「ピークは中2だった」サッカー界の怪物と騒がれた平山相太の葛藤

来年、仙台大学生として最後の年を迎える平山相太氏が明かす「当時の自分」と「子供たちへのメッセージ」

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仙台大の学生の身分ながらサッカー部員を指導する平山相太氏(撮影:児玉幸洋)

21世紀に入って最初に高校サッカー界で「怪物」と騒がれたのが平山相太だった。名門・国見高で全国高校サッカーで史上初の2年連続得点王、3年間で奪った17得点はいまだに破られていない。

その平山が2018年、J1仙台で静かに現役を引退後、仙台大で学生をしながら、同大サッカー部で指導を続けている。この春、大学4年生になるにあたり、かつての自分をどう見たのか。未来を担う子供たちに何を伝えたいのか。平山氏に語ってもらった。

「怪物では…なかった」

「みんな高校のころだと思っていると思うんですけど、自分の中でピークは中学2年生の時なんです」

意外な告白から始まった。平山相太。2000年代初頭の日本サッカー界に彗星のごとく現れた怪物。サッカーファンの誰もが明るい未来を予想した。

しかし怪物ストライカーはその後、期待値が高すぎた故の挫折を味わうことになる。

プロで残した成績はオランダでプレーした2シーズンで8得点、Jリーグは通算33得点。並の選手であれば輝かしい実績にも見えるが、こと平山相太というフィルターを通すと、物足りなく見えてしまう。

「怪物では……なかったですね。少なくとも自分では思っていませんでした。自分の評価と周りの評価のギャップはかなりあったかな、と思っています」

平山相太は何と戦っていたのか。

「若いうちから怪物だ、スーパースターだというのは違うと思います」

基本的には質問をのらりくらりとかわす平山だが、この言葉には力がこもった。

日本では古くから「神童」という言葉を用いて若年代を神格化し、スターへと押し上げたがる風潮がある。そしてスポーツ界では高校野球や高校サッカーが全国にテレビ中継され、高校生スターを毎年のように作り上げていく。

もちろん、スターたちのその後は様々だ。高校野球で言えば松井秀喜や松坂大輔のようにプロの世界でもスター街道を歩んだ選手もいる中で、斎藤佑樹や清宮幸太郎など、怪我の影響もあるが、現状は期待通りの成績を残せているとは言い難い。

活躍できる理由として圧倒的な能力値の高さであればいいが、例えば一つに単純なフィジカル差の場合がある。子供のころは特に成長スピードによる差を生みやすく、平山もそれを感じていたという。

平山自身は小学6年生の時に身長170cm超、中学2年ではすでに183cmあった。

「常に2、3人がマンマークについていたけど、ドリブルやいろんな形で相手を外せたりして、思い通りにプレーしていました」。

ピークが中学2年生だと答えた理由はここにある。

ただ“伸び悩み”と言われてしまうことには違和感がある。

「そうなんですよね、プロのレベルでやっているわけではなく、所詮は高校のレベルでやれていただけ。高校と大学。大学とプロ。さらにプロの中でもJ1、J2、J3はそれぞれを比べると差が大きいですから」。

また平山は「プレー面以外のところで余計なスポットライトが当たることがある」と危惧する。

知名度が上がると、必然的にサッカー以外の行動も注目されていく。平山自身はメディアを見る機会を少なくしていたというが、それでも見聞きすることはあったと振り返る。

「余計なことで報道されたりだとか、そういうところは必要ないのかなと思います」。当事者の言葉は重い。

「駅伝や甲子園もそうですけど、一生懸命にやっている姿を見るのがみんな好きなだけなんだと思う。本人たちもただ一生懸命にやっているだけ。でもそこでちょっと活躍したからといって若いうちから怪物だ、スーパースターだと注目するのは、少し違うのかなと思います」

国見高3年時の平山。見た目もプレーもスケールが大きかったが、平山は自分が掲げた理想と現実のギャップに人知れず悩んでいた(写真:アフロ)
2007年3月、U22代表のマレーシア戦を前に本田圭佑(左)とボールを奪い合う平山。この頃は本田より存在感があった(写真:共同通信)

FC東京のチームメート長友佑都、武藤嘉紀にあったもの

ただ一方でそのプレッシャーに打ち勝ってこそ、真の一流選手になることができるとも言える。平山自身にも「僕はブレない目標を持つことが出来ていなかった」という反省がある。

平山は高校時代から常に一世代上のカテゴリの日本代表に選ばれ続けていた。20歳世代の世界大会であるワールドユース(現U-20ワールドカップ)には、2大会連続で出場した。

当然、世界レベルで戦う平山に、高校サッカー界は狭すぎた。高校選手権2年連続得点王、3年間で決めた通算17得点は今だ破られない不滅の大記録だ。

しかし2003年のU-20日本代表で一緒だったGK川島永嗣や、2005年大会を戦ったMF本田圭佑がその後、世界に羽ばたくことになる中、平山の代表での存在感はだんだんと薄れていく。

