心肺停止からも復活…!ゴージャス松野が振り返る「壮絶人生」 | FRIDAYデジタル

心肺停止からも復活…!ゴージャス松野が振り返る「壮絶人生」

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「今は朝起きるとありがたいと思う」

歌手の西川貴教が「ベストボディ・ジャパン2020日本大会」(昨年12月12日開催)に出場、モデルジャパン部門ゴールドクラスで優勝したことが報じられ、話題になった。と同時に、SNSで話題になったのは、「ゴージャス松野がいる!」「ゴージャス松野、久しぶりに見た。今もプロレスやってたのか」といったもの。

自分がとある雑誌でゴージャス松野さんに取材したのは、2002年。「ゴージャス松野」というリングネームでレスラーデビューを果たしたばかりの頃だったが、まさか20年近く経つ今もプロレスを続けることになるとは、申し訳ないが、当時は想像もしていなかった。なぜこんなにもプロレスにハマったのか。ゴージャス松野さんに取材を申し込むと、現在一人暮らしをしている福島から電話取材に応じてくれた。

「プロレスにハマったというか……。当時は本当に職なし、一文無し、社会的信用なしのマイナスからのスタートで、死活問題でしたので、いただける仕事は何でも受けていたんです。その中の一つが歌で、ホストで、プロレスでした」(ゴージャス松野 以下同)

女優・沢田亜矢子の元夫で社長兼マネージャーだった彼が、ワイドショーで連日取り沙汰される「時の人」となったのは、1997年末。泥沼の離婚騒動を経て、2000年に離婚が成立。第一審の判決で「妻・こどもへの暴力」「会社の資金横領」などは事実無根とされたが、お金も仕事も全てを失った彼は、整形手術をし、CDを出したり、ホストクラブ「愛」で2年ほど「広告塔」的な仕事をしたり、AV男優、司法試験にも挑戦。泥水をすすりつつも、生き抜くために様々なことにチャレンジしてきた。

そんな中、タイガー・ジェット・シンのセコンド兼マネージャーとしてプロレス界に入ったのが2001年。翌年にレスラーデビューを果たす。

「プロレスはもともと好きだったんですよ。小中学生の頃はテレビでゴールデンタイムにプロレスをやっていた時代でしたし、アニメの『タイガーマスク』をリアルタイムで観ていた世代でしたから、プロレスラーになりたいと半分くらいの子どもは思っていたんじゃないでしょうか。 

ただ、当時のプロレスは、身長体重などの入門の規定が非常に厳しかったので、夢叶わず、後に規定が変わったことで41歳にしてデビューしたわけですが。次々に仕事を変えていると思われるかもしれないですが、自分としては、やれるものはずっと並行してやりたいという思いがもともとあって、今、結果的に残ったのが歌とプロレスなんですよ」

女優・沢田亜矢子の元夫で社長兼マネージャーだった彼が、ワイドショーで連日取り沙汰される「時の人」となったのは、1997年末

とはいえ、プロレスの世界に入って1年目は、マスコミや世間から「売名」とも言われた。控室にいても、そうした周囲の冷たい目を肌で感じることは多かったという。そこで「レスラーになってやろうじゃないか」と一念発起し、体を作り、IWA・JAPANで2002年に「ゴージャス松野」としてデビュー。

しかし、デビュー戦1カ月前に骨折し、松葉杖をつきながらのデビューとなったことや、離婚騒動の心労も重なり、2003年3月にはうつ病で入院。そこから地元・福島に帰り、プロレスも一時休業した後、2004年にDDTプロレスリングでレスラーとして復帰した。とはいえ、苦難はここで終わらない。

「プロレスに復帰した後も、精神科の薬は飲み続けていて、その薬とアルコールがたたって、2008年には心肺停止の状態にまでなったんです。急性肝不全でした。 

そこからまたプロレスを休んでいるうち、東日本大震災があり、福島で被災したんです。そこで、マンションのライフラインがダメになり、田代純子のところに一時期居候しました」

