『麒麟がくる』明智光秀の故地にある謎の「東照宮ゼロ号」とは?
歴史ミステリー「光秀=天海」説を紐解く
根強く残る「光秀=天海大僧正」説
2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』は、歴史上で名高い謀反人・明智光秀が主人公。近江坂本の領主であった光秀は「本能寺の変」で主君・織田信長を討ち果たしますが、主殺しの汚名を着て、中国攻めから反攻してきた豊臣秀吉によって山崎の戦いに敗れ、小栗栖の藪で落武者狩りの土民に殺されたといわれています。
ですが、現在にいたるまで、なぜ織田家のなかでも出世頭に近かった明智光秀が「本能寺の変」を起こしたのか、その確定的な証拠は出ていません。
信長の近臣だった太田牛一が記したとされる『信長公記』には、変の直前に光秀が決意をこめて詠んだとされる「とき(土岐=明智の出身氏族)はいま 天が下しる 五月かな」という決意の俳句が収録されていますが、それも「なぜ?」という問いには答えていません。
そこで出てきた奇説が「光秀は、信長に殺されそうになっていた徳川家康を助けようとしたのだ」というもの。そして密かに生き延びた光秀は、その功を嘉されて、徳川の世になってから「天海大僧正」として再び姿を現し、徳川幕府に参画したのだ、というのです。奇説中の奇説、と言われながら「天海=光秀説」は長く生きながらえてきました。それはなぜなのでしょう?
ひとつには、光秀の最後が土民の襲撃によったとされ、然るべき者によって亡骸が確認されていないこと。そして「天海大僧正」の前半生が謎につつまれているにもかかわらず、家康、秀忠、そして家光と徳川三代にわたって絶大な信頼を得たということがあるでしょう。
天海大僧正は、南光坊天海といい、生年ははっきりしていません。陸奥国の人であったとも言われますが、少なくともはっきりしているのは、彼が天台宗の僧であったこと、一時期天台宗の総本山・比叡山にいたということぐらいです。ちなみに比叡山は1571(元亀2)年に織田信長の命によって焼き討ちされ、全山が灰燼に帰しています。
武田領の寺院にいた天海は焼き討ちを逃れたといわれていますが 、本当にそうでしょうか? もしかしたら、本当の天海は数千人が殺されたとも言われる阿鼻叫喚の渦の中、命を落としていたのでは?
天海が歴史の表舞台に登場するのは、信長没後6年たった1588(天正16)年、無量寿寺北院で住職をつとめるようになってからです。
以後、天海は徳川家康の参謀として働き、秀吉死後の「方広寺鐘銘事件」で豊臣秀頼と淀殿にいちゃもんをつけたりして大阪の陣に追い込み、豊臣家を滅亡させます。後顧の憂いを払い、いわば大往生した家康を「東照大権現」という神様として祀るよう進言したのも天海でした。家光までの3代の将軍に仕えて、死去した時の年齢は推定107歳! 怪僧と呼ばれるのも当然かも……。
信長、光秀、そして秀吉の存在も…
さて、そんな天海が主導して建設された家康の霊廟が、有名な日光東照宮です。ところが、光秀の故地・近江坂本には、その「ゼロ号」ともいえる建築物が、現在も残っているのです。
近江坂本にある東照宮、その名は「日吉東照宮」(現・重要文化財)です。足を運んでみるときっと驚かれるでしょう。スケールはうんと小さいのですが、細部は日光東照宮とそっくり。ですが重要文化財に指定されていながら、訪れる人は、全然いない……。こんな建築物が存在しているとは知らない人が多いのではないでしょうか。
日吉東照宮の縁起によれば、1623(元和9)年、三代将軍家光が上洛の途中、天海大僧正に命じて建てさせたそう。ここの「権現造(ごんげんづくり)」が、後の日光東照宮のプロトタイプになったのだといいます。
もうひとつ不思議なことがあります。この東照宮は、「日吉大社」の敷地の外れにあるのです。
歴史好きの人なら覚えているかもしれません。織田信長から「サル」とあだ名された豊臣秀吉は、幼名を日吉丸といいました。じつは日吉大社の境内には、いまも「ましらさま」と呼ばれる神猿が飼われているのです。秀吉が武士として最初に名乗った名前は、「木下藤吉郎」であり、日吉大社には「樹下(じゅげ)神社」があります。「樹下=木の下」です。秀吉は、信長が焼き討ちをした日吉大社を再建し、手厚く保護したのです。
信長を討った光秀を山崎の戦いで破ったのは、秀吉でした。ですが、光秀が山崎の戦い後、なおも生きていたとしたら……?
信長、秀吉、家康、そして光秀との因縁が交錯する「ゼロ号東照宮」は何を意味しているのでしょう?
まさか『麒麟がくる』で、長谷川博己は天海にならないと思いますが…。「トンデモ伝説」を考えながら、史跡を巡ってみるのもなかなか面白いのではないでしょうか。
日吉東照宮/滋賀県大津市坂本4-2-12
日吉大社/滋賀県大津市坂本5-1-1
桔梗塚/岐阜県山県市中洞1020 中洞白山神社脇
- 取材・文・撮影:花房麗子