有望な若手を続々獲得 西武ライオンズの敏腕スカウトは元仏具屋 | FRIDAYデジタル

有望な若手を続々獲得 西武ライオンズの敏腕スカウトは元仏具屋

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プロ野球のキャンプは後半戦に突入している。各球団は選手、監督と共に、スカウトも練習のサポートや今年入団したばかりの新人の世話係としてキャンプ地で過ごす。13年目を迎えた竹下潤スカウトは埼玉西武ライオンズに入団した9人中、1位指名の宮川哲ら3人の担当スカウトであり、最近3年連続で1位指名選手の担当スカウトでもある。その竹下氏が2003年に現役を引退後、4年間は仏具屋で仕事をしていたことはあまり知られていない。今の仕事にどう生きているのだろうか。

野球界に戻るつもりはなかった

「私個人の力だけで選手を獲れたわけではありません。ウチの球団はスカウトそれぞれの担当地区はありますが、選手を指名する際は全員集まってクロスチェックして、最終的に取る選手を決めます。たまたま自分が担当地区の選手が重なったというだけですよ」

控えめに明かす竹下氏は、駒澤大学から1991年ドラフト1位で入団した左腕。大学時代は若田部健一(福岡ソフトバンクホークス・三軍投手コーチ)に次ぐ2番手投手だったが、1995年に東尾修監督が就任すると、先発、中継ぎ、抑えとフル回転。しかし2000年以降は不整脈や故障に悩まされ、2003年に戦力外通告を受けた。

「引退後もライオンズに携われたら、とは思っていましたが、当時ポジションがなかった。大学時代の恩師、太田さん(誠、元駒澤大学野球部監督)に相談に行くと、『お前、そっち(一般社会)のほうが向いているよ。野球界に残るな』みたいな言葉をいただいたんです。私自身、『もう1年できたかも』という感情が残るのが一番嫌でしたし、家族を養うために働くことを考えたら、その感情が邪魔になると思いました。なので、まずは野球界と完全に決別しようと思って、受けられるトライアウト、テストをすべて受けて『ダメ』と言われて、踏ん切りを付けました」

すぐに太田氏に紹介された複数の会社の面接を受けた。竹下氏は面接で厳しい洗礼を浴びるうちに、一般社会で生き残る条件が見えてきた。

「野球選手って結局、技術屋さん。当時の私と同じ年齢(34歳)の人はみんな経験を重ねて役職についている。新しい仕事に就くとしたら、常に上をいく(いられる)仕事じゃないと無理だなと感じました」

受けた会社の中に、駒澤大学応援団長OBがやっている葬儀屋があった。その社長は仕事の合間に竹下氏が駒澤大学野球部のお手伝いに関わることも許してくれるおおらかさもあった。定期券を購入し、電車通勤する新生活がはじまった。

「仕事内容はお寺さんへの営業です。ご遺族にお寺の装飾品、仏具、線香、ろうそく、位牌などを買っていただけるよう、そのお寺の方から私を紹介してもらえるように『食い込む』ことでした。ピンポンを鳴らして繰り返し挨拶して……。『もう来るな』と門前払いされたこともありました。お茶を出していただけるようになるまで相当、時間がかかりました。
野球選手の頃は周囲が気をつかってくれましたが、今度はこちらが相手のことを考え、気を配らなければいけない。予防接種を受けているのに、インフルエンザに2回かかった年もありました」

踵を減らして通い続け、会社に戻れば、恩師の太田氏がしていたように、挨拶した会社にお礼の「絵手紙」を書いた。そうする中で気づいたことがあった。

「営業目的でお寺に出入りする人は年配の男性が多くて、私のように30代で異色の経歴を持った人はいなかった。だから、自分が仕事を覚えれば、スペシャリストになれるんじゃないかという見通しが立ちました。ただ、話のきっかけとして野球選手だったことを話しても長続きしない。結局、竹下潤という人物を気に入ってもらわないといけないという結論になったんです。この業界はどうしても黒と白のシャツが正装になりますが、話のきっかけを作るために、ワイシャツの色もピンクに変えて、『彼は何なの?』と相手に意図的に思わせることもありました」

現役時代は先発、中継ぎ、抑えとフル回転。1998年のパ・リーグ優勝決定試合に先発し、当時まだ捕手だった和田一浩とのバッテリーで、見事勝ち投手となった
現役時代は先発、中継ぎ、抑えとフル回転。1998年のパ・リーグ優勝決定試合に先発し、当時まだ捕手だった和田一浩とのバッテリーで、見事勝ち投手となった

営業部長にかかってきた予期せぬ電話

駒澤大学はもともと曹洞宗のお寺を起源に発展した学校だったこともあり、そのツテをきっかけに地道に人脈を広げていくうちに、関東近郊を飛び越えて、北海道のお坊さんまで紹介してもらえるようになった。部下を4人携える営業部長になった頃、西武から「スカウトをやらないか」と声がかかった。

「ある程度、保証された生活からまた1年契約の不安定な生活に戻るので家族に相談したら『戻ってほしい』と。家族に背中を押されていなかったら、野球界に戻るつもりはなかったんです」

スカウトになった理由は竹下氏自身は今も知らない。ただ大学までアマチュア球界でプレーし、入団後は先発、中継ぎ、抑えとフル回転してチームの優勝に貢献。現役晩年は当時、アスリートの中では認知度が低かった不整脈を患いながらプレーを続けた苦しい経験も買われた模様だ。竹下氏にとっては予期せぬオファーだったため、関係者の連絡先や仕事内容の引き継ぎなどを行う時間もないまま、新しい仕事がはじまった。

「あいさつ回りからはじめましたが、結局、指名を考えている選手の監督さんに自分の本質を知ってもらい、選手に契約をしてもらわなければいけない。その流れは、仏具屋の時と一緒なんです。私たちが高校、大学、社会人の監督さんにすんなり受け入れてもらうまでは時間が必要。事務室に電話をして監督さんにつないでもらい、アポを取るところからはじめます。

もし仏具屋の経験がなかったら、野球界のツテを使って監督さんの携帯番号を聞き出して直接かけていたかもしれない。でも相手に失礼です。見知らぬ番号から突然、電話がかかってきたときに抱く不信感ってあると思うんですが、その感情は、ベテランの監督さんも若い監督さんも一緒ですよ」

球界から距離を置いた時期に培ったスキルが思わぬ形で生きたこともあった。2017年6月、当時一軍投手コーチの要職に在りながら、病気のため42歳で急死した森慎二氏の通夜、葬儀の運営に現役時代に一緒にプレーした竹下氏も悲しみをこらえて関わっていた。竹下氏は続ける。

「選手は、球団に入るときもそうですが、辞める時も大変だと思っています。ですから入団して1年ぐらいはしつこく選手と関わって、何でも相談できるお兄さんのような存在になるように努めています。いずれは長く活躍してFAの権利を得たり、海外に渡れる選手を指名したいと思っていますが、私自身、現役時代にクビになり、その後サラリーマン経験もあるので、辞めた後のことまで考えて現役時代を過ごせるかが大事だと伝えています。どこにどんな縁が存在するか、わかりませんから。今はSNSの時代ですが、こういう時だからこそ、アナログだったり人と人のつながりが大事になると思っているんです」

プロ野球選手の人生は1年1年が勝負。脚光を浴びる選手もいれば、一度も一軍に呼ばれずに球界を去る選手もいる。どんな足跡を残したとしても、指名した選手を「ファミリー」と呼ぶ竹下スカウトと選手の絆はきっと、一生続く。

  • 撮影埼玉西武ライオンズ(キャンプ中)写真ベースボールマガジン社

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