都庁、日本橋…。もしかしたら、こんな景色になっていた!?
実在する建築の陰には、この世に存在しない、実現しなかった建築がある
記憶に新しいザハ・ハディドの「新国立競技場」設計案。あの流線形の斬新なデザインは、間違いなく、日本で実現しなかった最も有名な建築だ。
「もし、こちらの建築が実現していたら、首都東京の風景はどんなふうだったのか?」「あの都市の景色や人々の生活は、どう変わっていたのだろうか?!」と想像を巡らすと、今ある建築の見方もまた変わってくる。そんな、実現しなかった建築家たちの夢、もう一つの建築の世界を見てみよう。
実在しないけれど、語り継がれる“アンビルト/未完の建築”とは
技術的には可能だったが社会的な条件や制約によって実施できなかった建築、既存の建築に対して批評精神を打ち出すことに主眼をおいた提案…。建築の歴史を振り返ると、完成に至らなかった素晴らしい構想や、あえて提案に留めた刺激的なアイディアが数多く存在する。
そういった20世紀以降の国内外のアンビルトの建築に焦点をあてた『インポッシブル・アーキテクチャー』という展覧会。インポッシブルに打ち消し線が引かれているのは、「その建築は本当に建てることが不可能だったのか? 不可能にしたのは何だったのか?」と問いかける意味もあるという。
新型コロナウイルスによる肺炎の感染予防対策のため中止になったこの展示会。会場未公開作品も含め、その作品の舞台になった地の現在の風景とともにたっぷりと紹介しよう。見逃した人は必見だ!
東京都庁舎(東京・新宿)
あえて提案された「低層建築」は縦割行政へのアンチテーゼでもあった!?/磯崎新《東京都新都庁舎計画》
東京都庁の有楽町から新宿への移転にともない、1985〜1986年にかけて、都庁舎の設計者を選定する指名コンペが実施された。棟数の制限はないものの、実施要項を読めば「超高層2棟」が求められていたのは明らかだったのに対して、磯崎新は「低層案」を提出して論議を呼んだ。
低層といっても、地上23階建て、高さは97mに及ぶのだが。本庁舎は4つの主ブロックからなり、これらの間に高さ約90m、長さ約300mの十字の吹き抜けを設けて、ここを市民のための「大広間」とした。
この時の募集要項では、「21世紀に向けて発展する東京の自治と文化のシンボル、国際都市東京のシンボル」等、新都庁舎に執拗にシンボル性が求められていたが、彼は、高さや装飾にそれを求めず、市民のための大広間にシンボル性を持たせた。
ご存知の通り、現在、新宿副都心にそびえ立つのは、パリのノートルダム大聖堂の双塔の形を模したといわれる超高層の都庁舎。設計したのは丹下健三。磯崎新は、丹下の弟子。戦後日本最大と言われたこのコンペは、師弟対決としても注目された。
建築後、“バブルの塔”と揶揄された243mの超高層ビルに対して、十字の天から“市民のための大広間”に光が差すシティホール。落選したが、磯崎の作品は評価が高く、戦後のアンビルトを代表する作品とされている。
さまざまな風刺を凝縮させた“ガラスの城”/会田誠《東京都庁はこうだった方が良かったのでは?の図》
現代の日本社会の課題に敏感に反応し、作品に反映させてきた美術家の会田誠は、《新宿城》(1995年)、《新宿御苑大改造計画》(2001年)など、過去に新宿をテーマとした作品をいくつか発表している。
2018年に提案した《東京都庁はこうだった方が良かったのでは?の図》は、雲を突き抜ける巨大なガラスの城。作品上に「発注・会田誠 受注・山口晃」と記されているように、画家・山口晃に“発注芸術”のスタイルをとった作品だ。
「現都庁より1.5倍は高いイメージ」、てっぺんには「ここは露骨に天守閣」、「和の建築っぽいところは僕はうまく描けないので、山口くん、おねがい♡」などと書き込まれたアイディアスケッチには、石垣部分には青っぽいミラーガラス、枠はアルミなど、素材まで指定されている。
会田氏曰く「金さえかければ、現実に作れなくはない」と、“未完の建築”の要因のひとつである「予算」を指摘している。
大阪市中央公会堂(大阪・中之島)
若かりし安藤忠雄が自発的に発表した大阪市中央公会堂の再生案/安藤忠雄《中之島プロジェクトⅡ-アーバンエッグ》
安藤忠雄は、建築家として独立した当初から、誰に依頼されるでもなく、自分がいつか実現させたいと考える公共建築の改修案や設計案を発表してきた。大阪北区の中之島にある大阪市中央公会堂の再生案《中之島プロジェクトⅡ-アーバンエッグ》はその一つで、1988年に創案された。