田代純子さんとは、CDデビューの頃からの歌の活動の「相棒」であり、車で20分程度の場所で行き来する「事実婚」の仲でもある。そこで、「お金はないけど、体はなんともなかったから」と、二人で音響機材を持って、被災地を慰問活動にまわる日々となった。

「実は、震災の日を境に、大好きだったお酒を断ちまして。もう10年近く経ちますが、今もまだ1滴も飲んでいないんですよ。 

心肺停止になって、ドクターストップがかかったときですら、少し調子がよくなるとまた飲んでしまう依存状態でしたが、震災で飲める状況じゃなかったこと、お酒を飲んでわけがわからなくなっているときに地震があったら、命を落とすだろうと。 

それに、非常に不謹慎な言い方になるかもしれませんが、何も悪いことをせずに真面目に生きていても、突然津波がきて流され、目の前で家族が亡くなっていくような人たち、泣く泣く住み慣れた場所を離れる人たちを目の前にして、自分のこれまで人生をいかに甘く考えていたかを痛感したんです。自分は震災きっかけで、目が覚めたというか」

そうした折、3月下旬にDDTの後楽園ホール大会が開催されることとなる。当時はまだ震災直後で電力もままならない状況下での興行で、新幹線も走っていない中、DDTがハイブリッド車で送迎をしてくれるかたちでの「サプライズ参加」となった。

「『365歩のマーチ』を選手たちが歌っているところに、私がサプライズで現れるという演出でした。心肺停止で倒れて以降、運動はしていないし、食生活も不規則で、2010年暮れ頃には栄養失調によって救急車で運ばれたこともあったくらい、足もガリガリで、階段も上れない衰弱状態で。 

だから、自分としては2年半休んでいたから、不安だし、ただ『元気です』と言いに行ったつもりだったのに、選手もお客さんも温かくウェルカムなムードで迎えてくれて、皆さんから逆に元気をいただいてしまいました」

そこから「恩返しができるとしたら、それはリングで復帰すること」と思い、気持ちが急いていたため、5月に復帰戦に挑む。とはいえ、当時は震災でジムも開いていない状態で、自宅でのトレーニングからのスタートだった。

「受け身とるのも怖いし、リングで練習していないからロープも怖くて。自分の部屋で腕立やスクワットをしたり、持久力がなくなっているので、部屋で足踏みを10分、15分と増やしていき、次は小走りで20分、30分、1時間できるようになってからは、今度は外を走って30分、1時間……と増やしてみたり、少しずつ体をならしました。 

しかも、震災以降、お酒を飲んでいないし、健康のありがたさを痛感したので、体力だけじゃなく健康面も改善しようと思い、食生活も変え、朝型の生活に変え、運動を続けて、そうこうするうちに血液検査も正常範囲に戻り、抗うつ薬も全く飲まなくて良くなったんですよ。お医者さんがビックリしてますわ。今、59歳ですけど、肉体年齢は40代です。 

ちなみに、もう10年くらいお酒を一滴も飲んでいないので、いまは飲む席に出る機会があっても、全然飲みたくならないんですよ。最近は、コロナの感染予防の消毒用アルコールでフラッとするくらいで(笑)」 

また、うつの治療中に医師に勧められたことから、禅宗のお寺の座禅会に一時期通っていたが、それも震災きっかけに縁が復活。2012年には「在家得度」で戒名をもらい、「僧侶」の資格も得た。

では、今はどんな生活をしているのか。

「普通は朝6時頃に起きて神棚と仏壇のお水をかえてご飯をあげて、仏壇にむかっておつとめを30分やって、朝食をとります。それで、一段落したらジムに行ったり、田代純子の歌の教室の手伝いをしたり。

プロレスは、コロナ禍になる前は、多いときで月7回程度、平均月4~5回試合をしていました。また、私自身の会社も21~22年になりますが、主催としては、年に2本くらいの歌関係の大きなイベントと、DDTのプロレスの福島大会が1年に1度あります。 

一人暮らしなので、買い物も料理も基本的に自分でしますよ。食事は、体のことを考えて、だいたい毎日サラダから始まり、塩麹につけたり、蒸したりした鶏の胸肉と、青魚やシャケを食べて、最後は玄米でしめる感じですね」

SNSなどで話題になった「ベストボディ・ジャパン2020日本大会」では東北大会グランプリで、日本大会トップテン入りとなったが、昨年は東北大会準グランプリで日本大会4位だったという。なぜ体づくりをすることに?

