五輪後の苦悩 バレー大林素子「取材現場の試練と蜷川幸雄の遺言」

ノンフィクション作家・小松成美が迫ったオリンピアンの栄光と苦悩 第6回

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おおばやし・もとこ ’67年、東京都小平市生まれ。バレーボールの名門・八王子実践高から日立に入団。’88年のソウルから3大会連続で五輪出場をはたす

オリンピアンにとって五輪での最終目標は、世界最高の記録を出し、金メダルを獲得することだろう。だがアスリートには、「現役引退」という競技との別れが待っている。五輪という光り輝く舞台を降りた後にこそ、長い人生が待っているのだ。

オリンピアンたちはどのような“第二の生活”を送っているのだろうか。長年スポーツ取材をするノンフィクション作家・小松成美が、知られざる選手たちの挑戦と苦悩の日々に迫る。話を聞くのはバレーボール元日本代表で、’88年のソウル、’92年のバルセロナ、’96年のアトランタと3大会連続で五輪に出場した大林素子(52)だ。大林が進み出たセカンドステージは、アスリートの世界から遥か遠く、かけ離れた場所にあった。

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バレーボール女子日本代表は、’64年の東京五輪で金メダルを獲得して以来、必ず表彰台に上がり日本にメダルをもたらしてきた。しかし、大林が初めて五輪に出場したソウル大会では24年ぶりにメダルを逃し(4位)、続く’92年のバルセロナ大会でも5位と惨敗。日本の女子バレーボールに変革をもたらそうと、プロ契約を申し出たことで所属する日立とも対立してしまう。四面楚歌の状況で一方的に解雇された後、世界最高峰のリーグ、イタリアのセリエAへ移籍し、プロ選手としてのキャリアをスタートさせた。孤立無援の中での挑戦を大林が振り返る。

「日立を解雇された時には、部屋で泣いてばかりいました。どうしてこんな目に遭わなければならないのかと、悔しくて悲しくて……。ただ、落ち込んでばかりもいられません。1週間ほど経つと、このままでは体力もパフォーマンスも落ちてしまうと感じ、同じく日立を解雇された吉原知子選手と2人でトレーニングを始めたんです。母校の八王子実践高へ行き、ランニングをしたり、体育館を借りてパスをしたり。そんな時に、セリエAの『アンコーナ』というチームでプレーしないか、というお話をいただきました」

セリエAはバレーボール選手にとって、最高の舞台であり夢の一つだ。

「私なりにオリンピックに向けガムシャラに練習していましたが、結果を残せなかった。どうしたらいいか悩みましたよ。日本代表を強くするためには、まず自分が強くならなければいけない。その瞬間に舞い込んだイタリアへの移籍話。世界で一番強い選手が集まる場所に行ってプレーすれば、それが日本女子バレー界への大きなメッセージになると考えました。セリエAには、多くのオリンピックメダリストが所属していましたからね」

日本人初の挑戦。もちろん不安も大きかった。背中を押したのは、親交があったサッカー界のレジェンドからの言葉だった。

「当時イタリア(ジェノアCFC)でプレーしていた三浦知良選手から、国際電話をいただいたんです。カズさんは、私にこう言ってくれました。『最初に行くのは大変だし、叩かれるかもしれない。でも結果を出せばすべては変わる。移籍のチャンスがあるなら行ったほうがいいよ』と」

海外でプレーする選手の先駆けとして、道なき道を切り開いてきたその人の言葉には重みがあった。

「私自身、カズさんの言葉を聞いて『よし、行ってみよう!』と覚悟を決めることができたんです」

イタリアへ渡りレギュラーを勝ち得た大林は、臆することがなかった。コートの右端から左端まで走り抜けて打つブロード攻撃は「モトコスペシャル」と呼ばれ、イタリアのファンを熱狂させた。5ヵ月を過ごし帰国した彼女は、Vリーグの東洋紡オーキスとプロ契約を締結。日本代表として3度目となるアトランタ五輪(’96年)出場を果たすのだが、メダルは遠かった。

「現役生活にピリオドを打ったのは、翌年(’97年)の3月です。私の体が悲鳴を上げていました」

現役時代、彼女は常にオリンピックを中心に日々の時間を過ごしていた。

「何もかも、五輪から五輪という4年のスパンで物事を考えていたんですよ。アトランタ五輪でもメダルを逃したうえ(9位)、以前から痛めていたヒザの調子が悪化してしまった。’00年のシドニー五輪への4年間を考えると、これまで以上のプレーはもう望めませんでした。日本代表の役に立てないのであれば去るしかないと、引退を決意したんです」

よそ者は挨拶しても無視

タレントや女優、モデル業のかたわら、現在でも広報委員としてバレーボール界を支えている

大林は引退直後、その胸にあった夢を実現することを心に期した。“第二の生活”を、スポーツから大きく方向転換させると、決めたのだ。

「私は女優になるんだ、歌手にもなる、と心に誓っていました。バレーをプレーしている間はずっと封印していましたが、実は幼い頃から憧れていたんです。宝塚歌劇団のミュージカルや音楽番組などを見て、家の中で歌や踊りを真似、いつかあのスポットライトを浴びるんだって想像していたんです」

バレーボール選手を離れた大林は、子供の頃から抱いていた夢を日々膨らませていった。

「ただ引退したバレーボール選手がいきなり『女優になりたい!』と言っても、誰も相手にしてくれないことは分かっていました。そのため、まず友人のアスリートが所属していた大手芸能事務所のスポーツ文化部にお世話になることにしました」

大林には多くのオファーが来た。バレーのコートサイドリポートやスポーツリポーター、またバラエティ番組への出演依頼は引きも切らなかった。すぐに売れっ子になった彼女だったが、新参者としての洗礼も受けることになる。