当時、老朽化が進んでいた公会堂の再生案として、安藤が考えたプランは、建物内部に巨大な卵型の構造体を作るという大胆な発想のものだった。公会堂内部の1、2階吹き抜けの1500人収容のホール部分に、長径32m、短径21mのアーバンエッグ(卵型構造体)を内包させて、その内部を約400人収容の小ホール、外部をギャラリーとして再生させるというプラン。
この提案が実現することはなかったが、その後、イタリア・ベネツィアの旧税関倉庫を現代美術館に改修した《プンタ・デラ・ドガーナ再生計画》など、歴史的建造物の内部にコンクリートによる新たな空間を挿入することによって「再生」させるプロジェクトをいくつも手掛けている。そういう意味では、未完の大阪市中央公会堂の再生案を別の形で実現させたとも言える。
東京国立博物館(東京・上野)
募集要項に抗して、ル・コルビュジエに学んだ男が提案したミニマルなデザイン/前川國男《東京帝室博物館 設計案》
1923年に起きた関東大震災で、ジョサイア・コンドル設計の本館などが大破した東京帝室博物館(現・東京国立博物館)。1931年、その再建の設計コンペに応募した前川國男の設計案は、落選したにもかかわらず注目を集めた。
建築様式の条件に「日本趣味ヲ基調トスル東洋式トスルコト」と定められていたのに対して、フランス留学でル・コルビュジエに学んだ前川の提案は、東洋風の瓦屋根ではなくフラットルーフで、装飾性のないミニマルなデザインが特徴。最先端のインターナショナル・スタイルだったモダニズム建築をあえて提案したのだ。
審査の結果選ばれたのは、コンクリートの建物に東洋風の瓦屋根という、いわゆる「帝冠様式」(鉄筋コンクリート造の洋式建築に和風の屋根をかけた和洋折衷の建築洋式)の設計案。現在の東京国立博物館の本館だ。しかし、前川の落選案は話題を呼び、前川は「負ければ賊軍」という有名な一文を発表。モダニズム建築の「闘将」とみなされるようになった。
ポンピドゥー・センター(フランス・パリ)
世界中から681件のプランが集まった国際コンペ/村田豊《ポンピドゥー・センター競技設計案》
ド・ゴール政権下で「20世紀の美術館」の建築を一任されていたル・コルビュジエが1965年に急逝し、頓挫した新設美術館の計画。その後、政権を後継したポンピドゥー大統領が、現代芸術に特化した複合施設の構想を改めて推進し、国際コンペが実施された。
そして、1977年、イギリス人のリチャード・ロジャースとイタリア人のレンゾ・ピアノ等のユニットによる「ポンピドゥー・センター」が完成。エスカレーターや配管をむき出しにした斬新なデザインは、当時激しい非難を浴び、パリの新名所として認められるまで時間を要した。
この国際コンペは、他も実施案に勝るとも劣らないアナーキーな提案を集めたものだったという。
このとき、村田豊の案は佳作を受賞。4本の巨大な柱を建て、その頂部から8層に及ぶフロアを吊り下げた。これにより屋内に無柱の大空間が生まれるというアイディアは、直接師事したル・コルビュジエが提唱する“自由な平面”を意識したとも。建物のボリュームのすべてを吊ることで、その下にも広大な無柱空間が確保され、その姿は一本の大樹のようにも見える。
日本橋(東京・日本橋)
首都高の上に、さらに太鼓橋をかける!? /山口晃《新東都名所 東海道中「日本橋 改」》、会田誠《シン日本橋》
「日本橋はいっそ首都高の上に、上れないくらい急斜面のやつを造ったらおもしろいんじゃないか」と考えていた会田誠は、先出の都庁案同様に、山口晃に描いてもらうことを思いつく。しかし、すでに山口の浮世絵《新東都名所 東海道中 「日本橋 改」》が存在することを知り、仕方なく自分でクレヨンを使って描くことにしたという。
東京・日本橋の頭上を走る首都高速道路については、地下化することが2018年に決まったが、会田、山口が思いついたのは、さらに木造の巨大な太鼓橋を架けて、首都高を覆い隠してしまおうというもの。
山口晃が《新東都名所 東海道中「日本橋 改」》を描いたのは2012年、会田が《シン日本橋》を思いつく何年も前になる。会田の《シン日本橋》(2018〜19年)には、「ニセ口晃 こと会田誠筆」の署名が入っている。
20世紀初頭から約100年の間に、国内外で完成に至らなかった約40人の建築家、美術家の構想を、図面や模型、関連資料で紹介する展覧会『インポッシブル・アーキテクチャー―建築家たちの夢』は2月28日まで国立国際美術館(大阪市北区)でおこなわれていた。(※3月15日までの会期予定でしたが、新型コロナウイルス感染拡大防止のため変更になりました)
参考文献:『インポッシブル・アーキテクチャー』五十嵐太郎 監修(平凡社)
- 取材・文:井津多亜子
- 作品画像提供:国立国際美術館