長瀬智也『俺の家の話』を視聴率云々で語ってはいけない、その理由 | FRIDAYデジタル

長瀬智也『俺の家の話』を視聴率云々で語ってはいけない、その理由

特殊な世界なのに“我が事”にしか見られない全方位的上手さ

宮藤官九郎(クドカン)脚本×長瀬智也の“最後のタッグ”とも言われる『俺の家の話』(1月22日スタート/TBS系)。世帯視聴率はやや苦戦と報じられているが、内容の充実度・完成度は、出色の出来栄えではないかと思う。 

まず唸らされるのは、タイトルの持つ深い意味と奥ゆかしさだ。 

長瀬が演じるのは、42歳のプロレスラー・観山寿一で、彼の父・観山寿三郎(西田敏行)は、重要無形文化財である「能楽」保持者の人間国宝だ。伝統芸能の世界も、プロレスも、いずれも「遠い世界」の話である。 

しかし、そんな特殊な世界を舞台としているにもかかわらず、描かれる家族の問題は実に普遍的で、その描写はことごとくリアルで、確実に“自分の問題”として刺さりまくる内容となっている。 

にもかかわらず、あえてクドカンは『俺の家の話』として、視聴者との距離を置いてみせる。いかにも押しつけがましいスタンスを嫌う、シャイで粋なクドカンらしい、心憎いタイトルではないか。では、どんな点が「自分の問題」「自分のドラマ」なのか。ざっくりと振り返ってみよう。

寿一は能楽の宗家の長男で跡継ぎとして期待されていたが、父に反発して17歳で家出し、父の危篤の知らせを受けて突然帰ってくる。すると、寿三郎は奇跡的に一命をとりとめ、おまけに介護ヘルパーの志田さくら(戸田恵梨香)と婚約し、遺産などすべてを譲ると宣言。

寿一は跡を継ぐべく、プロレスラーを引退し、能の稽古の傍ら、父の介護も手伝うことになるが、収入はゼロ。おまけにヘルパーには「後妻業の女」疑惑が噴出し……。あらすじだけ見ると、実に特殊な世界の特殊な話に見える。

しかし、物語の大きな柱となっているのは、親子間で描かれる普遍的な思いだ。 

寿一は幼い頃から能の稽古をしてきて、「神童」と呼ばれたこともあったが、そんな寿一を、父は一度も褒めたことがなかった。ただ父に褒められたい一心で稽古に励んでも、願いは叶わず、次第に家族の会話も消滅し、熱心に稽古を続ける寿限無(桐谷健太)のほうが芸の腕も上げていく。

だが、自分が跡継ぎという事実は変わらず、「何故俺が……」という思いを募らせるなか、母が亡くなり、父への反発から家を出て飛び込んだのが、プロレスの世界だった。ここは「誰も自分を特別扱いしない」「努力が認められる」「会長を頂点とした、まさに家族」の世界である。

しかし、そもそも寿一がプロレスの世界を選んだことも、プロレスが父との唯一の「共有していた時間」だったためだった。テレビでプロレスを観るときだけ寿三郎は膝に寿一をのせ、「プロレスっていいなぁ。血は流れても、なんか節度があって、品があって」などと語るのだ。実は「大好きなプロレスの世界でチャンピオンになったら褒めてくれるかも」と思ったことが、寿一のプロレス入りの動機だった。

能も、プロレスも、人間国宝も、跡継ぎ問題も、まるきり「特殊な世界」だが、そこにあったのは、シンプルに、「ただ親に褒められたい」という思いである。寿一の場合、その思いは自身が親となった今も続いており、自身の息子が父に能の稽古で褒められたときに、嬉しい思いとともに嫉妬を感じるくらい根深い。しかし、一般社会でも、40~50代くらいになっても、深酒する度に、きょうだいへの嫉妬や親との因縁を語る人はたくさんいるだけに、これはまさしく「私たちの」話なのだ。

第二には、 “きょうだい””家族“のリアリティがある。

父の危篤で25年ぶりに実家に帰ってきた寿一は、父の糖尿も心臓手術をしたことも知らなかったくせに、父の病状を大いに悲しみ、久しぶりの実家を懐かしんでみせる。

そのマイペースぶりに、末っ子の踊介(永山絢斗)は「寅さんか! フーテンの!」と苛立ちを見せるし、妹・舞(江口のりこ)は「財産分与」の話を始める。寿一には、そんな二人が冷たく見えるが、2人は「そんなのは(父が最初に倒れた)2年前に終わってんだよ!」(踊介)、「次のフェーズに入ってるんだよ!」(舞)という。

