山﨑賢人&松岡茉優『劇場』は本当にサブカル男子共感映画か | FRIDAYデジタル

山﨑賢人&松岡茉優『劇場』は本当にサブカル男子共感映画か

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誠実にアシストを決める俳優・山﨑賢人&「大人の女性を救えたらいいな」と語った松岡茉優。2人のコンビネーションで描き出された「自立の物語」を考察

※本編ラストのネタバレあり

 

映画『劇場』より 主演の山﨑賢人(左)と松岡茉優 ©2020「劇場」製作委員会
映画『劇場』より 主演の山﨑賢人(左)と松岡茉優 ©2020「劇場」製作委員会

行定勲監督作品『劇場』の公開によって、主演俳優である山﨑賢人の評価が急上昇していることに異論を挟むつもりはない。実際に素晴らしい演技だったし、もっともっと高く評価されるべき俳優だ。

でも「この作品で山﨑賢人は化けた」「スイーツ漫画原作映画を卒業して本格俳優へ」と言わんばかりの言い草をあちこちで見かけると、正直言って複雑な心情を抱いてしまうのも事実だ。そう語る人たちの何人が、山﨑賢人の過去の出演映画を本当に「ちゃんと」見たのだろうかという意味で。

人のことは言えない。僕だって、広瀬すず目当てで見た『四月は君の嘘』(’16年)と二階堂ふみ目当てで見た『オオカミ少女と黒王子』(’16年)で山﨑賢人の演技がまったく違うことに初めて気がついたのだ。

少年誌に連載された『四月は君の嘘』ではナイーブで華奢な少年の役を、少女漫画原作の『オオカミ少女』ではスクールカーストの頂点に君臨するサディスティックな王子の役を、山﨑賢人は歩き方や発声、舌を巻く発音まで変えて演じ分けている。あまりに鮮烈な対比なのでこの2作を挙げたが、『L・DK』(’14年)、『orange』(’15年)、『ヒロイン失格』(’15年)など、数多い出演作のたびに山﨑賢人は繊細に演技を変えている。

にもかかわらず、ネットにおいてある時期まで山﨑賢人の評価は低かった。というより、ある種の邦画ジャンルムービーを小馬鹿にする時の決まり文句のように「また山﨑賢人かよ」というミームは使いまわされてきた。それは単に山﨑賢人に対する批判というより、山﨑賢人が多く出演してきた少女漫画映画というジャンルに対する冷笑的な視線を含んでいたと思う。

少女漫画原作の実写化映画『orange』(’15年)上映会に出席した山﨑賢人。この年は同じく少女漫画原作の『ヒロイン失格』も公開された
少女漫画原作の実写化映画『orange』(’15年)上映会に出席した山﨑賢人。この年は同じく少女漫画原作の『ヒロイン失格』も公開された

SNSであれ雑誌であれ、批評を大きな声で支配しているのは今も昔も「男の子文化」である。少女漫画を原作として低予算で作られる映画を一作一作きちんと2時間見て、それらに主演する俳優が一作ごとに演技をどう変えているかに気がつく男性観客は少ない。僕だってたまたま発見しただけだ。少女漫画原作映画を「スイーツ映画」とくくり揶揄するネットの文化風土の中で、山﨑賢人はその代名詞のように白眼視され、批評から排除されてきた。

『劇場』公開後の、今までの冷遇から手のひらを返したような山﨑賢人に対する男の子たちの絶賛は、あえて言えば、映画文化のメインストリームであるサブカル男子たちの心の琴線に触れるような役、永田というダメ男子の役を山﨑賢人が演じたからである。女性が喜ぶような男性像はフェイクだが、芥川賞作家又吉直樹原作による、サブカル男子のダメな青春の記憶は「リアルな人間像を演じた」と評価されるわけだ。

でもそうではない。山﨑賢人はこれまでの漫画原作作品でもいつだってリアルに、繊細に人間を演じてきた。『オオカミ少女と黒王子』の佐田恭也にも、『ヒロイン失格』の寺坂利太にも、二次元の絵を三次元の彫刻に立体化するように、生身の人間としてのリアリティと陰影を与える演技を丁寧に加えてきた。

「誰かの役に立つ」ため演技しているような役者・山﨑賢人

山﨑賢人の演技を見ていて感じるのは、俗にカメレオン俳優と呼ばれるような「ほら俺はなんでもできますよ」と言わんばかりの器用さではなく、むしろ一作一作ごとに演技を変えているのに、まるで「この俳優は本当にこういう人間で、こういう役しか演じられないのではないか」と観客に思わせてしまうような不器用さ、誠実さである。