「体はお酒を断ってレスラーに復帰した2011年から意識して作っているほうでしたが、『ベストボディ・ジャパン』が一昨年にプロレス部門を立ち上げたので、そこに参戦するかたちでした。 

ただ、自分の場合は筋肉より健康に重きを置いてきたので、たまたま健康のためにやってきた方法が良かったということですね。大会前に減量する方も多いですが、僕の場合、逆にこれ以上減量すると死んじゃうし(笑)、無理して筋肉を大きくすると、関節を痛めるかもしれないし、何もしていないんです。ありのままです」

プロレスを始めたばかりの頃は「売名」と言われ、冷たい目が気になったと語っていたゴージャス松野さん。しかし、病気などで中断した時期はあったものの、すでに20年近い道を歩んできたことになる。

「ありがたいことに、昔はお客さんも好奇な目で見ていましたが、今は応援してくださっています。この世界で20年、まして41歳から始めたことは、それだけで価値があると思っていただけるようで。オーバーフォーティーという40歳以上対象のベルトも昨年いただいたんですよ。 

もちろん20代30代の選手には体力もテクニックも負けますが、真摯に取り組んできたことは体を見ていただければわかるはずですし、タイトルマッチなどのときに死に物狂いでリングに向かっている姿をぜひ見ていただければと。 

それに、20年近くやっていると、周りがみんな年下なので、若い選手が父親みたいに相談してくれることもあります」 

思えば離婚騒動の無一文状態から様々なチャレンジをし、うつ病を経験したり、心肺停止にもなったりと、何度も何度もどん底から這い上がってきた人生だ。だからこそ、コロナ禍の今の状況についても、「健康で過ごしているだけでありがたい」と語るその言葉には、重みがある。

「コロナ禍で仕事がなくなって、最初は非常に焦りもありました。でも、僕らの仕事は焦ってももがいてもどうしようもないし、会社をやっていたことで、持続化給付金をもらえたことでどうにかもちこたえてきました。 

もちろんお金の上では決してゆとりはないけど、時間にはゆとりができたので、気持ちを切り替えて困ったときは国の援助でも何でも借りて生き延びるしかないとプラス思考に考えています。 

ゆとりの時間ができた今、上に芽が出ないなら、根っこを下に伸ばすとき。普段できないトレーニングをやったり、心のたくわえをしたりする時間に使えたと思っています。 

人間、命さえあれば何でもできると思いますし、みんなそれぞれの立場で立ち向かっているわけですから。寒い冬でも蕾を膨らます準備しているわけだし、春になれば桜も咲く。一生こんな状態が続くわけじゃないから。 

昔は朝起きると1日が嫌だった。辛いことがいっぱいありすぎて。それで朝から睡眠薬を飲んでお酒を飲んでという生活をしていたときもあるけど、今は朝起きるとありがたいと思う。生きていることに、ただ感謝です」

4月18日はゴージャス松野さんの還暦の誕生日で地元・福島で「還暦の記念大会」を予定している。

「歌もデビューして今年で20年になります。また、レスラーは生涯現役が目標。60代になるとレジェンドクラスにあがるので、日本大会ではもちろんグランプリを狙いますよ」

  • 取材・文田幸和歌子

    1973年生まれ。出版社、広告制作会社勤務を経てフリーランスのライターに。週刊誌・月刊誌等で俳優などのインタビューを手掛けるほか、ドラマコラムを様々な媒体で執筆中。主な著書に、『大切なことはみんな朝ドラが教えてくれた』(太田出版)、『KinKiKids おわりなき道』『Hey!Say!JUMP 9つのトビラが開くとき』(ともにアールズ出版)など。

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