「心がキツかった」仕事で悩むバレー元日本代表を救ったウイスキー | FRIDAYデジタル

「心がキツかった」仕事で悩むバレー元日本代表を救ったウイスキー

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ウイスキーを指しながら、商品ができるまでの歴史から語るサントリーウイスキー事業部の佐々木太一氏
ウイスキーを指しながら、商品ができるまでの歴史から語るサントリーウイスキー事業部の佐々木太一氏

長身のイケメンが、カウンターごしにウイスキーを説明する。一度、口が開くと熱弁が止まらなくなる。この男性は、プロのバーテンダーではない。元バレーボール日本代表の選手で、現在はサントリーのウイスキー事業部の課長である佐々木太一氏だ。

「私はウイスキーのPRを担当していて、生産現場とマーケット部門を結びつける仕事を主に担っております。ですから東京に拠点を置きつつも、(大阪にある)山崎蒸溜所にもデスクを置いて、行ったり来たりしております。バレーボールは余暇を使って教室や試合の解説をやったりしています。バレーは23年やりましたが、ウイスキーの仕事はたかだか10数年ですからまだまだですよ」

専修大からサントリーに入社。身長194cmの高さを生かしたスパイクとブロックで、大学時代から全日本で活躍し、アトランタ五輪予選、シドニー五輪予選にも出場した。1994年にはオリンピックの金、銀、銅メダルの国に日本を加えた大会「スーパー4」で3位に入り、翌1995年に日本で行われたワールドカップで5位に食い込む模様がテレビで放映されると、注目度が一気に増した。

「電車に乗っていて、ファンの人に囲まれちゃって、何度か電車から降りたこともある(笑)。そうなると人間、鼻が自然と高くなって、特に僕はひどかったと思います。社員選手なのに、もう何でも手に入ると思っていましたし、今振り返っても、怖い物がない、と思っていたことが一番怖いですね」

その後はケガも重なり、数々の故障やひざの手術を経験。28歳で全日本から外れたとき、一度は現役引退も頭をよぎった。しかし、サントリーの計らいで当時世界トップを争う強豪国だったブラジルのウルブラというクラブで3カ月武者修行した。和を重んじる日本とは違い、選手全員がプロのブラジル人は「俺が点をとる」と我をむき出しにしてプレー。その一方で、点を取ろうとした選手につないだ選手も評価されるシステムが確立されていた。一人一人が長所を出し合った集団が一番強い。帰国後、その体験をサントリーでも浸透させてVリーグで前人未踏の5連覇を達成した。連覇が途切れた2005年、現役生活に別れを告げた。

「選手として1回死にかけて、海外に行き、帰ってきて5連覇した。1回復活している経緯があるので(仕事に専念することになっても)何でもできるだろうとは思っていました」

大阪の営業所に配置され、様々な酒類を販売する仕事に従事したが、なかなか売れない。隣に座る自分より若い社員のほうが明らかに大きな仕事をしていた。入社後、11年間はバレーボール一色の生活だったため、仕事の経験ではどうしても負ける。ただ佐々木に対して若い社員のような研修はなく、仕事のノウハウは自分でつかむしかなかった。朝起きるのがつらくなり、転職を見据えた求人情報誌をめくったこともあった。

「周囲から見たらそれなりにやれていたかもしれませんが、自分としては全くできていなくて、体調よりも心のほうがキツかった。本来であれば、頑張って役職につけるようになって、みたいなことを考えるんでしょうけど、そんな余裕もない生活が2年続いて……。もともとスポーツ選手なんで、自分では精神力は強いと思っている。だからカウンセラーみたいなところに行くことも考えませんでしたね」

1996年、五輪予選で日本代表としてオーストラリア戦に挑み、ブロックに跳ぶ佐々木太一氏(右、アフロ)
1996年、五輪予選で日本代表としてオーストラリア戦に挑み、ブロックに跳ぶ佐々木太一氏(右、アフロ)