「最初はツラかったですね。例えば15年ほどやらせていただいた、モータースポーツのキャスター。モータースポーツは、かなり専門的な知識が求められる特殊な世界です。よそ者はなかなか入り込めない。キャスターになった当初、番記者やスタッフの方にご挨拶しても、しばらくは無視されていました。わざと聞こえるように、『バレーの人に何がわかる?』と言われたこともあります」

大林は悔しさを募らせる。どうすれば受け入れてもらえるか悩んだ末、自力で学び専門知識を増やすことにした。

「まずはモータースポーツ業界のことを知ろうと、仕事に関わるすべての人から話を聞きました。サーキットには年間60~70日ぐらい通い、観戦。ピットレポーターの先輩の自宅を訪問したり、工場に出かけてエンジニアのお話を伺ったり。そうした日々を2~3年続けていると、徐々に周りの方のほうから取材の仕方などを教えてくれるようになったんです」

知らないのは当たり前。教えてくださいと素直に言う態度を大切にして、キャスターの経験を積んだ。

「振り返ると、最初から優しく受け入れてもらわずに良かったと思います。自分から知識を得ようとしたおかげでモータースポーツにのめり込み、カーレースの国内A級ライセンス『MFJ PITCREW LICENCE』を取得しました。’01年には女性のみのレーシングチーム『大林アタッカーズ』を結成し、監督として『鈴鹿1000km』(’66~’17年に開催された耐久レース)に参戦するという特別な経験もさせてもらいました」

ただ、芝居や歌を唄いたいという、渇望感が消えることはなかった。だが、時々舞い込んだドラマや映画の仕事では、演技とはほど遠い“大林素子本人”か、バレーボール選手の役。売れっ子タレントになった彼女だったが、当初は自分がやりたい仕事と周囲が求める役割とのギャップに苦しんだ。悩んだ末、音楽プロデューサーのつんく♂に、頭を下げデビューを、と頼んだこともある。

「加護亜依さんや辻希美さんら、身長の低いアイドルで結成した『ミニモニ。』が大ヒットしていたんです。その流れで、つんく♂さんが175cm以上の女性を対象にした『デカモニ。』を作ろうとしているという話を聞きつけ、さっそく応募します。直接会って『やらせてください』と、お願いもしました」

結局オーディションに受かったのは大林だけで、大林による1曲限りのソロプロジェクトとなった。

「’01年8月には『大きな私の小さな恋』というシングル曲でCDまで出していただきました。一つ、夢が叶った瞬間で、今でも良い思い出です」

‘06年、39歳の時には念願の舞台にも挑戦する。ここでも、観客として「エアースタジオ」という劇団の打ち上げに参加した際、「お芝居をやりたいんです!」と直訴するのだ。東京芸術劇場で上演された『GENJI~最後の源氏~』で北条政子役を得た大林は、舞台女優としてのデビューを飾る。

大林の真っ直ぐな野心は、躊躇や消極とは対極にあった。

「日本演劇界の巨匠・蜷川幸雄さんに手紙を書きました。『お会いしたいです』と。念願が叶って初めて会った時に『大林君、どうして舞台をやりたいの?』と聞かれたので、幼い頃からの思いを伝えました。無心で思いを伝えた私に、蜷川さんは役を与えてくれました。’10年に『ファウストの悲劇』という、野村萬斎さん主演の舞台に起用してもらうんです。その後も何本か蜷川作品に出演させていただきました」

演技指導はとても厳しかったが、蜷川組で演じたことは大林にとってこの上ない財産になっている。

「蜷川さんが亡くなる直前でしたが、私がNHKの番組に出演したときに、サプライズメッセージを送ってくださったんです。そこにはこんな言葉がありました『大林君が本当に芝居をやるなんて、最初は思わなくてね。でもどうも本気らしい。大林君は背が高いから、普通の役者はムリでしょう。普通じゃないんだったら、日本一グロテスクな女優になればいいんだよ』と。嬉しかったですね。今でも、蜷川さんがおっしゃった、“グロテスクな女優”を模索している最中です」

ボイストレーニングを重ね、歌やタップダンスを習い、歴史書を読んで日本史を学び、芝居はもちろんお笑い芸人のライブにも足を運び、「演じること」と向き合う大林。日々、女優としてプラスになることには何事にもチャレンジしようと前進する彼女には、ライフワークとも言うべき芝居がある。

「『MOTHER マザー~特攻の母 鳥濱トメ物語~』という舞台です。’09年の初演から主演の鳥濱トメさんを演じています。トメさんは、特攻隊員たちが訪れる知覧飛行場近くの軍指定食堂『富屋食堂』のおかみさん。特攻隊として出撃する若者たちと、母のように彼らを思うトメさんの心情を、日本人は決して忘れてはならないと思っています」

‘19年には新国立劇場で上演されたこの舞台にかける思いは熱く、潰えることがない。「素晴らしい作品に出会いましたね」と伝えると、頷いた大林素子の声が静かに響いた。

「薄れていく戦争の記憶を、舞台を通して人々に投げかけていきたい。命果てるまで、トメさんを演じていきたいです」

(文中敬称略)

インタビュアーの小松成美氏と。取材は2時間以上におよんだ
  • 取材・文小松成美

    ノンフィクション作家、インタビュアー、小説家。取材対象者は中田英寿、イチロー、五郎丸歩、有森裕子などのトップアスリートからYOSHIKI、歌舞伎役者など多岐にわたる。著書に『横綱 白鵬』(学研教育出版)、『それってキセキ~GReeeeNの物語~』(KADOKAWA)など。最新刊は平成の歌姫・浜崎あゆみをモデルにした『M 愛すべき人がいて』(幻冬舎)。

  • 撮影福岡耕造協力アーシャルデザイン

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