五輪の逆境 バレーボール大林素子「私を奮起させた監督の苦言」 | FRIDAYデジタル

五輪の逆境 バレーボール大林素子「私を奮起させた監督の苦言」

ノンフィクション作家・小松成美が迫ったオリンピアンの栄光と苦悩 第5回

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おおばやし・もとこ ’67年6月、東京都生まれ。八王子実践高から日立へ入団。’88年のソウルから3大会連続で五輪出場。現在は女優、スポーツキャスター、モデルなど幅広く活動している
おおばやし・もとこ ’67年6月、東京都生まれ。八王子実践高から日立へ入団。’88年のソウルから3大会連続で五輪出場。現在は女優、スポーツキャスター、モデルなど幅広く活動している

オリンピアンにとって五輪での最終目標は、世界最高の記録を出し、金メダルを獲得することだろう。だが、その栄光の舞台に立つまでに、選手たちはさまざまな難関を乗り越え、出場後も多くの葛藤に悩まされる。長年アスリートを取材してきたノンフィクション作家の小松成美が、知られざるオリンピアンの挑戦と苦悩に迫った。話を聞いたのは、バレーボール日本代表のエースアタッカーとして、’88年のソウル五輪、’92年のバルセロナ五輪、’96年のアトランタ五輪と、3大会連続で出場した大林素子(52)だ。

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大林がバレーボールを知ったのは、小学校4年の頃だ。テレビで再放送されていたアニメ『アタックNo.1』を見たのが最初だった。主人公の鮎原こずえに憧れた大林は、「中学生になったらバレーボール部に入ろう」と、決意する。彼女が当時を振り返る。

「私は幼い頃から身体が大きくて、小学生になるといじめにあっていたんです。周りから『ジャイアント素子』『デカバヤシ』と言われて……。家に引きこもりがちで、自殺を考えるくらいに悩んでいました。そんな状況で『アタックNo.1』を見て、コンプレックスに感じていた背の高さがスポーツでは武器になるんだと知り、嬉しくなりました。これはもう、中学生になったらバレーボール部に入るしかない、と心に決めたんです。バレーボールで活躍して、私をいじめた人たちを見返してやろう、と」

勇んで入部した中学のバレーボール部。だが、当初はまったく楽しめなかった。

「中学入学の時点で身長は170cmあったんですが、基礎体力がなく、練習にまったくついていけませんでした。ツラくて、ツラくて、練習をサボってばかり。もちろん突然に出た試合でも活躍はできません。実は私、運動が得意ではなかったんです。中学での体育の成績も3でしたね」

バレーボールに身が入らない日々。転機となる出来事が、中学2年の時に起きる。

「何気なく読んでいたバレーボールの雑誌に、日本代表の中心メンバーが多く所属している日立バレー部の練習場が地元(東京都小平市)にある、と書かれてあったんです。私は当時、日立でプレーしていた江上由美さん(現・丸山)の大ファンでした。江上さんのサインが欲しくて、手紙を書こうと思い立ちました。でも、人気のある選手だから、普通に書いてもサインはおろか、本人に読んでもらえるかどうかもわかりません。

いろいろと考えて、監督の山田重雄さん宛に手紙を出すことにしたんです。選手より監督のほうが手紙をもらう数が少なく、読んでもらえる確率が上がるかなと考えて。それに、監督から頼まれれば江上選手もサインを書いてくれるかな、と思ったんです」

手紙は次のような内容だった。

〈小平市立第二中学校2年生の大林素子と申します。176cmの左利きでバレーボールをしています。将来は全国大会に出場して、オリンピック選手になりたいです。どうすればなれるか教えてください! P.S.選手のサインをください〉

手紙には自宅住所と電話番号も記した。すると後日、山田監督から直々に電話がかかってきたという。

「監督は『そんなに背が高くてバレーボールをやっているなら、一度練習を見学に来なさい。良かったら練習に参加したらいいよ』と仰って。喜んだ私は、中学のバレーボール部員に声をかけ、全員で練習見学に行きました」

