早大ラグビー部が全国優勝時にのみ歌える『荒ぶる』、その裏話 | FRIDAYデジタル

早大ラグビー部が全国優勝時にのみ歌える『荒ぶる』、その裏話

藤島大『ラグビー 男たちの肖像』

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11年ぶりに全国大学ラグビー選手権で優勝を果たした早稲田大学/写真 アフロ
11年ぶりに全国大学ラグビー選手権で優勝を果たした早稲田大学/写真 アフロ

「日本一になったら歌える」

ラグビー部の学生と蝶々夫人が時空を超えて結ばれた。

新しい年の新しい国立競技場。乾いた冬の空気に喉を飛び出すような声がぶつかった。若者が肩を組んで感激に浸る。『荒ぶる』。早稲田大学ラグビー部の優勝歌である。全国制覇を遂げたら歌唱を許される。

荒ぶる吹雪の/逆巻くなかに/球蹴る我等は/銀塊くだく……

もともとは第二部歌。1923年に卒業の部員、小野田康一が作詞、早稲田大学音楽部が作曲した。第一部歌『北風』が浸透しているため戦後はいわば倉庫にしまわれていた。それが、ふとした機会を経て「日本一になったら歌える」という不文律を生んだ。

蝶々夫人はここに登場する。

1950年の夏。当時のキャプテン、のちにアサヒビールで社業の重責を担う名フランカー、松分光朗は、仲間とともに、作詞者の小野田の鎌倉の宅に招かれた。そこであるレコード盤を聴かされる。

なんと三浦環が『荒ぶる』を吹き込んでいる。作曲家のプッチーニに「我が夢」と評され、イタリアなどで「蝶々夫人」のプリマドンナとして名声を得た。そんな世界の歌姫が部員すら忘れかけたクラブソングを。

なぜ?『早稲田ラグビー六十年史』を引くと、きっかけは1941年にさかのぼる。

欧米より帰国の三浦環は、同年、満洲慰問演奏に旅立つ。小野田はラグビー部の後輩が秘書として帯同すると知って、事前に依頼、当時、新京の日本コロムビアにいた別のOBに頼んで『荒ぶる』と『北風』の録音を実現させた。

松分主将は思いがけず忘れられかけた部歌に出合い、いたく感動する。「この曲をどのように扱うかその場で相談」(『…六十年史』)。優勝を果たしたら合唱しようと決めて、名将の大西鐵之祐監督にも相談せず、寮内でこっそり練習を重ねた。12月3日、早明戦を制して実行、年が明けて9日、関西覇者、関西学院大学を破ると、もういっぺん披露した。

戦争に負けて5年後の若者の発想は定着した。卒業後、たとえば自身の結婚披露宴で、さらには人生のおしまいの弔いの場ですら、『荒ぶる』で祝福され、また送られるのは、最終学年のシーズンに歌えた元部員のみである。レギュラー選手になれなくとも「資格」は変わらない。

「歌えなかった」歴史

以下、日比野弘さん(元日本代表・早稲田大学監督)が一昨年、ある催しにおいて述べたエピソード。

タフなスクラムハーフで代表監督も務めた故・宿澤広朗さんは、早稲田の2年、3年、大学日本一どころか社会人王者をも破った。1970年代の黄金期。文句なしのチームの文句なしの中心選手であった。ただし主将を務めた最後の年、戦力の不利を懸命に埋めたものの大学選手権決勝で明治大学に1点差で負けた。

いま85歳。母校の栄光と蹉跌をともに知る人、日比野さんは、後輩を愛称の「シュク」と呼んで語った。

「シュクの結婚式、あれだけの功労者なのだから、ここはひとつ『荒ぶる』を歌おうじゃないか。そんな声も出た」
しかし。
「シュクは断った。同期は歌ってもらえないのに自分だけというわけにはいかないと」

2020年1月11日。
頑健で聡明な宿澤広朗の後進、同じ背番号9、こちらも頑健で聡明な齋藤直人主将が、栄光の歌の真ん中にいる。45対35。1点差のような10点差であり100点差のような10点差でもあった。

「試合に出られない部員の努力を肯定したかった」。会見で優勝キャプテンは言った。いちばん早いのはだれだろう。出られなかった4年生の披露宴にも『荒ぶる』がとどろく。

相良南海夫監督のコメントに味があった。
「自分は卒業するときに歌えなかったので」

2年で大学日本一の一員、だが主将の4年は頂点に届かなかった。

一クラブの決まり事はスポーツの未来とは関係がない。まあ内輪の話である。ただ勝負の観点においては「自分たちだけの世界」という独善は、案外、強みとなる。

もちろん肝心なのは具体的な準備だ。

12月1日の早明戦に完敗(7対36)の2日後、相良監督の発言を私的な場で聞いた。

「いまごろ学生たちが激しく話し合っているはずなんです。期待しています」

それまでも仲違いしていたわけではない。総じて、まじめな集団だ。でも山のてっぺんに立つには本音をぶつける衝突が必要だ。

こうも明かした。
「決勝から逆算しています。途中で負けたら批判もされますが、ずっと考えて、それしかないと」

ありのままの力をぶつけて苦い結果におのれを知った。いや、50歳、三菱重工の有能な勤め人でもある指揮官なら、きっと、彼我の現在地を想像できていた。だからこそ部員が実感、解決するまで根気よく待った。『荒ぶる』を凱歌と定めるのに監督は関与していない。ヒストリーはつながっている。

 

※この記事は週刊現代2020年2月2・8日号に掲載された連載『ラグビー 男たちの肖像』を転載したものです。

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  • 藤島大

    1961年東京生まれ。都立秋川高校、早稲田大学でラグビー部に所属。雑誌記者、スポーツ紙記者を経てフリーに。国立高校や早稲田大学のラグビー部のコーチも務めた。J SPORTSなどでラグビー中継解説を行う。著書に『ラグビーの世紀』(洋泉社)、『知と熱』(文藝春秋)、『北風』(集英社文庫)、『序列を超えて』(鉄筆文庫)

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