阪神大震災から25年 神父、僧侶がともに唱える「真の祈り」 | FRIDAYデジタル

阪神大震災から25年 神父、僧侶がともに唱える「真の祈り」

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キリスト教と仏教による合同の大震災追悼儀式。宗教も民族の「壁」を取り払って、祈りをささげた
キリスト教と仏教による合同の大震災追悼儀式。宗教も民族の「壁」を取り払って、祈りをささげた

今年も「1月17日」がやってきた。その日、兵庫県の南部地方を中心に起こった阪神淡路大震災から25年目にあたる。神戸市中央区の神戸市役所前に位置する「東遊園地」にある「希望の灯り」から、各地で行われる追悼行事に向け火を分ける「分火」がなされ、この公園での「阪神淡路大震災1.17のつどい」をメインとして、各地で追悼行事が行われた。
その流れとは別の25年前の震災発生時、被害の大きかった主に神戸の西地区の救済基地としてボランティアの拠点となった場所がある。そこでも「希望の灯り」とも違う形で、例年のように、静かに慰霊法要が行われた。

その場所の名前は「カトリックたかとり教会」。神戸市長田区にあるこの教会では、毎年、この日、キリスト教と仏教による合同の大震災追悼儀式が行われる。今年も同教会の神田裕神父の「(震災から)25年でなく、300か月でもなく、9131日目の朝を迎えることになりました」の一日、一日の大切さを説いた話のあと、地震発生の5時46分には山伏がほら貝をならし黙とう。聖書が朗読され、般若心教が唱えられ、焼香がなされた。ベトナム人、在日韓国人、日本人、そのほか、国籍や宗教の違いも関係なく、この場所に人が集まった。25年前の震災直後、当時、「カトリック鷹取教会」と名乗っていたこの教会も火の手を逃れることは出来ず、聖堂は焼失した。しかし、それでも国籍も多様な信者はここに集ってきた。そして、当時現実にこの地で起こったことが、今も受け継がれている。現在、60歳を越えた神田裕神父は振り返る。

「特別なことをしたわけではありません。私はそこに立っていただけです。なにか美しいことをしたわけではないです。ただ、助けを求めた人々が自然に集まってきたのです」

神田神父は、見渡す限り焼け野原となった一帯でわずかに残った教会の一部に、在日外国人の方々、地域住民の方らが、自然発生的に集まるのを静かに見守った。国籍や宗教、肩書も、性別も、年代も関係なかった。ただ、集まった人同士のつながりを大切にしたい、と考えたのは、神田神父のある思いがある。

「普段から付き合いがあり、近所の人の顔を知っていれば、(震災直後の救出活動で)もう少し何かできたはず。もっと地域と交わろうと考えました」

教会の再建より、まずは焼け跡に次々と助けを求めて集まってきた人たちのための宿泊施設を建てた。当時は、お互いに助け合うという自然にできた優しさが、様々な壁を取り払い、再建にむけてのボランティア組織の拠点となっていった。神田神父は続ける。

「当時の集まってくる人やそのありさまを見て、私は言葉では表現できなかったが、昨年、フランシスコ・ローマ教皇が来日して、『教会というものは、野戦病院、であるべき』とメッセージされたのを聞いて、ああ、これだったんだ、と思いました。戦地で「野戦病院」に運ばれてくる人は、敵も味方も、宗教も、男女も、国籍も関係ない。震災当時、『カトリックたかとり教会』は、まさに『野戦病院』になっていたんです」

では、どのようにして、キリスト教と仏教の合同追悼儀式が実現していったのだろうか。
仏教側の活動主体である一般社団法人「神戸青年仏教徒会」の中心メンバーである臨済宗の宗教法人「明泉寺」の代表役員・冨士凌雲住職はこう明かす。

「キリスト教と仏教、そして神道までも紡いだのは、YMCAで主に奉職された今は亡き草地賢一牧師(2000年1月没)の存在が大きいです。草地牧師が、『震災を生きる宗教者の集い』(通称・わるがきの会)として、キリスト教、仏教、神道(有馬湯泉神社)の牧師や住職らに働き掛けたのが始まりです。その中で、『カトリックたかとり教会』の神田神父と「神戸青年仏教徒会」の主力メンバーが出会ったんです」

冨士凌雲住職は続ける。

「(合同の追悼儀式は)メリットしか見いだせない。宗教者に(震災などの際)何ができるかは、キリスト教も仏教も関係がない。普段、会う方と違った方々とお話しできる機会にもなってます」

震災当時は壊滅的な状況になった三宮駅近辺。この時期になると六甲山に「KOBE 1.17」のイルミネーションが灯される
震災当時は壊滅的な状況になった三宮駅近辺。この時期になると六甲山に「KOBE 1.17」のイルミネーションが灯される

震災復興についても逸話がある。神田神父は、震災後、「たった3か月で人々が無償で協力し合う状況から、差別やいじめのあるシビアな現状に戻っていきました」と語る。本来であれば話をしたくない現実を言葉にする背景に、「そうあってはならない」というメッセージが込められている。しかし、神田神父は、ある時から「(復興へ向けての道のりが)大変だった、と思えなくなりました」という。

「広島で、震災からの復興についてお話をさせていただいた時、休憩時間に『大変だったでしょう。私も(復興からの活動を)3年やったから分かります』といってきたおばあさんがいたんです。その時は、どんなことで3年間やられたのか、深く考えなかったが、後で、意味が分かりました」

広島には核による被ばくからの復興という歴史がある。阪神淡路大震災からは25年だが、広島の被爆からは今年でもう75年を迎える。最近でも、東日本大震災があり、熊本での地震もあった。被爆のことを持ち出すことなく「大変でしたね。私も同じ体験をしました」とだけ語った広島のおばあさんに会って以後、神田神父は「『復興で大変だった』はいえません」と阪神淡路大震災についての語るときの心持ちも変わったという。

シビアな現状に戻ってからも、結局は、人と人。誰も孤立することなく、助け合っていかないと復興はない。神田神父が続ける。

「誰も孤独にさせない。教会は癒しの場、そして、いざというときの『野戦病院』としてあり、人が集うのです。(魂の救済には)いのり、しかない。おいのりは、宗教が違おうと、人種が違おうと、それは、みんな同じです」

神田神父も、冨士住職も、災害時、復興時、そして慰霊法要も含め、思いはひとつ、と声をそろえる。全日本仏教青年会の谷晃仁理事長は仏教側の代表として「形は違えどもいのり、はすべて同じ。いのっているのは、どの宗教者も同じ。今日、ここで一緒に過ごさせていただいた人との縁を大切にしたい」とこの日、合同追悼に参列した年代、宗教、性別、国籍も多種多様な人に訴えかけた。

「カトリックたかとり教会」で毎年、1月17日に行われる合同追悼儀式は、災害が起こった後の、宗教、人種、年代、そして復興時のいろんな壁までを越えた、恒久の平和を願う「癒し」の象徴として今後もあり続けていく。

朝5時からはじまった追悼儀式には多くの人が参拝に訪れた
朝5時からはじまった追悼儀式には多くの人が参拝に訪れた
  • 撮影菊地弘一 写真アフロ(震災直後)

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