俳優・山﨑賢人の名をこの作品で轟かせてやるぞ、という自意識より、まるで 劇中の人物だけがそこに存在して、山﨑賢人という人間などこの世のどこにも存在しないかのような、エゴを消去した演じ方を彼はする。『羊と鋼の森』(’18年)で彼が演じたピアノ調律師、目立たないが音楽の質を決定する裏方のように。

自分の個性で勝負する、スター型と呼ばれる俳優がいる。行定勲監督の作品『GO』(’01年)で名をなした窪塚洋介はまさにその典型にあたるだろう。窪塚洋介が劇中で演じる狂気と聖性が半ばするような人物像は、そのまま現実の本人とリンクする。強烈なエゴを持つスターによる「自己表現」としての演技はカリスマ的にファンを惹きつける 。

同じ行定勲監督による『劇場』で主演をつとめる山﨑賢人は、端正な顔立ちや映像としてのたたずまいは窪塚洋介と似ている部分もある。だが、俳優としてのあり方はむしろ正反対であるように見える。窪塚洋介が演技を自己表現として捉え、強烈な自我の輝きを映画に刻んで観客を惹きつけるタイプの俳優だとしたら、山﨑賢人は自分ではない誰かの希望のために、自我を消し自分とはまったく違う人間に身をやつす「利他的」な演技をするタイプの俳優に見える。

映画『劇場』より ©2020「劇場」製作委員会
映画『劇場』より ©2020「劇場」製作委員会

これは僕の山﨑賢人に対する印象なのだが、山﨑賢人にとって俳優という仕事は「ファンとスター」という崇拝関係ではなく、「客と店員」のような関係なのではないか。役者という言葉は無論「役を演じる者」という意味だが、山﨑賢人はまるで「誰かの役に立つ」ために演技をしている役者に見える。

少女漫画原作の映画化を観にくる女の子たちは、イケメン俳優なら誰でも納得してくれるような甘い観客ではない。『オオカミ少女と黒王子』や『L・DK』のような俺様系であれ、観客が期待するのはあくまで漫画の中のキャラクターのイメージであって、現実の俳優の自己表現ではないのだ。観客が持つ漫画のイメージの厳しい基準に答え、彼女たちの「役に立つ者」であるために、山﨑賢人はそうした自我を消す、アンチエゴ的な演技スタイルを獲得していったのではないかと思う。

それは少女漫画原作映画に限らない。映画『キングダム』(’19年)で日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を演じた吉沢亮は、その受賞スピーチで山﨑賢人の名を挙げた。

「優秀助演男優賞にノミネートされた時、誰よりも先に山﨑賢人から連絡がきた。来年は一緒にここに来ようぜと話した。彼が主演として作品を引っ張り、僕も彼と一緒に演じたことによってこのような賞をもらえた部分もあると思う」

友人関係とはいえ、主演男優賞にノミネートされておらず、会場にすらいない俳優の名前で記念すべきスピーチの大半が埋まる内容は異例と言ってよかった。

だが、『キングダム』を見れば、吉沢亮のスピーチが友人へのリップサービスでないことは分かる。王と奴隷、秦国王・嬴政(えいせい)と主人公の幼なじみ(ひょう)を演じ分けた吉沢亮の演技は確かに素晴らしかった。だがその演じ分けの鮮やかな対比が引き立つように、主演の山﨑賢人は映画の中で吉沢亮の一人二役をアシストする演技をしている。

主人公・(しん)を演じる山﨑賢人は、映画の中でほとんど無表情のシーンを作らず、汚した顔を大きく歪めて奴隷から這い上がる少年を演じる。対照的に秦国王を演じる吉沢亮は感情を表に出さない。端正な美しい顔で超然としていることが王たるものの証だからだ。その超然とした知性、クールさは、激しく感情をむき出す山﨑賢人の演技によって大きく引き立つ。

長澤まさみが演じる山の民の女王・楊端和(ようたんわ)と秦国王・嬴政が相見え、歴史の恨みと断絶を乗り越えるシーンでも、山﨑賢人は叫び、動揺し、時には組み伏せられる演技で、互いに超然としたリーダーを演じる長澤まさみと吉沢亮の対決をかき乱し、展開し、歴史的な和解に導く狂言回しを演じている。

山﨑賢人は他の作品でもそうした、サッカーで言えば全体を見てパスを出す演技をよく見せる。人気スターであり、強引にドリブルで切り込んでも周囲がフォローに回ってくれるのが主演俳優というものだが、彼はまるで他のプレイヤーの位置と特性を見てから自分のポジションとスタイルを決め、チームメイトのプレーしやすいようにゲームを回していくような所がある。

日本アカデミー賞最優秀助演男優賞でのあの吉沢亮の異例とも言えるスピーチは、サッカーで言えば自分のシュートに繋がるパスを出し続けた山﨑賢人のアシストポイントについて語っているのだ。

