甲子園の名将3人だから「見える世界」

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ノンフィクションライター中村計氏が、甲子園の名将と言われる監督たちの素顔に迫った!

夏の甲子園の舞台に立てるのは、全国約4000校のうちわずか50校。選抜と合わせても80校に過ぎない

高校野球を見ていて、いつも思う。金にもならないことのために、こんなにも生活の多くを捧げている人がたくさんいる世界は、他にないのではないかと。

高校野球の何が、そこまで彼らを駆り立てるのか――。高校野球の監督という「非職業」に殉じる3人の名将を追った。

名監督は名スカウト

大阪桐蔭は’08年以来、春夏通算6度もの日本一に輝いている「平成最強校」だ。強さの理由の一つは、監督である西谷浩一(48)のスカウティング術にある。

西谷がコーチとして大阪桐蔭にやってきたのは’93年のこと。当時、近畿圏は通算7回の全国制覇を誇るPL学園の天下だった。西谷が振り返る。


「Aランクの選手はみんなPL。うちはBランクの選手ばっかりだった」

西谷が監督に就任したのは’98年。流れが変わり始めたのは、’00年に奈良・郡山シニアの西岡剛(阪神)が入学した頃からだ。西谷が思い出す。

「私は西岡が欲しかったので、めっちゃ通いました。でも西岡はPL志望だった。ただ、郡山シニアにはもう一人いい内野手がいて、PLはそっちを選んだ。それで『一緒にPLを倒そう』と言って、西岡を口説いたんです」

西岡が3年生のとき、大阪桐蔭は夏の甲子園に出場。以降はコンスタントに出るようになった。

しかし確固たる地位を築いた今も、西谷は努力を惜しまない。社会科の教師でもある西谷がスカウト活動にあてられるのは、基本的に土曜日のみ。その土曜日も午後から練習があるため、午後2時までにはグラウンドに戻ってこなければならない。

「土曜日は朝6時前後に家を出れば、近場なら3~4チームは見て回れる。最初の選手は1打席目だけ見て、次のところへ行ったりする。そうして何度も顔を出すことが大事なんです」

中田翔(日本ハム)を獲得したときには、40~50回は通ったという。中田は広島のチームに所属していたため、金曜日の終電で広島へ移動。ビジネスホテルに1泊し、翌日は早朝から中田を見て、午前11時広島発の新幹線で大阪へ戻った。

「中田はいつも7時ぐらいに来るんです。だから、6時45分にはグラウンドへ行っていましたね」

名監督は、名スカウトマンでもある。

中心選手・根尾昂(3年)の投球を見つめる大阪桐蔭・西谷監督。細かい指導はあえてせず、選手同士で競わせるのが桐蔭の育成方針だ

ボールは空に返せ

時速150kmの豪速球を打ちたい――そう思ったら、「現在地点」と、その「目的地」を定規を使って一直線に結ぶ。そして、その間にどんな急峻な山があろうとも、真っ直ぐに突き進む。それが智弁和歌山の監督・高嶋仁(ひとし)(72)という男だ。

「甲子園には化けもんみたいなピッチャーがおるでしょう。だったら、うちは150プラス10kmで練習しとこうか、って」

時速164km。これが智弁和歌山のピッチングマシンの最速記録だ。智弁和歌山は練習の最後に、毎日、そんな真っ直ぐを約2時間打ち込む。だから試合で相手投手を目の当たりにし、「おせえ」と焦ることはあっても、「速い」と気後れすることはまずない。

智弁和歌山に追いつこうと、いくつものチームが「160km打ち」に挑んだ。

「でも、ちょっとするとだいたい電話がかかってくる。『無理ですわ』って。どれぐらいやったんやって聞くと『2週間』とか言うから『そのぐらいで打てるようになると思うんか!』って言ってやるんですけどね。俺は違う。打てん? だったら打てるまで打て。1年かかろうとも、2年かかろうとも」

高嶋は五島列島の福江島で生まれ育った。中学を卒業すると同時に島を出て長崎の名門、海星で甲子園に出場。その後、日体大を経て智弁学園の監督となり、最初に甲子園に出たのは’76年春だった。


「涙出てきましたよ。ぼろぼろ。自分のときより感動した。甲子園は麻薬ですよ。やめられなくなる。甲子園から戻ってきて1週間もすると震えがきますから。また甲子園行きたい、って」

’80年、智弁和歌山に赴任。’93年以降、破竹の勢いで勝ちを重ね、今春、高嶋は甲子園通算勝利数68を達成した。

高嶋の指導方針は、これまでの高校野球の教科書にはないものばかりだ。いわゆる高校野球的な発想では「フライ=悪」となりがちなのだが、智弁和歌山の場合はゴロを転がすと怒られる。

「空中にきたボールは、空中に返さなあかんやろ。ライナーで内野の頭、外野の頭を越したほうがヒットになる確率は高い。それにゴロじゃ、ホームランは出ん」

高嶋の前に道はない。高嶋の後ろにも道はできない。

智弁和歌山・高嶋監督の代名詞であるベンチ前の仁王立ちは、甲子園で初勝利を挙げたときに始め、やめられなくなったという

ヒールの美学

自分を飾るということを知らない男である。


「ええやん。あれで松井の株が上がったんやから」

「松井5敬遠」について尋ねると、明徳義塾監督・馬淵史郎(62)は、ぶっきらぼうに言った。

’92年夏、明徳は星稜の主砲・松井秀喜を5打席連続で敬遠し、3ー2で勝利した。しかし、スタンドは「帰れコール」の大合唱。その後、社会問題にまで発展した。

「松井5敬遠でぼろくそ言われて、ヒールあつかいよ。でも、大監督で、教育者で、っていうイメージつくられるほうが大変だよ。これは持って生まれた性格やから。爽やかな感じを出そうにも、照れくさぁーて、できないんすよ」

愛媛県の大島という小さな島で少年期を送ったこと。愛媛という野球王国で思春期を過ごしたこと。いくつも要因があるのだろうが、本人の言葉を借りれば馬淵はいつだって「命を張って」野球をしてきた。その習いが血肉化していた。

敬遠は「逃げ」ではない。無条件で一塁を与えるリスクを負って、次の打者と勝負するという「選択」である。むしろ、馬淵にとっては、渾身の勝負手だった。

「野球は勝たないかん。それがなくなったらやめる。負けてもええような勝負やったら、やるな、って。俺は、それがいちばん正直やと思うんだけどね」

高校野球史上、徹底した敬遠戦術で勝利につなげることができたチームはおそらくほとんどない。馬淵は「監督がカラスが白だと言ったら白だと思わないかん」と選手に伝えていたし、その教えを信じ込ませる強烈なカリスマ性を持っていた。だからこそ、あれだけの作戦を完遂することができたのだ。

この夏、全国高校野球選手権は第100回大会を迎える。夏の甲子園は、監督たちの生が燃える瞬間でもある。点火までのカウントダウンが始まった。

嘘がつけない性格の明徳義塾・馬淵監督。囲み取材でも「キワドイ発言」はよく飛び出すが、記者が気を利かせてスルーする

高校野球 名将の言葉

8月2日に出版される本書では、20人の名将たちの姿が描かれている

取材・文:中村 計(ノンフィクションライター)

写真:時事通信社

 

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