「二千万円借金とホスト黒水着時代」坂本一生が苦難を激白
騒動から27年…
「’93年に芸能界デビューしてから、トラック運転手、レストラン店長、ホスト、探偵、便利屋など15回以上職業を変えました。飽きっぽいわけではないんですけど。地元・八千代市(千葉県)でパーソナルジムを経営し、20代~70代までの会員を指導しています」
こう語るのは、タレントの坂本一生(48)だ。坂本といえば、思い返されるのが’93年に芸能界を震撼させた大騒動だろう。当時、織田裕二や吉田栄作とともに“トレンディ御三家”と呼ばれるほど人気を博したのが俳優の加勢大周だ。
しかし、加勢は所属事務所から円満とはいえない形で独立。対抗処置として、事務所は当時まだ見習い俳優だった坂本を「新加勢大周」の名前でデビューさせた。芸能界に誕生した“2人の加勢”――。坂本が騒動を振り返る。
「当時ボクは高校を卒業したばかりで、語学留学のため2年間オーストラリアにいました。加勢さんの名前すら知りません。帰国した時、たまたま成田空港に事務所のマネージャーがいた。彼はボクの顔を見るなり、名刺を渡し『タレントになりませんか』と声をかけてきたんです。
自宅にまで電話が来たので事務所に行くと、見せられたのが加勢さんのビデオ。コカ・コーラのCMや映画『稲村ジェーン』に出演しているのを知り、初めて加勢さんがスゴイ人なんだと認識しました。しかも社長は、『オマエを新加勢大周という名前でデビューさせる!』と言い始める。『ええっ!?』と違和感しかありませんでしたが、まだ20代前半のボクが拒否できるハズもありません」

華奢な体型で、白いTシャツがトレードマークだった加勢大周。一方の新加勢大周は、常に黒いタンクトップ姿でマッチョな肉体を強調した。
「雪の降る中タンクトップ1枚で、腕相撲大会のイベントに参加したこともあります。開催直前までガウンにくるまりブルブル震えているのに、イベントが始まると何食わぬ顔で登場しないといけない。ツラかったなぁ……。
恐怖を感じたのは、加勢さんを侮辱されたファンの怒りですね。都内でロケをしていた時のことです。若い女性がボクに向かって、数十m離れた場所から中身の入ったコカ・コーラの缶を投げつけてきた。『バーカ!』と大声で叫んでね。缶はボクに当たりませんでしたが、足元で『ブシュッ!』と勢いよく泡が弾けたのを覚えています。
また事務所に、異物が放置されていたのには驚きました。何か臭うなと入り口のドアを見ると、置いてあったのはなんと人間の巨大な糞! ファンの恨みの深さを痛感しました」
夜のNHKの報道番組で、トップニュースとして扱われた加勢騒動。結局、日本俳優連合の森繁久彌や二谷英明らが社長を説得し20日後に収束する。新加勢大周という名前を封印し、坂本一生に改名することになったのだ。
「名前が変わっても芸能活動を続けましたが、弱小事務所の悲哀を感じました。大手事務所のタレントは上下関係がしっかりしているので、バラエティ番組でも後輩のボケを先輩が上手くツッコんでくれる。ボクのコメントには、誰も反応してくれません。『こうしたほうがイイよ』と教えてくれる人もいない。
でも、さすがは大御所。明石家さんまさんは他のタレントと同様にツッコミを入れてくれましたし、ポール牧さんは指を鳴らしながらボクに近づき、握った両手を鼻に当て『こうなったらダメだぞ』とアドバイスしてくれました。天狗になったら終わりだぞ、という意味です」
その後も、坂本は波乱万丈の人生を送る。’99年には「プロレスラーから芸能人になった人はいるが、芸能人からプロレスラーになった人間はいない」という、あるプロデューサーの言葉に乗せられ、佐山聡主宰の格闘技団体「掣圏道」に入門。しかし話を持ち込んだプロデューサーが示した条件に佐山が納得せず、デビューは断念せざるをえなかった。
「佐山さんの道場がある北海道・旭川から自宅のある横浜に戻ったんですが、収入を絶たれカネがありません。マンションにも住めない。しばらく車の中で暮らし、ランドマークタワーのトイレで顔を洗う生活です。中古車販売店でのバイトなどでカネを少しずつ溜め、ようやく小さいアパートの部屋を借りられるようになりました」
足場から落下しアゴを骨折
‘05年に芸能活動を再開するも、’09年に当時所属していた大手芸能事務所を退社。そこで再び災難に襲われる。交流のあった男性から、室内ゴルフ場やマッサージ店を経営する会社を立ち上げるから出資してくれと頼まれたのだ。
「ホラ話に乗ったボクがバカでした。そんな簡単に計画が進むハズがありません。男性はボクが投資したカネを持ってトンズラ。音信不通になってしまいます。借金は最大で2000万円にまで膨らみました。もう誰も信用できない……。ウツ状態になり、(自殺の名所として知られる)富士山の麓の青木ヶ原について、ひたすら調べていたこともあります」
借金返済のために、坂本はバイトを転々とする。命の危険にさらされたこともあった。
「鳶職人だった時のことです。作業主任者の国家資格も取得し、マジメに働いていました。しかし、雨の日に高さ数mの足場から落下しアゴを骨折。1ヵ月間、流動食しか食べられない状態でした。
雪かきから同窓会の幹事、スズメバチの駆除と、どんな仕事でも引き受けるという便利屋のオーナーはヒドかったなぁ。テレビの取材を受けるたびに『ヤラセ』のようなことを行っていたんです。例えばゴミ屋敷を片づけるという企画で使われたのは、社員の自宅。マンションの一室にゴミをブチまけるんですが、床は汚れていないからスグに違和感が出ます。その会社でボクは役員を勤めていましたが、さすがに嫌気がさし辞表を提出しました」
紆余曲折の末、’17年6月に八千代市で開設したのがパーソナルジムだ。新型コロナウイルスの影響で最近は新規客が増えていないそうだが、経営は安定しているという。
「高校時代は水泳部で、肉体派タレントとしてデビューする前から培った筋力トレーニングのノウハウがありますからね。いろいろ経験して、来るべきところに落ち着いた感じです。今年開催される東京五輪や健康志向のブームに乗り、なんとかジムも継続できています。
いろいろと失敗もありましたが、しぶとく生きていますよ。身体を鍛えれば、精神もタフになる。逆境にも耐えられるんです。最近はクスリに手を出す芸能人が多いですが、困ったことがあるならウチのジムに来ればいい。クスリよりも、身体を鍛えるプロテインを飲んだほうがよっぽど健康的だし、気持ちも前向きになれますよ」
“加勢騒動”から27年――。15回以上の転職で、セカンドキャリアどころかフィフティーンキャリアの末、坂本はようやく自分にピッタリの職業を見つけたようだ。
撮影:会田 園