「2位もビリも一緒だ」

現役時代のポジションはライト。利き腕は左だ
現役時代のポジションはライト。利き腕は左だ

当時の日立には、江上由美をはじめ、森田貴美枝、三屋裕子、中田久美など、’84年のロサンゼルス五輪で銅メダルを獲得することになる錚々たるメンバーが揃っていた。

「見学だけでなく、本当に練習にも参加させていただいたんです。中田久美さんのトスでスパイクを打たせてもらったのですが、空振りばかり……。睨まれて、すごく怖かったのを覚えています(笑)。ただ、私と2歳しか違わない中田さんのプレーには、大きな衝撃を受けました。本気でバレーに打ち込んでいる選手のレベルはこんなにも高いのかと、ショックを受けたんです」

練習後、大林は選手たちからサインをもらい、一緒に記念撮影もしてもらった。手紙を書いて良かったと心を弾ませていたその刹那、彼女は山田監督から声をかけられる。この言葉が、大林の人生を大きく変えることになったのだ。

「監督からは、こう言われたんです。『君の練習を見ていたけれど、正直、このままではオリンピックには出られない。本気で行きたいのであれば、明日からウチの練習に参加しなさい。そうすれば、次のオリンピックには出られるかもしれないよ』と。背が高いだけの、口先だけで『オリンピック』を語っていた私が、本気でオリンピック出場を目標にした瞬間でした」

練習嫌いだった大林は、それから毎日、学校の部活が終わってから日立の練習場に通うようになる。

「中学の部活と日立の練習を両立させるのは、死ぬほどキツかったのですが、『絶対に上手くなってオリンピックに出るんだ』という強い気持ちで、なんとかついていきました。あれだけ練習をサボってばかりいた私が、一日たりとも休まなかったんです。生まれ変わった私は、いっさい妥協をしませんでした」

中学を卒業後、バレーボールの名門・八王子実践高に進学。当時フジテレビがゴールデンタイムで放送していた“春の高校バレー”(全国高等学校バレーボール選抜優勝大会)をはじめ、数々の大会で活躍し、その容姿からアイドル的な人気を博すようになる。

「目立った成績は残せませんでしたが……。私が入学した年の八王子実践は、全国大会で三冠(春の高校バレー、インターハイ、国体)を達成するような強豪校でした。私が3年生の時の優勝は、国体の一度だけです。負けの多い高校生活でしたが、名門校に在籍する長身のサウスポー選手ということで、実力以上に注目されたんだと思います。菊間崇祠監督(当時)の口癖は『2位もビリも一緒だ』でした。優勝以外には価値がないという考えです。私にとっては悔しい高校時代でした」

それでも大林は高校3年の時(’85年)、日本代表に初選出される。同年に行われたワールドカップで国際大会デビューすると、翌’86年に日立へ入団。日本リーグで活躍し、’88年には念願のオリンピック出場(ソウル大会)を果たす。だが、苦難の日々は続いた。

「ソウル五輪では’64年に金メダルを獲得した東京五輪以来、初めてメダルを逃してしまったんです(4位)。大げさでなく、もう二度と日本に帰れないと思いました。’64年の東京五輪での“東洋の魔女”旋風から、バレーボール女子日本代表は常に金メダルを期待される存在でしたから。私たちの代で、初めて日本へメダルを持って帰れなかった……。ファンの皆さんはもちろん、協会や会社の方々、日本代表の先輩たちにも合わせる顔がありませんでした」

続く’92年のバルセロナ五輪では5位、’96年のアトランタ五輪では9位と、結果を残せなかった女子バレーボール日本代表。そんな中、大林はスポーツ界を震撼させる決断を下していた。

「日立に所属する私を含めた9人の選手で、会社へプロ契約を求めたんです。五輪での不甲斐ない結果と、’93年に開幕したサッカーJリーグの盛り上がりを受け、バレーボールも実業団ではなくプロの選手が競い合う構造にしないと世界では戦っていけない、と思ったからでした。

