全国で銃撃事件が発生する「山口組分裂抗争」の行方 | FRIDAYデジタル

全国で銃撃事件が発生する「山口組分裂抗争」の行方 

暴力団取材の第一人者 溝口敦氏が特別寄稿 いったいどうなるのか?

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絶対的ナンバーツーと言われる髙山若頭(中央)。七代目に就くというウワサも絶えない。写真は昨年11月、墓参りに上京した際に撮影
絶対的ナンバーツーと言われる髙山若頭(中央)。七代目に就くというウワサも絶えない。写真は昨年11月、墓参りに上京した際に撮影

今から36年前に山口組から一和会が分裂、双方で死者29人、負傷者66人を数える山一抗争が勃発したが、山一抗争は4年8ヵ月で一応決着を見た。

今なお続いている山口組の分裂抗争は約5年前に発生したが、いまだに決着はつかず、そのメドさえついていない。

2015年8月にまず山健組・井上邦雄組長ら13人の直系組長が六代目山口組を割って出て神戸山口組を結成した。その後’17年4月に織田絆誠(よしのり)若頭代行らが神戸山口組の井上邦雄組長を非難して飛び出し、任侠団体山口組(現・絆會)を結成した。

これで山口組の分裂は三つ巴の争いになったが、今年7月、さらに神戸山口組の主力である中田浩司組長(勾留中)率いる五代目山健組がやはり井上組長を批判して神戸山口組から離脱した。

分裂された側の六代目山口組(司忍組長、髙山清司若頭)が終始、優位にあることはたしかだが、こうまで分裂した各派をどうまとめて終熄(しゅうそく)させるか、まだまだ見通せない。平和的に話し合いでまとめるか、それとも暴力的に圧伏して蹴散らすか、あるいは二つの手法を取り混ぜるか、明確な方針は立っていないといえる。

髙山清司若頭は去年10月、6年の懲役を終えて東京・府中刑務所から出所し、若頭に復帰した。若頭は組長に次ぐ組内ナンバーツーであり、組運営の実務に当たる。髙山若頭もその通りで、服役前から辣腕(らつわん)で聞こえていた。早い話、分裂の原因をつくったのも、分裂の終熄役を期待されるのも髙山若頭なのだ。

神戸山口組では分裂した理由を、

〈司組長がやっていることは自分さえよければ、直系組長たちがどうなろうと知ったことかという利己主義である。彼が「温故知新」と言って、かつての組長の墓参をしても、田岡(山口組三代目組長)、竹中(同四代目組長)という親分たちを大事にすることにはならない。ほんとに大事にしたいのなら、先輩たちに学び、自分の生活を質素にすることだ。組の上に乗って贅沢三昧するのは大間違いだ。〉(他団体に送った「御挨拶」の概略)

と、いうもの。だが、分裂の根っこにあったのは司ー髙山路線(二人とも直系組の一つである弘道会=名古屋=出身)が強行した組員からの激しい集金と収奪、弘道会系組織への依怙贔屓(えこひいき)だった。髙山若頭は恐怖政治といわれるほど強圧的に山口組を運営した。

たとえば、直系組長たち(100人前後)が髙山若頭に物を言うとき、直立不動でなければならなかった。髙山若頭は一時期、平日は神戸の山口組本部に詰めていたが、直系組長たちは髙山若頭から叱責されることを恐れ、特別に用がなくても平日は毎日、本部に詰めた。ほどなくこのことは六代目山口組で慣習化し、直系組長たちは、神戸のホテルが暴力団の宿泊を拒否したため、やむを得ず自分用の宿舎を手当てするハメになった。

公安調査庁の元調査第二部長・菅沼光弘氏は当時、髙山若頭と面談したが、髙山若頭は「山口組の執行部の奴らにカマシを入れてやった。そしたら後は私に物言うんでも直立不動ですわ」と愉快そうに笑ったという。

