今こそ「南海ホークスメモリアルギャラリー」に野村克也の記録を
南海ホークスの歴史から抹殺されている野村克也。不自然な関係に、今こそ終止符を!
大阪球場(正式には大阪スタジアム)は1951年に開場した。南海ホークスはこの本拠地での38シーズン中10回の優勝を遂げた。この間に最も多くの安打、打点、本塁打を記録したのは先日亡くなった野村克也だった。野村はこの間、5回のMVPにも輝いている。
傾斜の強いすり鉢状のスタンドをもつ球場には、強いころはたくさんお客が入った。南海-西鉄は黄金カードだった。大阪球場のネット裏のボックス席には、お客を案内したりビールや飲み物のサーブをしたりする案内嬢がついて話題になった。美人が多かったが、そのうちの一人はハワイ出身の内野手、カールトン半田の妻になっている。
野村克也は1977年シーズン終盤に監督を解任され、チームを追われたが、南海ホークスはなおも11シーズン大阪球場を本拠地とした。このころには下位に低迷し、球場には閑古鳥が鳴くようになった。この間に、周辺の再開発が進み、大阪球場にも有効活用すべきという声が上がった。
またホークス自身も赤字が深刻になったためダイエーに身売りが決まった。南海ホークスは1989年から福岡に移転し、福岡ダイエーホークスとなったのだ。
1988年10月15日の大阪球場での南海ホークスの最終戦には、3万人を超す大観衆が詰めかけた。筆者もその一人だった。日ごろからこれくらい観客が来ていれば、身売りの話はなかったはずだと複雑な気持ちになった。
「行ってまいります」当時の杉浦忠監督はスタンドに向かってそうあいさつした。ドカベンこと香川伸行は二軍落ちしていたため観客席の前列で見ていたが「ドカベン、お前もグラウンド降りんかい」というファンの声に押されてグラウンドに降りた。
グラウンドには当時の南海電鉄、吉村茂夫社長の姿もあったが、ファンからは「よしむらー、お前もダイエーに買うてもらえー!」という声が上がった。これらの人々もすでに鬼籍に入った。野村克也は8年前に引退し、当時は解説者だったが「私は西武ライオンズのOBなので」とコメントをしなかった。
大阪球場はしばらくの間存続し、近鉄が主催試合をしたが、1990年代にはグラウンド内が住宅展示場になった。
筆者は球場の横に立った超高層ホテルの広告の仕事をしていたが、階上から見下ろすと内野いっぱいに住宅が建てられていた。「ホーム(本塁)にホーム(住宅)が建ってるがな」とつまらない駄洒落を飛ばしたものだ。
2003年に大阪球場跡地は「なんばパークス」という大型商業施設になった。最上階は植栽が植えられ、公園のようになった。
その一角に「南海ホークスメモリアルギャラリー」が開設された。一時代を築いた南海ホークスのちょうど半世紀の歴史を顕彰する小さなミュージアムだった。

しかしこのギャラリーには、南海最大の功労者である野村克也に関する記録は一切残されていない。また周辺の公園風のスペースには「なんば」にゆかりの人物の手形が展示されているが、ここにも野村のものはない。
バットやユニフォームなどの展示がないだけではない。年表にさえも「野村克也」の文字は一切ない。
野村が三冠王に輝いた1965年は、年表には、
「シーズン後、鶴岡(一人)監督辞意表明も蔭山(和夫)新監督急逝で復帰」とあるだけだ。
また野村克也がプレイングマネージャーに就任した1970年には
「D.ブレイザーヘッドコーチを招聘、作戦面を指揮」とあるだけで、監督名は記載されていない。
1959年に巨人を破って日本一になった際の動画が流れているが、野村の姿は確認できない。
まるで旧ソ連で失脚した幹部が、あらゆるメディアや記録から抹殺されたことを思い起こさせるような徹底ぶりだ。
これは野村克也サイドが、強く拒絶したからだと言われる。南海電鉄側と応対した野村沙知代夫人は、その著書によれば、文物の提供だけでなく年表への記載も即時に断ったうえで「20数年ぶりで、やっとあなたたちにカタキが取れます」と言ったという。野村克也も同調した。
南海電鉄側にも野村への悪感情があったのではないかという見方もあるが、おそらくそれはないだろう。野村克也が南海を退団した翌年の1978年に刊行された「南海ホークス40年史」には、野村の業績はしっかり記載されているし、その人物を紹介するコーナーでは「球団にとっても、また野村にとってもそれは痛恨事であった」「これからの活躍を祈りたい」と記されている。
筆者は野村克也の訃報に接した翌日、久々に「南海ホークスメモリアルギャラリー」に足を運んだ。
以前は水島新司氏の『あぶさん』などの展示もあったが、おそらくは著作権の問題でなくなった。エレベーターホールの一角に、ささやかな展示があるだけだ。
少し期待はあったが「野村克也逝去」に対する哀悼の意などのメッセージはなかった。相変わらず「野村克也抜き」の球団史が展示されているだけだ。もう南海電鉄にも往時を知る人はほとんどいなくなって、野村と南海の関係に思いが至る人はいないのだろう。
しかし野村克也はキャリアの安打数の97.0%、本塁打数の98.2%、そして監督勝利数の32.8%を「南海ホークス」のユニフォームを着て記録しているのだ。野村克也の記録、記載が一切ない「南海ホークスの歴史」は、球史としては全く不完全なのだ。
野村克也、沙知代夫妻が逝去した今、恩讐をこえて、すべての野球ファン、とりわけホークスファンのために、「南海ホークスメモリアルギャラリー」に野村克也の記録を記載すべきだと思うが、いかがだろうか。
文・撮影(南海ホークスメモリアルギャラリー):広尾 晃(ひろおこう)
1959年大阪市生まれ。立命館大学卒業。コピーライターやプランナー、ライターとして活動。日米の野球記録を取り上げるブログ「野球の記録で話したい」を執筆している。著書に『野球崩壊 深刻化する「野球離れ」を食い止めろ!』『巨人軍の巨人 馬場正平』(ともにイーストプレス)、『球数制限 野球の未来が危ない!』(ビジネス社)など。Number Webでコラム「酒の肴に野球の記録」を執筆、東洋経済オンライン等で執筆活動を展開している。
写真:時事通信社