会社員として身分が保障された立場ではなく、もっと厳しい環境に身を置きたいという思いから、会社に辞表を提出しプロ選手として契約してもらえるようお願いしました。会社からは『急に9人も辞められては困る。シーズン終了後にプロ契約するから待ってほしい』と言われ、一旦は辞表を撤回したのですが・・・・・・」

会社の対応は冷たかった。プロ契約を求めた9人のうち、大林と吉原知子だけが呼び出され、いきなり即日解雇を言い渡されたのだ。

「私と吉原選手が他の選手を先導し、会社に反発した。そう判断した会社側の対応でした。他の選手への見せしめの意味もあったのでしょう。いきなりのことで、しばらく状況が理解できませんでした。一方的に解雇を伝える書面を渡され、午後3時以降は体育館への立ち入りを禁止するとまで言われたんです。寮に住んでいた吉原選手は、その日のうちに荷物をまとめて出ていくように命じられて。

『シーズン終了後にプロ契約を考えると言ったじゃないですか』と訴えても、『そんなこと言いましたかね』と、とぼけられる始末。中学時代からバレーボール一色の生活を送ってきた私は、高校卒業後も何から何まで会社任せでした。当時の私たちには、大事な約束は書面に残しておかなければならないという考えさえ持ち合わせていませんでした。社会の恐ろしさを、まざまざと見せつけられましたね」

日立を解雇され、失意の底にあった大林は、それでもバレーを諦めなかった。’95年1月、海外でのプレーに活路を見出すのだ。世界最高峰のリーグ、イタリアのセリエAのチーム、アンコーナと契約し、日本初のプロバレーボール選手となる。

「解雇にうろたえて、あのまま引退していたら、バレーボールに対する未練や後悔がつきまとう人生だったかもしれません。怖い物知らずで飛び込んだ海外のプロ生活では、言語や文化の違いなど驚くこと、苦しいこともたくさんありましたが、バレーという競技の素晴らしさを再認識していました。5ヵ月間という短い期間でしたが、人間として豊かな経験をさせてもらえたと思っています」

同年5月に帰国した大林は、翌年に開催されるアトランタ五輪を目指し、東洋紡オーキスとプロ契約を結ぶのだ。そして、ついに3度目のオリンピックの舞台に立った。

「アトランタ五輪が終わって、Vリーグで1シーズンを戦い、私は『やり切った』と思っていました。日本代表でも11年の長きにわたりプレーさせていただいた。選手生活に別れを告げることに迷いはありませんでした」

‘97年3月、現役を引退した大林は、胸の奥に秘め続けた夢を改めて見つめることになる。

「バレー選手ではない、もう一人の“大林素子”になるのだと誓っていました。女優を志したんです。バレー選手以上に険しい道になるだろうと想像していましたが、その決意は揺るぎませんでした」

春の高校バレーやワールドカップ、オリンピックなどのリポーター、スポーツキャスターとして瞬く間に脚光を浴びた大林は、女優という仕事、生き方に向かって、ひたすら走り続けるのである。

逆風が吹き荒れたが、彼女は決して膝を折らなかった。

(文中敬称略)

現在は日本バレーボール協会広報委員、神戸親和女子大学発達教育学部の客員教授なども務める
現在は日本バレーボール協会広報委員、神戸親和女子大学発達教育学部の客員教授なども務める
インタビュアーの小松成美氏と
インタビュアーの小松成美氏と
  • 取材・文小松成美

    ノンフィクション作家、インタビュアー、小説家。取材対象者は中田英寿、イチロー、五郎丸歩、有森裕子などのトップアスリートからYOSHIKI、歌舞伎役者など多岐にわたる。著書に『横綱 白鵬』(学研教育出版)、『それってキセキ~GReeeeNの物語~』(KADOKAWA)など。最新刊は平成の歌姫・浜崎あゆみをモデルにした『M 愛すべき人がいて』(幻冬舎)。

  • 撮影福岡耕造協力アーシャルデザイン

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