『オオカミ少女と黒王子』(’16年)でも共演した山﨑賢人と吉沢亮。2人は『キングダム』(’19年)時点で4度目の共演となり、プライベートでも親交が深いという
『オオカミ少女と黒王子』(’16年)でも共演した山﨑賢人と吉沢亮。2人は『キングダム』(’19年)時点で4度目の共演となり、プライベートでも親交が深いという

前置きが長くなったが、(ここからはネタバレを含めて)映画『劇場』の話に戻ろうと思う。ラストシーンの仕掛けにも関わるので、僕が映画公開終盤まで書くまいと思っていた疑問が一つある。それは「この映画は本当に永田を主人公にした、下北沢サブカルダメ男子の青春ホロ苦(にが)共感映画なのだろうか?」ということである。

松岡茉優「別れない人たちが別れればいいかなって思って……」

原作小説に関しては、確かにそうだ。最初から最後まで主人公・永田の一人称視点で語られる又吉直樹の小説版は、芥川賞受賞作『火花』もそうであるように、芸術に身を焼く男の子たちの破滅的で特権的な青春を肯定した小説である。

小説版の永田は物語を語るモノローグにおいて雄弁で饒舌であり、映画版と違い、周囲の人間たちと常に関西弁で会話する。ヒロインである沙希は(小説版のネタバレになるが)映画と同じように一度は別れを切り出すが、主人公永田が仮面を被って「ばああ」とおどける、「開演前のブザーのように」何度も繰り返すその仕草に「沙希は観念したように、ようやく泣きながら笑った」という永田のモノローグ、復縁を感じさせる一文で物語は終わる。

映画版もある所までは同じだ。ラスト近くでも、確かに松岡茉優が演じる沙希が、仮面をかぶって「ばああ」とおどける永田に笑顔を浮かべるシーンはある。しかしそれは小説版と同じ意味を持つラストシーンなのだろうか。沙希は永田と生きていくのだろうか。

そうではない、と繰り返し言っているのは、映画版でヒロイン沙希を演じた松岡茉優である。『劇場』のプロモーションでは、行定勲監督や主演の山﨑賢人に比して、松岡茉優のインタビューは多くはない。だがその少ない場において、松岡茉優はかなり鮮明に「永田と沙希は別れた、あるいは別れるべきだ」という解釈を示している。

『劇場』パンフレットには松岡茉優の〈私がこの役を引き受けた理由には、この役を演じることで大人の女性を救えたらいいなという思いがありました〉という言葉が収録され、彼女のラジオ番組『マチネのまえに』では、ゲストで招かれた行定勲監督を前に「別れない人たちが別れればいいかなって思って……語弊があるかな。別れろよって言ったって別れない人達が良い意味でも悪い意味でも一歩進めたらと思ったんですけど」と語っている。

映画『劇場』より ©2020「劇場」製作委員会
映画『劇場』より ©2020「劇場」製作委員会

行定勲監督自身が「8月13日で劇場公開は終了します」とTwitterで語り、何度かインタビューでラストシーンにも言及しているので、僕もここで最後の場面について書くことを許してほしい。

あの『劇場』のラストシーン、映画として見てきた物語がカメラを引くと舞台で演じられる演劇であり、客席にそれを見ている沙希がいる、という映画オリジナルのラストシーンは、原作小説版では最後まで永田の一人称で語られていた2人の物語が、映画版では最後の最後に「沙希の視点」に移り変わるというラストなのだと思う。

観客として舞台の上の永田を見る沙希は、「ごめんね」という言葉を口にする。それは物語の中盤で沙希が「私が悪かったから一緒にいて」という意味で口にした「ごめんね」ではない。永田への決別を意味する「ごめんね」である。彼女は永田に「さよなら」と言っているのだ。

太宰治を敬愛する又吉直樹による、破滅的な芸術青年とそれを支える女性の献身的な愛を描いた小説版のテーマは、松岡茉優の存在によって「相互依存関係から自立する沙希の物語」にラストを書き換えられている。松岡茉優はおそらく、そのテーマを条件に行定勲監督からの出演オファーを受諾したのではないかと思う。

山﨑賢人の演技は、彼が過去の作品においてもそうしてきたように、松岡茉優の挑戦をサポートし、アシストしている。ブラジルのサッカー用語『ジンガ』とは「よろよろ歩く」という意味の、ドリブルのフェイントを表現する言葉なのだが、映画の中で山﨑賢人が演じる永田のよろよろ歩きは「まるで昔の俺みたいだ」とサブカル男子たちの共感を集めながら、彼らをペナルティエリアまで誘い込む。

そして映画の決定的なラストシーンにおいて、山﨑賢人は運んできたボールを松岡茉優にパスする。まるで夢からさめたように、原作小説と繋がる作品世界を解釈してきた永田の一人称は消え、観客の立場からそれらを舞台の上の虚構として見つめる現実の沙希がいる。

