『35歳の少女』低調のワケは「柴咲コウの完璧すぎる演技」か | FRIDAYデジタル

『35歳の少女』低調のワケは「柴咲コウの完璧すぎる演技」か

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何が幸せで何が不幸なのか、何が罪なのか、観れば観るほど、わからない…

『〇〇妻』(日本テレビ系)以来、5年ぶりのタッグとなる遊川和彦脚本×柴咲コウ主演のドラマ『35歳の少女』(日本テレビ系)。 

これは、10歳の少女がある日事故に遭い、25年眠り続けた後に35歳で目を覚ますという物語だ 

遊川脚本といえば、常に賛否が分かれるところであり、『女王の教室』や『家政婦のミタ』(ともに日本テレビ系)のような刺激は強いが、エンタメ性も高い大ヒットドラマから、NHK連続テレビ小説『純と愛』、『〇〇妻』に連なるうつ展開の時代を経て、近年は『ハケン占い師アタル』『過保護のカホコ』『同期のサクラ』など、優しい物語へと変遷している。 

そうした流れを受け、今回の第一話は絶望的なスタートだったものの、徐々に優しい物語に変わっていくのではないかと思っていた。 

しかし、ここまで7話が放送された段階では、優しい物語なのか、苦しい物語なのか、何が幸せで何が不幸なのか、何が罪なのか、観れば観るほど、わからない。どんどんわからなくなってくる。 

そして、この「わからなさ」の正体は、脚本だけでなく、主人公・望美を演じる柴咲コウの演技にあると思う。何故なのか。

(写真:アフロ)

SNSなどで大いに話題になったのは、25年間眠り続けていた後、変わり果てた自分の姿と周囲の人々・環境・世界とに、子どものように“ギャン泣き”したシーン。これには「本当に10歳みたい」という声が多かったが、個人的には「10歳よりもだいぶ幼い子みたいだな」と、やや違和感を抱いた。

私事で恐縮だが、ボランティアで小学生を対象にした教室を8年ほどやってきた。その中で、入れ代わり立ち代わり10歳前後の子どもたちを見てきたが、特に女の子の場合、大人とほとんど対等である部分と、幼児のような部分を併せ持つ子が大多数という印象があるからだ。

しかし、この疑問は、柴咲コウのインタビュー(『サンケイスポーツ』11月22日配信)によって解消される。

記事では、柴咲自身が自宅に保管していた「10歳の頃の肉声が録音されたカセットテープ」が役作りで参考になったこと。そのうえで「10歳は見た目と内面のギャップがすでに芽生えている。意外と大人だし、達観している。望美は甘えん坊なので闇の部分を削ぎ落し、想像以上に幼くなりました」と語っていたのだ。

そう考えると、リアル10歳の望美と、「生き直し」の35歳の望美とで、中身は同じはずなのに全く違った印象を受ける理由も見えてくる。

25年間眠ったままだった望美は、身体は母親の献身的介護やマッサージなどにより、変化していた。しかし、中身はいわば「冷凍保存」されていたような状態である。しかし、回想シーンで見せるリアル10歳の望美(鎌田英怜奈)は、それにしてはあまりに明るく元気で、ちょっと白々しい。

それはもちろん、ピカピカすぎる新居や眩しすぎる青空など、映像的な演出による部分も当然あるだろう。

しかし、冷凍保存が溶けた瞬間から、望美は「変わり果てた世界」の中で、刻々と変化している。

当然ながら、未来に何の疑問も抱くことのなかった「ひまわりのように明るい」望美のままではなく、一気に流れ込んでくる溢れんばかりの情報量に混乱し、噴出する疑問にパニック状態になっている。

それらは徐々に積み上げてきたものではないだけに、目覚めた直後に一気にキャパオーバーとなった望美が、赤ちゃんのような「ギャン泣き」をしたのも、自然だろう。 

そして、望美のアンバランスさを強調するのは、むしろ柴咲コウの「成長した大人の体なのに、子どもに見える」身体的演技のほうにある気がする。

身長160センチで決して小柄とは言えない柴咲は、SNSなど一部では当初「25年間寝ていたわりに体がしっかりしすぎている」と指摘されていた。 

しかし、望美の姿を見ていると、座り姿や立ち姿、歩き方などは、大人の体であることを忘れさせるほど、自然に「子ども」に見える瞬間が多々ある。

子どもの体は不思議なもので、160センチ以上の長身で、ランドセルを背負わせておくのが可哀想に思えるような大人っぽい子でも、立ち方や歩き方、ふとした仕草に「子どもらしさ」が見えることが多い。