そんな時、当時の大阪支社長から、ウイスキーの社内資格を取得することを勧められた。話をもらった2007年当時は、ウイスキーの売り上げがどん底だった。「ウイスキーアンバサダー」という社内資格をたちあげ、お客様にウイスキーを啓蒙できる社員を育成することが目的だった。仕事と並行して、山崎蒸溜所や本場のスコットランドにも行き、さらには自分でウイスキーの樽も作り、銀座のバーにも立った。

「ウイスキーが特別好きなわけではなかったんですが、人前でしゃべるのが大好きなので、やっていくうちに『面白いな』と思って……。自分の仕事がちょっとうまくいっていないときにこの研修に巡り合い、今思えば、瞬時に『あっ、これに賭けよう』と思ったんです」

研修と並行して続いていた営業の仕事では、ホテルも担当。バーのマネージャーから、ウィスキーのメーカーや製造元などによる味の違いなど踏み込んだ質問を受けるようになると、同業他社のウイスキーも調べ出した。そのとき、業界内では世界的に有名な『スコッチ文化研究所(現在「ウイスキー文化研究所」)』が定めた「ウイスキーコニサー」という資格に出会う。

この資格は3段階あり、下から「エキスパート」「プロフェッショナル」「マスター」とあり、エキスパートは例年10月、プロフェッショナルは5月、マスターは年末に試験が実施される。エキスパートを取得しないとプロフェッショナルに進めないため、一番上のマスターをとるまで最低1年半はかかる。でも佐々木氏はそこにチャンスを感じていた。

「2007年当時はプロフェッショナルが24人ほどしかいなくて、まだマスターの資格試験が開催されていませんでした。誰も持っていないということは、1番になれる可能性が高いわけです」

「マスター」の試験には、A4版20枚ほどの論文やウイスキーの知識を問う筆記試験、テイスティングをしてプレゼンをする実践的なものまであった。枕元に文献を置き、家でもテイスティングを繰り返した。ボトルが100本近くたまり、家を建てるときにウイスキー専用の部屋を作ったほど。そんな努力が実り、2011年、見事に合格。日本における「マスター」第1号となった。今でも日本に9人しかいない。

「プロのバーテンダーさんたちが何回も落ちる試験なので、今考えても信じられない。合格通知の電話が来た後、一度電話を切って、トイレに行ってからもう一度、確認するための電話をかけなおしましたから(笑)。ただ合格すると、安堵感よりこうなりたい、という思いの方が強く芽生えましたね」

2007年当時はどん底だったウイスキーは、翌2008年ごろにハイボールブームが到来。2014年にNHKでウイスキーを題材にした連続テレビ小説『マッサン』が放映されたこともウイスキーブームを後押しした。ウイスキーは10年単位の長いスパンで作るため、今でも原酒不足に陥るほどブームは続いており、ウイスキーの魅力を語る佐々木氏への需要も増え続けている。

「スポーツも人を感動させるのが一番ですが、セミナーでもお客さんから『すごくためになった』とか『有意義だった』と言っていただくことが一番やりがいがある。サントリーでウイスキーのことを語ってもらいたい、となったとき、最初に思い浮かべてもらえる人間でありたい」

年末まで東京と大阪を往復しながらウイスキーの魅力を伝え続けた佐々木氏に、家庭でもできる美味しいハイボールの作り方を教えてもらった。

【マスター・オブ・ウイスキーが薦める美味しいハイボールの作り方】

① グラスは冷やしてあるのが望ましい。ポイントは、飲み始めて時間が経っても氷が溶けないように作ること
② 氷を入れて、持ち手が冷たくなるまでかき混ぜる。
③ 氷が落ちてグラスの水がたまるので、その水を切る

④ ウイスキーを注ぐ。一般的にはウイスキー:ソーダの割合が1:3~4を推奨しています。
⑤ アルコールは他の液体とまざると希釈熱が発生し、グラス内が再び温まる可能性があるので、もう一度氷を足して、持ち手が冷たくなるまでかきまぜる。
⑥ 発泡させないように、氷にぶつからないように炭酸を注ぐ。上手にできているハイボールはあまり泡立たない。

⑦ 最後に1回だけ「縦に」かき混ぜてできあがり。上手にできたハイボールはウイスキーの濃度が濃くても、味がまろやか

  • 撮影柏原力

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