髙山若頭は弘道会からいきなり山口組の若頭補佐、直後に若頭と、異例のスピード出世をしたため、若頭補佐など執行部を摑まえていきなりカマシを入れるなど、マウンティングを実行した。

神戸山口組の井上邦雄組長らも髙山若頭の威圧に脅え、髙山若頭が最高裁の上告を取り下げ、収監された後、ようやく神戸山口組旗揚げの準備を始めている。

つまり髙山若頭は敵対する者に対して根っからの暴力派である。神戸山口組などの組織を突き崩し、その幹部を平和的に拾う(吸収する)ことはあっても、頭立(かしらだ)つ者は殺すか、ヤクザを引退、組を解散させるか、二つに一つしかない。

六代目山口組・司忍組長(78)。15年以上、トップに君臨。後継者にも注目が集まっている。’19年1月1日には総本部近くの護国神社に参拝した
六代目山口組・司忍組長(78)。15年以上、トップに君臨。後継者にも注目が集まっている。’19年1月1日には総本部近くの護国神社に参拝した

「攻め」の一色しかない

この8月、絆會の池田幸治若頭が会を引退、率いる眞鍋組を解散したが、9月になって弘道会系組織を訪ね、改めて「これまでは申し訳ありませんでした。カタギになります」と頭を下げた。これも真意は自分の命を保証してくれと頼む「命乞い」だったとされる。

換言すれば、髙山若頭にはなぜ分裂が相次いだか、自らを省みる視点がない。司組長や髙山若頭をはじめ、組の上層部だけが経済的にうるおい、末端組員は組の月会費さえ払えずに飛ぶ(消息不明になる)現状に、なんら改善や同情する気持ちを持たない。

分裂抗争に当たっては「攻め」一色である。出所後、すぐに着手した人事では、戦意喪失が疑われる元統括委員長・橋本弘文極心連合会会長を引退させた。また六代目山口組の戦力の中心である弘道会若頭をそれまでの中野寿城(としき)から野内正博に替えた。

山健組の中田浩司組長は、傘下の健竜会組員から中野寿城を紹介され、二人は兄弟分になった。中田組長はこの縁を生かし、一時は六代目山口組への復帰を考えたとされる。中野若頭としても平和裡(へいわり)に山健組を復縁・回収できたら上出来と考えたはずだが、髙山若頭はこれをぬるいと感じたのだろう。

前記のように若頭を野内正博に替えた。野内は交渉ごとも喧嘩も得意な弘道会のエースであり、当人は一時期、野内組として直参(山口組の直系組長)になりたいのだと噂されたが、もちろん弘道会若頭の座に不満はない。野内は若いころ髙山若頭に引き取られ、育てられた経歴を持つとか。髙山若頭には絶対的な忠誠を尽くすとされる。

髙山若頭はこうして陣組みを固め、神戸山口組攻撃に打って出た。

去年10月、髙山若頭が出所する8日前、弘道会系の組員・丸山俊夫がカメラマンを装い、神戸市花隈町の山健組事務所横で山健組系の部屋住み組員二人を射殺した。

同じく11月、六代目山口組系竹中組の元組員・朝比奈久徳が尼崎市で神戸山口組の古川恵一幹部を自動小銃でハチの巣状にして殺した。

今年5月、六代目山口組系大同会幹部・岸本晃生が岡山市で神戸山口組系池田組・前谷祐一郎若頭の腹を銃撃、重傷を負わせた。池田組では4年前の’16年5月、やはり当時の高木忠若頭が弘道会系組員に銃撃され、殺されている。

