新型コロナの今こそ…あの3・11危機を振り返る映画の中身
3.11。我々日本人が、生涯忘れられない数字だ。2011年3月11日に発生した東日本大震災から、もうすぐ9年が経つ。
図らずも今、日本列島は「新型コロナウイルス」の危機に覆われ、日々情報が錯綜中。マスクやレトルト商品、トイレットペーパーが品薄になり、イベントが相次いで中止・延期を余儀なくされている。この状況に、SNSなどでは「東日本大震災の当時を思い出してしまう」という感想も続出。3.11はまだ、我々の心に暗い影を落とし続けている。
そんな中、3月6日に公開された1本の映画がある。東日本大震災による原発事故に立ち向かった福島第一原子力発電所の職員や関係者、そしてその家族を描いた『Fukushima 50』(20年)だ。
つい先日、第70回ベルリン国際映画祭で「ジェネレーション 14プラス部門」国際審査員特別賞を受賞した『風の電話』(20年)や園子温監督作『希望の国』(12年)、『遺体 明日への十日間』(13年)、『シン・ゴジラ』(16年)、『君の名は。』(16年)、『太陽の蓋』(16年)など、東日本大震災が影響を与えた(と推察される)映画は数多いが、福島第一原子力発電所で当時、何があったかを真正面から描いた劇映画は、初ではないか。9年経って、ようやく描けるフェーズに入ったのかもしれない。それほどに、当時の“傷”はまだ生々しい。
例えば、映画の都ハリウッドや他国であれば、「忘れないために」もっと早く劇映画化されていたのだろうか。2001年に発生したアメリカ同時多発テロ(9.11)を描いた『ワールド・トレード・センター』や『ユナイテッド93』は2006年の作品。2009年に起こった旅客機不時着を描いた『ハドソン川の奇跡』は2016年の作品。2013年に起こった巨大山火事を描いた『オンリー・ザ・ブレイブ』は、2017年の作品。2016年に起こったセクハラ騒動を描いた『スキャンダル』は2019年の作品だ。
ただ、2004年のスマトラ島沖地震による津波を描いた『インポッシブル』が2012年の作品であるように、やはり観る側にも、作る側にも時間は必要だったのだろう。そのことを、『Fukushima 50』を観ると痛感させられる。何故か。冒頭から、一瞬にして「あの日」に引きずり戻されるからだ。
本作は、容赦なく東日本大震災を、そしてその直後に起こった大津波を描く。そこに、一切の妥協はない。映画が始まって、ものの数分で、波が人を、建物を恐るべき速度で呑み込んでいく。正直に言って、かなり精神的に負担がかかるシーンだ。観る者が心の奥にしまい込んだであろうトラウマを直撃され、当時の不安や絶望が、脳裏になだれ込んでくる。この作品を観る“覚悟”を問われているかのようだ。あくまで私見ではあるが、9年経った状態でこれほどのショックが待ち受けていたことからも、やはりこのテーマは今日まで描けなかったのだと思う。
映画はその後も、地震と津波で機能停止した福島第一原子力発電所で何が起こっていたのかが、リアルタイムで描かれていく。原子炉を冷やせない状況に陥った福島第一原子力発電所は、未曾有の危機に瀕してしまう。万が一メルトダウンが起これば、被害範囲は東京を含む半径250㎞、約5,000万人にも及ぶ。残された手段は、作業員の手作業による決死の作戦だけだった……。絶体絶命の窮地が、時間がたつごとに悪化。「最悪」が更新される展開に、ここまで危険な状況だったのかと愕然とさせられる。
今、この国に生きている我々は、当然この物語の“結末”を知っている。ただ、多くの方が“過程”も“内実”も、その詳細までは把握していなかったのではないだろうか。
『Fukushima50』を観進めていくと、映画本体が持つ緊迫感とは別に、我々のこれまでの人生とリンクして、言いようのない恐怖に襲われることだろう。私たちが今ここにいること、劇場に足を運んで映画を観ていられるこの瞬間こそが、「奇跡」だと思い知るからだ。
3.11の発生当時、あなたはどこにいただろうか。苦しいかもしれないが、少しだけ記憶をさかのぼっていただきたい。帰宅困難になった方もいただろう。家族と連絡が取れなくなった方も多いはずだ。筆者はあの瞬間、職場にいた。机の下に隠れたが揺れはこれまで経験したことがないほど大きく長く、人生で初めて“地震酔い”を起こした。ただ事ではないと、全身で感じたことを憶えている。
テレビから流れてくるニュースは、福島第一原子力発電所の状況を知らせてくれたが、多くの人々には専門知識がなく、想像を絶する死傷者の数が映し出され、ただただ不安な感情でいっぱいだったはずだ。計画停電が起こり、真っ暗な中で「日常」がもう終わってしまったのだと悟る――。我々がどん底にいたあの瞬間、被災地のど真ん中で、命がけで二次災害を食い止めようとしていた人たちがいた。そして、彼らがいなければ、奇跡が起きなければ、今の私たちの生活は存在しなかったのだ。この“事実”は、言葉で言い表せないほど重い。
本作を観ている約2時間、我々の脳裏にはそれぞれの3.11と、命を賭した彼らの3.11がオーバーラップする。両者が融合することで恐ろしい記憶がまざまざと蘇るだろうし、9年間の情報が更新されもするだろう。「観る者の過去が上書きされる」、それはこの映画がもたらす驚異的な影響だ。
『Fukushima50』を、現実と切り離した「映画」として論じることも、きっとできるのだと思う。ただ、「スリリング」とか「緊迫」とか、そういった言葉で片付けることはできない。劇映画ではあるが、この作品で描かれていることは事実に基づいた事象であり、私たちは「観客」ではなく「当事者」なのだ。他の映画と同じような扱いにすることは、絶対に無理に違いない。私たちの中には、「東日本大震災の生存者」という前提がもう、出来上がっているのだから。
「観てほしい」――そう声を大にして伝えることが、憚られる現状ではある。新型コロナウイルスの感染状況がどう推移するのか、この日々がいつ終わるのか、まだ分からない。
ただ1つ言えることは、この映画には、私たちが過ごした9年間の意味を変えるだけのとてつもない「何か」が詰まっている。事実、想い、鎮魂……それらが入り混じった、筆舌に尽くしがたい何かだ。届いてほしいと、切に願う。
- 文:SYO
映画ライター。1987年福井県生。東京学芸大学にて映像・演劇表現について学ぶ。大学卒業後、映画雑誌の編集プロダクション勤務を経て映画ライターへ。現在まで、インタビュー、レビュー記事、ニュース記事、コラム、イベントレポート、推薦コメント等幅広く手がける。