それを特に感じるのは、柴咲の両脚がちょっと開いた無防備な立ち姿。また、ぼんやりと何かを考えていたり、何かを見ていたりするときのポカンと開いた口、脇が少し開いた両腕の垂らし方だ。

特に女性であれば、子どもの頃、座るときなどに脚を閉じるように親から注意された経験のある人も少なくないだろう。また、がに股気味に立っていることを指摘されたり、集中しているときに開いてしまう口をイジられたりしたことがある人は多いのではないか。

思うに脚も脇も口も、「閉じる」ことは成長とともに努力で意識的に時間をかけて習慣化していくものであって、未発達であるうちは自然と開いているんじゃないだろうか(ちなみに、瞼も同様で、乳幼児の頃には薄目をあけて寝る子が多いのに、大人になると薄目で寝る人があまりいなくなるのは、主に目の周りの筋肉(眼輪筋)が発達するためという説がある)。

だからこそ、一気に流入してくる情報にパニックになり、初恋の人である結人(坂口健太郎)に勉強を教えてもらいながら、どんどん知識が増え、賢くなっていっても、望美の無防備な立ち方や座り方、開いてしまう口は変わっていない。

それでいて、「冷凍保存」が溶けた瞬間から、空白の25年間を埋めるべく、時間は「普通の人」たちよりも恐ろしく加速度的に進んでいく。

まだまだ未発達で子どものままである部分をたくさん残しながら、次第に「加齢」の部分も見せ始めた柴咲コウの「幼さ」と「老い」とが混在した演技のグラデーションは、残酷なまでに「時」を感じさせるのだ。

(写真:アフロ)

実は放送開始前~序盤では、『同期のサクラ』のように、純真無垢なままの望美に、苛立ちや戸惑いを感じつつも、家族や結人などが一人ひとり救われていく物語だろうと思っていた。

しかし、望美の「純粋さ」や、突き付けてくる本質的な「疑問」や「正論」は、ときに人をどうしようもなく傷つける。生きていくうえで、こと人間関係に関しては、理想や正論より大切なこともあるということを、私たちは経験から時間をかけて学んでいく。しかし、望美にはそうした「時間」がない。焦りは恐怖に変わっていく。第7話まできて、いまだに誰も救われてはいないのが、現実だ。

それどころか、第7話では家族に「みんなが無駄にした25年間、あたしにちょうだい!」と言い、結人に対しては「私はみんなに幸せになってほしかっただけなのに、そんなの必要ないって言うなら、これからは一人で生きていく! もう誰の幸せも祈らない! みんなを笑顔にしようとも思わない。自分のためだけに生きていく!」と言い残して、一人去っていく。

この先がどうなるのかは正直、読めない。望美自身が、さらに正論を突き付けられた家族や結人たちが、どうすべきだったのか、あるいは現実的にどうすることができたのかも、わからない。 

「少女」の心を持ちながら、刻々と時の影響を受けて脳も身体も変化していく柴咲コウの演技が、他者を、世界を「簡単にわかった気になること」を拒絶しているように見える。

『35歳の少女』は、よくわからない。しかし、わからないからこそ、しっかり向き合って、しっかり考えたくなる作品なのだ。

  • 田幸和歌子

    1973年生まれ。出版社、広告制作会社勤務を経てフリーランスのライターに。週刊誌・月刊誌等で俳優などのインタビューを手掛けるほか、ドラマコラムを様々な媒体で執筆中。主な著書に、『大切なことはみんな朝ドラが教えてくれた』(太田出版)、『KinKiKids おわりなき道』『Hey!Say!JUMP 9つのトビラが開くとき』(ともにアールズ出版)など。

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