同じく今年8月、山口県岩国市で六代目山口組系竹中組系組員・上田高裕が神戸山口組系木村會の前原順一幹部の左腕と右太ももを銃撃、動脈を損傷する重傷を負わせた。

この間、神戸山口組は相手陣営に実害を与えるほどの反撃をせず、ほとんど打たれっぱなしだった。まるで戦意を失い、戦力自体を消失したような体(てい)たらくである。

環境が変わっている

こうした事実をもって、すでに分裂抗争は決着した、六代目山口組が勝ったという見方が生まれている。はたしてそうか。山一抗争と比較してみよう。

一和会の山本広会長は’89年3月19日に神戸東灘署に引退、解散届を出し、3月30日に山口組本家を訪ね、竹中正久四代目、中山勝正若頭などの射殺を詫(わ)び、田岡、竹中の位牌に焼香した。

今、神戸山口組の井上邦雄組長は引退、解散を臭わせてもいない。聞こえてくるのは、自分一人になっても神戸山口組は解散しない、自分もヤクザの足は洗わないという決意だけである。考えてみれば、すでに井上組長は出身の山健組の半分を失っている。神戸山口組を解散すれば、すべてを失い、死ねと言われるに等しい。そういう人間は殺されるまでギブアップしまい。

山本広会長のときには稲川会、会津小鉄会という山一抗争の仲介・調停者がいた。彼らが終結後の山本広会長の生命保持に保証をつけた。だが、今回の分裂抗争では仲介・調停者がいない。井上組長にすれば、終結に同意したはいいが、殺されましたという愚は犯したくない。井上組長が「参りました。後は細々社会の片隅で暮らします」と頭を下げないのは、当然なのだ。

だから、髙山若頭が神戸山口組に猛爆を加えても、相手の降伏は引き出せない。山一抗争の時とは取り巻く環境が違いすぎるのだ。また相手に攻撃を加えても組員数が増えるなどの果実を手にできずにいる。

’84年、一和会が四代目山口組に叛旗を翻し、一和会を結成した時点での勢力比は山口組5000人(直系組長47人)、一和会6000人(直系組長34人)だった。このわずか半年後、山口組は構成員1万400人(直系組長85人)と急回復し、ほぼ分裂前の組員数に戻した。

今回の分裂では’15年の分裂直前、六代目山口組は構成員1万300人を数えた。このうち神戸山口組の分裂で組員2000人を割かれた。だが、直近(’19年末)の数字を見ると、六代目山口組8900人、神戸山口組3000人、絆會610人である。

六代目山口組は分裂から5年たった今なお分裂前の組員数を回復できず、分裂した2団体はそのまま存続している。

このことは何を意味しているのか。山口組に限らず暴力団全体が構造不況業種で、組員数を減らすしかない。暴対法や暴力団排除条例に縛られ、末端組員は食えないばかりか、最低の市民生活を営むことさえ難しい。

であるなら、業界トップの山口組若頭が考えねばならない課題はまず暴力団組員の生き残りを図ることだろう。分裂抗争に黒白をつけることではない。この点、脱反社を掲げ、生き残り策を模索する絆會の方がまだ先を読んでいるといえよう。

神戸山口組・井上邦雄組長(72)。「神戸」立ち上げ時の幹部が次々と引退、離脱し、井上組長は窮地に追い詰められている(’19年12月13日撮影)
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絆會・織田絆誠会長(54)。元神戸山口組若頭代行・山健組副組長で、山健組の3分の1の勢力を引き連れて離脱。第3勢力を作り上げた
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五代目山健組・中田浩司組長(61)。山健組のトップでありながら、襲撃事件の実行犯として逮捕される。さらに勾留中に神戸山口組から離脱した
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’19年10月に山健組の事務所付近で銃撃事件が発生。発砲した弘道会傘下の丸山俊夫幹部(68)は、警戒中の警官に取り押さえられた
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『FRIDAY』2020年11月13日号より

  • 取材・文溝口敦

    みぞぐち・あつし ノンフィクション作家、ジャーナリスト。’42年東京都生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。ヤクザ取材のエキスパートとして知られる。著書に『食肉の帝王』『山口組三国志 織田絆誠という男』など多数

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