工藤静香『くちびるから媚薬』の時代先取り感覚 | FRIDAYデジタル

工藤静香『くちびるから媚薬』の時代先取り感覚

あの時あなたは何してた? スージー鈴木の「ちょうど30年前のヒット曲」第1弾

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2001年、サッカー国際試合のセレモニーでの工藤静香。歌っているのは『くちびるから媚薬』ではなく『君が代』
2001年、サッカー国際試合のセレモニーでの工藤静香。歌っているのは『くちびるから媚薬』ではなく『君が代』

今回がスタートの新連載、「ちょうど30年前のヒット曲」を担当します、音楽評論家のスージー鈴木です。よろしくお願いします。

時制を「30年前」に設定したのは、キリがいいことに加えて、実は「令和2年」となる2020年のちょうど30年前=1990年は「平成2年」だったという奇妙な連関もあったからです。

また、バブル経済がバンバンに膨れ上がっていて、音楽業界的にはCD(コンパクトディスク)という新時代メディアがぐんぐん勢いを伸ばしている。さらにはその援軍としてのカラオケボックスやバンドブームの広がりなど、何かと賑やかな1990年を、今現在の視点から眺めてみたいという気持ちもありました。

「ちょうど30年前『のその月にリリースされた』ヒット曲」を取り上げていきます。つまりこの1月の回は、1990年1月発売の楽曲。今回は、その中で最もインパクトがあった曲として、工藤静香『くちびるから媚薬』をご紹介したいと思います。「♪ちょっと待ってよ ねえ」「♪いいの いいの いいの」のあの曲です。今月は『くちびるから媚薬』30周年――。

 

「♪ちょっと待ってよ ねえ」という話し言葉(当時の工藤静香の口ぐせから引用したらしい)から始まるのが印象的なこの曲は、48.9万枚の大ヒットとなりました(出典:『1968-1997 ORICON CHART BOOK』※以下同様)。この印象的な歌い出しを書いた作詞家は松井五郎。

その頃から何と現在に至るまで、ヒットメーカーの座をほしいままにしている秋元康ですが、工藤静香に関しては実は、秋元の手を離れてからブレイクし始めるのです。

生稲晃子、斉藤満喜子と組んでいた「うしろ髪ひかれ隊」のシングルは、全て秋元康が作詞したのですが、デビューシングルの『時の河を越えて』が11.4万枚、その後は全曲10万枚以下。またソロデビュー曲となった『禁断のテレパシー』、その次の『Again』も秋元の作詞にもかかわらず、10万枚台中盤で推移。

しかし、その次の松井五郎作詞『抱いてくれたらいいのに』が18.2万枚、その次の中島みゆき作詞『FU-JI-TSU』が25.3万枚と上昇機運に乗り、さらにその次の、同じく中島作詞『MUGO・ん…色っぽい』で、54.1万枚の大ブレイクを達成。

88年の秋から平成への改元を超えた89年あたりは、工藤静香がまさに時代のアイコンになっていました。『MUGO・ん…色っぽい』に続いて、『恋一夜』、『嵐の素顔』、『黄砂に吹かれて』、そして今回の『くちびるから媚薬』、すべてが40万枚を超えており、高値安定になっています。

 

このように、工藤静香のシングルについて、作詞家は色々と変わっていくのですが、作曲家はソロデビュー曲『禁断のテレパシー』から1993年の『あなたしかいないでしょ』まで、ずっと一貫していました。

その作曲家の名は――後藤次利。

加藤和彦率いるサディスティック・ミカ・バンドの男前ベーシストとして、イギリス公演では、そのスラップ(当時っぽく言えば「チョッパー」)奏法が大評判。1978年にはアイドル・木之内みどりと「恋の逃避行」をするも、沢田研二『TOKIO』のアレンジによって、音楽シーンで再度脚光を浴び、80年代後半には、おニャン子系やとんねるずの作・編曲で、「ギョーカイ」っぽい成功を収めます。

そんな後藤次利による『くちびるから媚薬』のサウンドは、なかなかに凝っていて、今聴いても、ほとんど古ぼけていないように感じます。

メロディのポイントは、「♪ちょっと待ってよ ねえ」の歌い出しに加えて、サビの「♪いいの いいの いいの」「♪いいよ いいよ いいよ」のところでしょう。一度聴いたら忘れられません。

凝っているなと思うのは、いちばん最後の「♪いいよ いいよ いいよ」が、「♪いいよ いいよ (ウン=休符)いいよ」とメロディとリズムが変わるあたり。カラオケの場での盛り上がりを想定した、後藤次利のアイデアの勝利です。

またリズムが「ンチャ・ンチャ・ンチャ・ンチャ」というスカビートになっているのも印象的です。当時はバンドブームの真っ只中。その中でも頭角を現し始めていたザ・ブームやレピッシュなどのスカ系バンドを、後藤次利は意識したのかもしれません。

 

しかし、この曲含めた工藤静香楽曲の最大の勝因は、何といっても工藤静香の声だと思います。決して上手いというわけではないのですが、独特の声質、独特の発声、独特のビブラート、と、後にも先にも無い、「独特」としか形容できない声。

その声の「独特」性が向かう先は、デカダンス(退廃)だと、当時の私(=卒業間近の大学4年生)は感じたものです。

「景気も最高潮だし、音楽業界もCDでぐんぐん盛り上がっている。でもこんな時代が永遠に続くはずがない。おじゃんになる日が必ず来るはず」――そんな、バブル経済/CDバブル崩壊後の時代を先取りした声だったのかもと、今の私(=53歳のオヤジ)は後付け的にそう思うのです。

さて、工藤静香楽曲は、次の『千流の雫』以降、一旦落ち着くのですが、翌91年の『メタモルフォーゼ』(44.0万枚)でまた跳ねて、93年の『慟哭』は、何と93.9万枚を売り上げます。

それどころか私生活では、ご存知の通り木村拓哉と結婚し、また画家としても活躍、その上、次女のKōki,はモデルデビューと、誰もがうらやむ順風満帆な人生を歩んでいきます。

そう考えると工藤静香、声だけでなく人生全体に、次の時代を先取りする感覚をも持ち続けていたということなのかも知れません。

  • スージー鈴木

    音楽評論家。1966年大阪府東大阪市生まれ。BS12トゥエルビ『ザ・カセットテープ・ミュージック』出演中。主な著書に『80年代音楽解体新書』(彩流社)、『チェッカーズの音楽とその時代』(ブックマン社)、『イントロの法則80's』(文藝春秋)、『サザンオールスターズ1978-1985』(新潮新書)など。東洋経済オンライン、東京スポーツ、週刊ベースボールなどで連載中。

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