追悼・野村克也! 1956年2月ハワイ 大打者が誕生した瞬間

小さなチャンスをものにして、大打者に上り詰めた野村克也。チャンスを与えた鶴岡一人!

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1977年、南海の選手兼任監督だった頃の野村克也

野村克也が亡くなった。戦後初の3冠王に輝くなど、不世出の大打者だった。その大打者・野村克也の誕生にはこんな秘話があった。

南海ホークスは1956年のシーズン前、ハワイ遠征をおこなった。前年、南海はライバル西鉄に9ゲーム差をつけて2年ぶりのリーグ優勝。日本シリーズでは最終戦まで行ったものの巨人に惜敗したが、南海は、チーム強化費を惜しんでいるから負けるのだ、ドケチ球団だ、と新聞で叩かれた。

カチンときた鶴岡一人監督(当時は山本一人と名乗る)は、小原英一オーナーに「一つ張り込んでください」とかけ合ってハワイ遠征を実施することにしたのだ。

時期的には春季キャンプの期間だったが、厳密にはキャンプではなく遠征で、ハワイのマイナーチームやアマチュアチームと連日試合をした。

海外旅行そのものが珍しい時代だけに、ハワイに行くメンバーは厳選した。前年大竹高から投手として入団し、すぐに野手に転向した広瀬叔功(のち野球殿堂入り)など若手の大部分は広島県、呉の2軍キャンプにまわされた。

しかしこのオフに、高橋ユニオンズに捕手の筒井敬三を移籍させたこともあって、投手の球を受けるブルペン捕手が足りない。そこで、野村克也を連れていくことにした。あくまで選手ではなく、スタッフに近い扱いだった。

野村は1953年オフに南海のテストを受けた。

野村がいた峰山高校野球部の部長はこの年の夏の予選前に南海の鶴岡一人に手紙を書き、「わが校に一人だけプロでやれそうなタマゴがいる、ぜひ見てほしい」と依頼した。峰山高校野球部は存続が危ぶまれるような弱小チームだったが、野村克也だけがずば抜けていたのだ。野村の家はユニフォームさえ買うことができないような極貧で、大学進学は考えられなかった。野球を続けるにはプロしかなかった。

鶴岡一人は富永嘉郎スカウトを伴って、西京極球場で行われた甲子園の予選で峰山高校の試合を見た。野村に対する鶴岡の第一印象は「どんくさい選手やなあ」というものだった。しかしガラ(体格)がいい。面白いものもある。

試合は0-6で洛陽高校に敗れたが、試合後、野球部の部長と面会した鶴岡は「とりあえずテストを受けさせてください、受けさえすれば合格させますから」と言った。

野村自身はテストに合格して這い上がったといっているが、鶴岡の述懐によれば、テストの合格は最初から決まっていたのだ。

鶴岡は言ってからやや後悔したが、約束は約束である。野村は翌年、南海ホークスの一員になった。

こうして南海に入団した野村は、1年目は一軍の試合に9試合出場したが、安打は打てず。肩を痛めて二軍落ちした。翌2年目は一軍出場はなし。肩が回復しなかったために、捕手失格の烙印を押され、二軍では一塁手としてプレーした。
ウェスタン・リーグでは24試合78打数25安打1本塁打7打点.321 打率リーグ2位の好成績を残すものの、オフには整理の話も出た。しかし野村の懇願もあって、かろうじて首がつながった状態だった。

ハワイ出発の前に、鶴岡監督は遠征組の選手を集めて、「行けないものの身にもなってみろ。あちらでルーズにやるものは、途中からでも帰国させる」と選手に檄を飛ばした。

しかし鶴岡監督の熱い想いは、ハワイ初日から腰砕けとなった。

この日の歓迎パーティーで、チームを引率した球団代表がふざけてフラダンスをしたシーンを、同行していた記者団に写真に撮られた。写真は電信で送られ、日本のスポーツ紙にでかでかと載ったのだ。これを見た南海本社は激怒して、球団代表を帰国させた。

ハワイには在留日本人や日系人が多い。南海ホークスナインは、以後も連日大歓待を受けた。選手たちは、それでタガが外れたのか、ホテルから門限破りをして遊びに出かけた。南海のハワイ遠征は物見遊山と化した。鶴岡ははるか後になってもこの時のハワイ遠征を「今思い出してもぞっとする」と言っている。

野村も先輩選手と一緒に門限を破り、鶴岡監督に叱られている。

しかし一方で野村は毎日、鶴岡監督と顔を合わせていた。野村はボールの個数を管理する担当で「今日は何個足りませんでした」と鶴岡の部屋に報告に来ていたのだ。

また野村はひたむきに「壁」として、投手の球を受け続けた。

バットを振らせてみると、力のこもった良いスイングをする。実直な野村に好感を抱いた鶴岡は、ハワイチームとのオープン戦で野村を先発で起用した。そこそこ投手をリードするし、打撃もいい。そして1年間捕手をしていなかったことで、痛めた肩も回復していた。

対照的に正捕手の松井淳は肩を痛め、精彩を欠いていた。鶴岡監督は、後半戦から野村をスタメン捕手に抜擢。南海はハワイチーム相手に10勝1敗と大勝した。
鶴岡監督にしてみれば、掘り出し物を見つけた思いだった。

2月中旬、球団初のハワイ遠征から帰国した南海ナインが伊丹空港に降り立った。選手たちは心なしか元気がない。しょんぼりしている。そしてナインたちの一番後から降り立ったのはむすっとした顔の鶴岡親分だった。

記者団に取り囲まれた鶴岡監督は、記者から「ハワイ遠征の収穫は?」という質問に対し、鶴岡監督は「ない」と一言。記者もそれ以上の質問をするのがはばかられたが、鶴岡監督はしばらく間をおいて、思い出したように「たった一つだけ、捕手の野村を見てくれ、これはうまくなった」と言った。

この瞬間に、大捕手、野村克也は生まれたといってもよい。

1956年シーズンが開幕。松井淳が依然として不調だったこともあり、野村は開幕2戦目からスタメンマスクをかぶる。そして最終的に正捕手の座を手にし、ベストナインに選出された。翌57年には30本塁打で本塁打王を獲得している。ここから王貞治と並ぶ大打者へと成長していくのだ。

鶴岡は1983年に刊行された『御堂筋の凱歌 栄光と血涙のプロ野球史』で、このように書いている。

「この最初のチャンスを逃さなかったところに、野村の良さがあった。プロ野球の世界では、チャンスは2度とあるものではない。ただ1度のチャンスを逃したために消えていった有能選手が何人いたことだろう」

野村克也と鶴岡一人は、後年、没交渉となり、2人の仲は回復することはなかったが、鶴岡は野村を高く評価していた。そして野村も晩年は鶴岡の教えを口にするようになっていた。

あの世で師弟関係は再びつながるのだろうか?

  • 広尾 晃(ひろおこう)

    1959年大阪市生まれ。立命館大学卒業。コピーライターやプランナー、ライターとして活動。日米の野球記録を取り上げるブログ「野球の記録で話したい」を執筆している。著書に『野球崩壊 深刻化する「野球離れ」を食い止めろ!』『巨人軍の巨人 馬場正平』(ともにイーストプレス)、『球数制限 野球の未来が危ない!』(ビジネス社)など。Number Webでコラム「酒の肴に野球の記録」を執筆、東洋経済オンライン等で執筆活動を展開している。

  • 写真岡沢克郎/アフロ

Photo Gallary1

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