平山がFC東京に在籍した2008年には、明治大学の学生代だった長友佑都が卒業を待たずに入団してきた。平山と同じ、大学を途中で切り上げてプロ選手になるという選択だった。しかしその後、長友は日本代表でワールドカップに出場、海外移籍、ビッグクラブへの移籍を実現させた。7歳年下の武藤嘉紀もしかり。奇しくも2人は筑波大学を中退してプロ選手になった平山にとっての理想とする姿を歩んだ。

彼らにあって平山になかったものは何だろうか。

「彼らはどんな状況でも日本代表や海外でプレーしたいとか、ブレない目標を持っていたんだと思います。あと僕も自分を客観的に評価しているつもりでしたけど、もっと主観的に自分のことを信じられれば良かった。周りが思ってくれている評価を自分でも思えれば、また違った現役生活になったのかな」

人生のターニングポイントは誰しもに必ず訪れる。ただ平山にとっては後悔の方が多かったのかもしれない。「あえて言えば高校に入ってからはもう(思い描いていたビジョンとのズレが)始まっていたかもしれませんね」。平山は、慎重に言葉を選びながら続けた。

「ターニングポイントがあそこだというのはないですが、中学校を卒業するころまでは、ワールドカップに出たいとか、日本代表で試合に出たいとかをものすごく思っていて、実際その夢に向かって突き進んでいたと思うんです。でも日本代表になかなか選ばれなかったり、徐々に自分が思っていたビジョンと違う所に外れていった。だんだん目標が薄くなってしまっていたんだと思います」

平山には、鍛えても伸ばすことができない規格外のサイズがあったがゆえ、平山本人の意志とは別のところで将来の飛躍に期待を集めた。その期待に応えるには、「早くから常に日本代表に選ばれるような選手にならないといけない」という物凄い高い理想まで追い求めなければいけなかった。

ただ一方で、その理想が簡単ではないことは、実は平山自身が一番わかっていた。平山の現役生活は、その現実と作られた理想のギャップをどう埋めていくか、という戦いでもあったのではないか。そのギャップを埋めるために必要な「理屈を超えた自信」をどう築くのか、平山自身も最後までもがいたのだろう。

仙台大の学生を指導する平山相太氏(右、撮影:児玉幸洋)

引退を決めた2018年、一度仙台と契約を更新しながら、シーズンがはじまる直前に引退を表明した。

「自分の場合、足の怪我の状態がひどく、もうサッカーができる状態ではありませんでした」

同世代の本田や長友といった選手がいまだに海外でプレーを続ける中、平山は潔くスパイクを脱いだ。

現在、平山は仙台大学に在学しながら、サッカー部でコーチングを学んでいる。またサッカー以外の生活に触れる機会が増えたことで、新鮮な経験もできた。

ある日、教授の頼みで学生の立場であるにも関わらず、教壇に立つことを頼まれた。何を伝えようか――。考えた平山は、自身の経験から「将来のビジョンを持って、それを逆算した行動、日々の過ごし方の大切さ」を講義することにした。「『意識が変わりました』って声をかけてもらったんですよ」。学生とのやり取りを嬉しそうに明かす。

本人は否定したが、平山相太は間違いなく怪物だった。

最後に聞いた。―もしも、今の平山さんが当時の“怪物・平山相太”を指導するとなった場合、どんな言葉をかけますか?―。

「とにかく世界一の選手になる選手なんだ、と言い続けてあげますね。僕の場合、言われてもいないし、自分でも思えていなかったので。監督にも自分の人生があって、結果を出さないといけないということで、いつまでも一人の選手に構っていられない。しかし、自分が考える監督の本当の仕事は選手一人ひとりをいかに成長させてあげられるかだと思ってます」

平山の現役生活は孤独との戦いでもあったのかもしれない。ただそれを身をもって体感したからこそ、指導者を目指す今では何よりの財産になっている。

「今はB級ライセンスしか持っていませんが、S級ライセンス(※)は取りに行きたい。忙しいですが、毎日が楽しいです」。

平山自身もまた、新たな将来のビジョンを描きながら、逆算した行動をし、指導者の道を究めることで、自らを育ててくれたサッカー界への恩返しを模索していく。

※S級ライセンス:日本サッカー協会(JFA)が公認する指導者の免許制度で最高位の資格。Jリーグで監督を務めるためには必要な免許となっている。

平山相太

1985年6月6日生まれ、福岡県北九州市出身。国見高校時代に全国高校サッカー選手権で大活躍し、2年連続で得点王を獲得するなど、3年間で17得点を決めて、北嶋秀朗(市立船橋)を抜く通算最多得点記録を作った。卒業後は筑波大学に進学。2年生だった2005年夏で休学し、オランダ・ヘラクレスと契約。06年夏に帰国して、FC東京でプレーした。17年に仙台に移籍。契約更新を発表した翌18年1月に突如、現役引退を発表したことは世間を驚かせた。引退後は仙台大学に入学。学生生活を送る傍ら、サッカー部に指導者として関わり、セカンドチームの監督、トップチームのアシスタントコーチ、社会人チームの監督を経て、最終学年の今季はトップチームのヘッドコーチとして手腕を振るう。

  • 取材・文・写真児玉幸洋

    1983年生まれ。三重県志摩市出身。スポーツ新聞社勤務を経て、2011年より講談社のサッカーサイト『ゲキサカ』の編集者として活動中

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