかった

大西監督自身は、天理大学ではスタンドオフだった。’73年、大学教員に採用され、指導を開始、同志社大学や関東の有力校とは比べられぬ選手層で伍すために、いわばスクラム特化の道を意識的に選んだ。京産大=スクラム。’90年度に関西Aリーグで初優勝。ひとつの穴を深く掘り進んだら、時間を要しはしたが、そこに広場は出現した。

体づくりへの目配りも早かった。恒例となる「栄養合宿」。近年の各校のようにデータで管理したわけではない。それでも、ざっと30年前には、ふんだんな米飯、鍋や肉料理で意識的に筋量を増やす取り組みを始めていた。

そして名物の早朝トレーニング。

スポーツライターの鎮勝也氏は、在阪のスポーツ紙記者のころを含め、1990年代初めから大西監督を取材してきた。

「自分に厳しい人」

四半世紀前、北区上賀茂のグラウンドの冬はたいそう冷えた。朝の5時過ぎ。みずから当時の柔道場のカギを開けにやってくる。そこで部員たちは筋力トレーニングに励む。

「正式には6時台に開始。でもキャプテンなどまじめな性格の部員はもっと早くに取り組みたい。だから監督みずから、先に待っている。自宅は近くではないのに」

いま朝の早いトレーニングは多くのチームが採用する。ジャパンもしかり。しかし関西の大学の意気盛んな青年監督は、エリートを倒す方策として昔々に行っていたのである。

「授業を終えての練習では、当時の大西監督は、どんなに寒くても、ウインドブレーカーを着なかった」。ジャージィに短パン、律儀に上げたストッキング姿。

「どうしてですかと聞くと、男はやせがまん、と一言」。目標とする伝統校のグラウンドには培った精神があらかじめ漂っている。遅れてきた者はそれをどう創造するか。大西健という個性をそのまま環境としたのである。

ついに全国制覇はかなわなかった。スクラムに執着したから「新興」とされたクラブをベスト4まで導けた。徹底の威力だ。スクラムに執着するあまり落とした勝負もきっとあった。徹しつつ応用できたら世界規模の名将だろう。大西健はそうではなかった。ただ、あの時代のあのクラブをここへ連れてくるためには、この人物でなくてはならなかった。

※この記事は週刊現代2019年12月28日・1月4日号に掲載された連載『ラグビー 男たちの肖像』を転載したものです。

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  • 藤島大

    1961年東京生まれ。都立秋川高校、早稲田大学でラグビー部に所属。雑誌記者、スポーツ紙記者を経てフリーに。国立高校や早稲田大学のラグビー部のコーチも務めた。J SPORTSなどでラグビー中継解説を行う。著書に『ラグビーの世紀』(洋泉社)、『知と熱』(文藝春秋)、『北風』(集英社文庫)、『序列を超えて』(鉄筆文庫)

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