追悼!昭和の香りをまとった「代打男」・高井保弘の世界記録

代打本塁打27本の世界記録を持つ高井保弘。しかし指名打者として起用されると、そのバッティングが一変していた!

  • Facebook シェアボタン
  • Twitter シェアボタン
  • LINE シェアボタン
  • はてなブックマーク シェアボタン
1977年の高井保弘。173センチ、90キロの体格で今の選手でいうと中村剛也(西武)を一回り小さくした感じか

師走に入って、高井保弘の訃報が飛び込んできた。74歳は若い。「代打本塁打27本」の世界記録を持つスラッガー。昭和の野球ファンには懐かしい名前だ。

筆者が高井保弘と聞いて、すぐに頭に浮かぶのは「指名打者」という言葉だ。
高井は1945年2月1日、愛媛県今治市生まれ。同世代には大杉勝男、大下剛史、安仁屋宗八などがいる。
今治西高時代から強打者として知られ、名古屋日産モーターを経てドラフト施行前の1964年に阪急に入った。
右打ちの一塁手として打撃には定評があったが、一塁守備に難があるとされ、石井晶、ダリル・スペンサー、長池徳二、加藤秀司らの控え選手の時代が長かった。
当時の西本幸雄監督は、毎日オリオンズ時代は好守の一塁手として知られただけに、高井を正一塁手に抜擢するのには抵抗があったのだろう。

高井は代打という少ないチャンスをしっかりモノにし、1973年末の時点で代打本塁打を10本打っていた。従来のNPBの代打本塁打記録は、中西太と穴吹義雄の13本。翌1974年は前半戦で3本の代打本塁打を打ち、2人に並ぶ。そして6月28日、平和台球場の太平洋戦の5回に長池徳二の代打で打席に立った高井は東尾修からこの年4本目の代打本塁打を打ち、NPBの通算代打本塁打記録を更新した。
これは大きな話題となり、この年のオールスター戦にも選出され、第一戦で松岡弘から代打逆転サヨナラ本塁打を打った。「代打男高井保弘」の名前は一気に轟いた。
この年、高井はシーズン代打本塁打6本のNPB記録も作った(1976年に中日・大島康徳が7本を打ってこれを更新)。

高井のオールスターでの活躍を見ていた在日特派員記者のネイト・マイヤーズが、指名打者導入の可能性について指摘した記事を週刊誌に書いたのがきっかけとなって、パ・リーグは翌1975年から「指名打者制度」を導入することとなる。
「一振りで決める高井が4打席に立てば、どれだけホームランを打つのだろう。ひょっとして王貞治の記録を破るんじゃないか?」
野球ファンは期待した。

しかしそうはうまく行かなかった。翌1975年、阪急はやや衰えが見え始めた主砲の長池徳二を96試合、指名打者で起用。長池は初代の「指名打者ベストナイン」になる。高井の指名打者起用は28試合だけ。相変わらず代打での起用が多かった。
1976年も長池が指名打者で83試合に出場。高井は46試合にすぎなかった。

高井保弘が正指名打者になり、キャリアで初めて規定打席に達したのは翌1977年。
高井は打率こそ.277で三十傑の11位につけたが、本塁打は11本と期待外れに終わった。

さらに高井は78、79年と3年連続で規定打席をキープしたが、打率は.302(10位)、.324(7位)と3割打者になったものの本塁打は22本、21本だった。
フル出場した高井は、一発狙いの荒っぽい長距離打者ではなく、シュアなアベレージヒッターだったのだ。
規定打席に達した3年間の三振数は、50、45、58。1977年にはこれも今年物故した日本ハムのボビー・ミッチェルが1シーズンで158の三振を記録する中、高井の三振は非常に少なかった。

高井の代打での通算成績は457打数114安打27本塁打108打点、打率.249
通算の打撃成績は2476打数665安打130本塁打446打点、打率.269
意外なことに代打の方が打率が低かった。代打以外の打率は.273だった。

代打時代の高井は投手の癖から球種を見抜くのがうまく、ヤマを張って一発を狙いに行ったが、レギュラー選手になるとじっくり球を見極めて好球を待つ名人級の打者になったのだ。

高井は、自分に期待されていることを、はっきりわかっていたのだろう。代打で打席に立つときは、ちまちました安打や四球、走者を進めるような打撃は求められていない。指揮官、そしてファンは確率は低くても一発で試合を決めるような千両役者の役割を高井に期待していたのだ。

1975年8月27日、県営宮城球場のロッテ戦ダブルヘッダー第2試合で高井は金田留広から代打本塁打を打つ。これが通算19本目。1950~60年代、パイレーツ、レッズなどでプレーしたジェリー・リンチの通算18本のMLB代打本塁打記録を抜いた。
この時期、王貞治の通算本塁打数は600号を超えて、MLBでベーブ・ルースの714号を抜いたハンク・アーロンを激しく追い上げていた。「日米での本塁打数の比較」が日本のファンの関心事になっていただけに、高井の記録は「快挙」と報じられた。
高井は翌1976年4月8日、西宮球場での日本ハム戦で高橋直樹から通算20本目の代打本塁打を打つが、翌年からレギュラー選手となったので、代打本塁打は途絶える。
しかし1980年6月12日、大阪球場の南海戦で金城基泰から4年ぶりの代打本塁打を打つ。
この年、捕手上がりで打撃が良い河村健一郎が79試合指名打者で起用され、高井は打撃不振だったこともあり代打に逆戻りしたのだ。

高井は1980年に3本、81年に4本の代打本塁打を打ち、通算27本まで記録を伸ばしてバットを擱いた。

NPBの代打本塁打5傑
1高井保弘 27本(阪急)
2大島康徳 20本(中日・日本ハム)
2町田公二郎 20本(広島・阪神)
4淡口憲治 17本(巨人・近鉄)
5川又米利 16本(中日)
高井の記録はアンタッチャブルと言ってもいいだろう。

高井がネクストバッターズボックスに姿を現すと、相手チームのファンから
「高井―!今日は何食べたんや?腹出てるで」
「うちのドカベン(香川伸行)に打つのん教えたってくれよ」
などの声がかかったものだ。また代打稼業が長く年俸が上がらなかったことから
「名前は高井、給料は安い」
の合唱も起こった。

お客がまばらで、ファンの声がグラウンドまでよく聞こえた、古き良き「昭和の野球」の1シーンだ。

  • 広尾 晃(ひろおこう)

    1959年大阪市生まれ。立命館大学卒業。コピーライターやプランナー、ライターとして活動。日米の野球記録を取り上げるブログ「野球の記録で話したい」を執筆している。著書に『野球崩壊 深刻化する「野球離れ」を食い止めろ!』『巨人軍の巨人 馬場正平』(ともにイーストプレス)、『球数制限 野球の未来が危ない!』(ビジネス社)など。Number Webでコラム「酒の肴に野球の記録」を執筆、東洋経済オンライン等で執筆活動を展開している。

  • 写真岡沢克郎/アフロ

Photo Gallary1

share icon記事をシェアする

  • Facebook シェアボタン
  • Twitter シェアボタン
  • LINE シェアボタン
  • はてなブックマーク シェアボタン

Photo Selection

あなたへのおすすめ記事を写真から

関連記事