映画『劇場』より ©2020「劇場」製作委員会
映画『劇場』より ©2020「劇場」製作委員会

日本文学は太宰治、あるいは森鴎外の時代から、女性をミューズファムファタルという形で自我の影として消費してきた。反対に山﨑賢人は少女漫画原作映画の中で、女性観客のための男性ミューズやオムファタル(※男性版ファムファタルにあたる意) を演じてきた俳優だ。太宰治に大きく影響を受けた又吉直樹の原作は、松岡茉優と山﨑賢人のコンビネーションによって、「永田というオムファタルから自立する沙希の物語」に書き換えられている。ミューズ、オムファタルとしての永田に別れを告げ、相互依存から自分の人生を生き始める沙希の言葉として「ごめんね」がある。

原作小説には、映画の中で松岡茉優のプライベートの親友、伊藤沙莉が演じた青山という女性を永田がメール越しに罵倒する場面があり、それは明らかにフェミニズムに対する批判を含意している。お前の思想は浅い、人間には依存する権利もある、と永田が大演説のように熱弁をふるうシーンは映画版ではカットされ、代わりに松岡茉優と山﨑賢人は、原作で又吉直樹が「ここでいう母とは、ほとんど沙希のことかもしれない」と書く、その二人の疑似母子関係の成長と別れを演技で描いていく。

表現者である男性演出家の永田が特権的に世界を語る又吉直樹の小説版に対して、映画版ではそのラストシーンで、沙希が永田を支える一心同体のパートナーではなく「客席の観客」という第三者の距離を持つことで永田に対する批評性を獲得する。山﨑賢人の演じる永田は、世界を記述し定義する特権的一人称から、観客である沙希に見られ批評される、舞台の上の対象に変化する。それは太宰治、日本文学の伝統に連なる又吉直樹の原作に対して、現代の映画が投げ返す批評のようだ。

山﨑賢人はフェイクからリアルに俳優として路線変更したのではなく、過去に出演した少女漫画原作映画において女性観客をエンパワメントするために様々な男性像を演じてきたのと同じように、『劇場』の永田もまた沙希の自立の物語をアシストするために演じられた仮面の役として演じているのだと思う。山﨑賢人はこの『劇場』においても、共演者と観客の影となりアシストをする役者、「役に立つ者」として舞台に立っているのだ。

映画『劇場』より ©2020「劇場」製作委員会
映画『劇場』より ©2020「劇場」製作委員会

劇場でのみ配られたメッセージカードには、山﨑賢人、行定勲、松岡茉優の短い言葉が添えられている。松岡茉優のメッセージはこう書かれている。

〈「別れなよ」とか「あいつはやめた方がいいって」とかは当事者には聞こえないし、聞かない。だからこういう映画があったらいいな、と思ったのが最初です。でも沙希ちゃんを演じて、分かったのは彼女は幸せだったし、永くんが必要だった。周りがどう思おうと本人の幸せは本人しか知りえないのだと感じました。全国の沙希ちゃんに幸あれ!!!〉

松岡茉優はいつもこうした目立たない小さな場所に、決定的なシュートを決めるような短いメッセージを書き残す。そこには峻厳でクールな批評があり、同時に寛容で暖かい肯定がある。意志としてのフェミニズムがあり、同時にフェミニズムがまだ言語化できない無意識の女性性がある。沙希は別れるべきだ、という未来へのオピニオンがあり、同時に沙希の過去、過ちを含めた人生を肯定する愛情がある。

行定勲監督がTwitterで語るように、『劇場』の映画館公開は8月13日で終了する。この映画が持っている息を飲むような切実さ、一度きりの掛け替えのなさを体験するなら、間に合うならどこかのミニシアターで見ることをお勧めする。

でも、映画館での公開が終わった後のAmazonプライム観賞にも利点はある。あなたは山﨑賢人が演じてきた多くの少女漫画原作映画を、定額料金で何作でも見ることができる。『また山﨑賢人かよ』と揶揄されていた時代から、彼がどんなに一作一作を誠実に演じてきたか、そして共演者に見事なパスを出してきたかを見ることができる。松岡茉優においても同じだ。

多くの作品で2人が俳優として歩いてきた別の道の足跡を辿り、そしてこの『劇場』をもう一度配信で見るとき、あなたは山﨑賢人と松岡茉優という2人の役者、観客の役に立つ者の仕事に気がつくだろう。

 

『劇場』
7月17日(金)全国公開/配信
出演:山﨑賢人、松岡茉優
寛 一 郎、伊藤沙莉、上川周作、大友 律 / 井口 理(King Gnu)、三浦誠己、浅香航大
配給:吉本興業
©2020「劇場」製作委員会

  • CDB(ライター)

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