引退・内田篤人がサッカーの戦友たちにも慕われ続けた理由
内田の未公開カットを掲載
日本サッカー界を代表するサイドバックがシーズン途中で異例の引退をとげた。『内田篤人 悲痛と希望の3144日』の著者で、ドイツ、ブラジル、日本と内田を15年近く取材を続けてきた了戒美子氏が寄稿した。
内田篤人が現役を引退した。32歳、まだまだできるのではないかという声も大きかった。だが、内田は自身のプレーに誰よりも納得できず、シーズン半ばではあるが引退という決断を下した。クラブはそれを受け入れた。23日のG大阪戦後にはスタジアムでのセレモニーを行い、新型コロナ禍の影響を受けながらも、現状でできる最大限の華やかさで送り出しをした。
内田自身が一番気にしていたのは、シーズン半ばでの引退を発表することによるチームへの影響だった。今年のJリーグはコロナ禍の影響を受け日程が変則的になっており、8月はなんと9試合も行われる。週2回以上の日程で試合が続くだけできついのに、今年のこの暑さだ。厳しい日程を乗り切るため、実際に試合を戦う選手たちは入念なリカバリと次に向けた準備、心身ともにリフレッシュすることや食事が重要だ。
よく「食べられない選手は大成しない」ともいうがこの夏場はそうした、サッカー以外の細かな日常レベルまで気を配っていかないと乗り越えられない、ハードな日々が続くのだ。
ちなみに、内田は現役中「俺より食べる選手ってふたり(元日本代表GK川島永嗣と同代表FW森本貴幸)しか見たことがない」という大食漢だった。ぱっと見は華奢だったがあったが「食べられる選手」だったことが、鹿島だけでなくドイツブンデスリーガや欧州CLで結果を残せた一因に違いない。
食事のことはさておき、圧倒的な実績を誇るレジェント的な選手の突発的な引退となれば若手は衝撃を受けることになる。それを避けたい、そのためにできるだけ地味にあっさりと引退したいと内田は願ったのだが、クラブだってそうさせるわけにはいかない。長く共に戦った内田の引退なら、衝撃も動揺もみなで共に心に刻み乗り越えたいと思うものだ。
チームメイトへの気遣いを口にする内田の話を聞きながら、そういえば内田は誰にでも分け隔てなく、気遣いする男だったことを思い出した。筆者は、ドイツ・デュッセルドルフ在住でシャルケ時代、ウニオンベルリン時代と数多く内田を取材してきた。取材はスタジアムや練習場のミックスゾーンで簡単に済ませることもあれば、食事をかねてレストランや定食屋で話を聞くこともあった。
ある時のランチどきだったか、デュッセルドルフの日本食屋に入った。デュッセルドルフというのは欧州屈指の日本人街で、昼時の日本食屋は日本人サラリーマンや学生でいっぱいになる。店内だけ見れば、日本とまるで変わらない、そんなところだ。
内田はそんな日本人街では当然ながら有名人で、店員も内田が来店すれば嬉しいし、自然と丁重に扱う。入店した時間帯はさほど混んでいなかったためか、こちらは2人だったにも関わらず4人がけの席に案内された。食事が来て、食べ始めたころに店内は混み始めた。入口を見れば、入店を待つ客の列もでき始めている。すると内田がこう言った。
「席、移ろうか」
カウンターもしくは2人がけの席に映れば、少しでも多くのお客さんが入れることになる。筆者はもちろん同意し、席を移動した。
「こういうときに、何もできない人になりたくないんだよね」
と移ったあとに内田は言い、その後何事もなかったかのように食事を続けた。
内田の引退にあたって多くの選手や関係者がそれぞれの内田エピソードをSNSで発信していた。そのうちの一つに、日本代表でともに戦ったC大阪の柿谷曜一朗のコメントがある。「すごい舞台でやっていても決してそういう素振りを見せない。誰とでも目線を一緒にして話せる人」という話をしている。日本食屋で見せた気づかいが決して一過性やその場しのぎのものではないということが、柿谷のコメントからもよくわかる。
鹿島の仲間たちが調子を崩さないようにと気を使ったことも、日本食屋での気きづかいの延長線上にある。内田にとっては特別考えたことではなく、自然で当たり前のことなのだ。プレーだけでなく、人柄でも愛された内田。ロッカールームやクラブハウスのいたるところで仲間たちは内田ロスになっていることだろう。
- 取材・文:了戒美子
- 撮影:大坪尚人
スポーツライター
1975年、埼玉県生まれ。日本女子大学文学部史学科卒。01年よりサッカーの取材を開始し、03年ワールドユース(現・U-20W杯)UAE大会取材をきっかけにライターに転身。サッカーW杯4大会、夏季オリンピック3大会を現地取材。11年3月11日からドイツ・デュッセルドルフ在住