親との“日常”が切れ目なく続いている者と、たまに帰省するだけの者とでは、いくらそこに深い愛情があったとしても、やはり隔たりがどうしてもある。まして25年の空白がある寿一に対して、「綺麗事じゃねえんだよ」「週2回のデイケアだって、ラクしやがてって思うかもしれないけど」と踊介が、「(介護するときの父の体は)重たいの、ホント。親だと思うと、倍、重たいの」と舞が言うのも、当然のことだ。

涙を流している者が一番悲しんでいるとは限らないし、優しい言葉をかける人が、一番思いやりがあるとも限らないのも、人間関係、特に血縁関係においてはよくあることだ。

その一方で、妹弟は、寿一を憎んでいるわけではないし、いったん死を覚悟したのに、復活した父親には奇跡を期待し、老いを受け入れきれない気持ちも持っている。父親の認知機能テストで、野菜の名前がすぐに出てこないとき、なんとか助け舟を出そうと必死でヒントを出す長女・舞と、一瞬泣きそうな顔をする末っ子・踊介のリアクションには可笑しさと悲しさのリアルがあるが、落ち込んでいる父に寿一は言う。「別にいいだろ、あんた、八百屋じゃねえんだから」。

今も地に足ついていないフーテンの寅さん・寿一に救われるのは、きっとこんなときだ。そして、25年間も途切れていた時間がすぐにつながるのもまた、家族だからだ。

(撮影:結束武郎)
(撮影:結束武郎)

第三に、介護、学習障害、貧困問題など、数々の社会問題描き方の秀逸さがある。

まず「介護」だが、「入浴と、OMT(おむつ)担当」に任命された寿一は「なんで俺なんだよ……」とうなだれる。しかし、長瀬のような大柄で屈強な男性ですら、体の不自由な父親を入浴させるのは本当に大変そうで、介護は力ではなくコツだとよくわかるし、介護職の女性たちが次々に「腰を痛めた」というのも、納得である。しかも、親の下半身を洗うのは、体力的な意味だけでなく、重い。「息子だから、できねえんだよ」と言う寿一の言葉も、「介護に感情を持ち込むな」というさくらの言葉も、どちらも重い。

しかも、外出する度に「トイレ、大丈夫か」と、本人にうるさがられるほど聞いていたのに、たまたま留守にしたときに倒れてしまうつらさ。しかし、それが介護なのだ。

また、介護支援専門員・末広(荒川良々)の説明を聞きながら、寿一が「大丈夫です! 全部俺がやるから!」と断ろうとしたり、「耳はいいのに、大声で話しかけられたり」「頭はしっかりしているのに、子どもと同じように扱われたりする」ことから、本人が福祉サービスを受けることを拒んだり、娘のプレゼントしてくれたシルバーカーを嫌がったりするのも、なんだか身につまされる。

また、寿一の息子に学習障害と多動傾向があり、漢字を何回書き取りしても覚えられず、途中から違うカタチになってしまうリアル、それでいて好きな能の稽古では座っていられるリアルも描かれる。

また、さくらがお金にシビアになったのは、大変な生い立ちからくること、しかし、それはあくまで「労働の対価」としての正しい要求であり、寿三郎の婚約者のフリをし続けてあげるという「感情の労働」への対価も発生することなどを含め、「介護とお金」についての気づきを与える視点となっている。これは『逃げ恥』にも通じる部分だろう。

どの問題も、おそらく綿密な取材によって描かれていて、非常にリアルだ。様々な社会問題を盛り込んでいるだけに、一面を切り取るかたちになることなどから介護職に従事する人などからは「現実と乖離している」などという批判もあるものの、こうしたテーマをあくまでエンタメ作品の中で描くという意義は大きい。

しかし、何より秀逸なのは、社会問題がたくさん詰め込まれているのに、ベースに「笑い」があること。社会派ドラマは重要なメッセージを発信し、気づきを与える一方で、どうしても窮屈さ、息苦しさを伴うことが多いのに対し、クドカンドラマはメッセージ性よりも、「物語性」が主軸になっていて、文字通り笑いあり、涙ありの物語にグイグイ引き込まれる。

そして、そうした重いテーマを全身で丸ごと受け止め、窮屈さを吹き飛ばしてくれるのが、長瀬智也の存在だ。脚本家には、役者本人のイメージや特徴を役に反映させる「あて書き」をする人がときどきいるが、クドカンはその筆頭であり、その「最高傑作」が、長瀬智也だと思う。

脚本も演者もテーマ性も構成も、物語の吸引力も、全ての要素において、フィギュアスケートで言うなら「GOE(出来栄え点)」最高点を叩き出すような『俺の家の話』。視聴率云々で語るのは、あまりにももったいない作品なのだ。

  • 田幸和歌子
  • イラストまつもとりえこ

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