【独占】くまモン&熊本県知事震災5年目の最強バディのいま
【インタビュー】「創造的復興」に進む熊本の「現在地」
知事室のドアが、そーっと開いて、くまモンが顔をのぞかせた。4月15日、熊本県庁で、県知事の蒲島(かばしま)郁夫さんと県営業部長兼しあわせ部長くまモンの「2ショットインタビュー」が始まった。
震災から5年。ふたりは、熊本で起きたさまざまな課題に「ともに」向き合ってきた最強のバディだ。

くまモンはその場にうずくまった
2016年4月14日午後9時26分、熊本県熊本地方を震源とする地震が起こり、益城町で震度7を記録した。益城町は阿蘇くまもと空港を擁する地域で、熊本市の東隣に位置する。
くまモンは、その日も元気に活動を終えていた。「地震のときはどうしてた?」という質問に「あの日」を思い出したのか、くまモンは怯えたようにその場にうずくまった。
蒲島郁夫・熊本県知事は、地震発生時は公邸にいて、直ちに徒歩で県庁へ行った。発災26分後の21:52には、県庁の新館10階にある災害対策本部で指揮をとったという。
「災害はとにかく初動が大事。今回の地震でいえば、まずは人命救助、避難所の運営、仮設住宅の確保。初動対応を誤ると、その後の展開に大きく響きます」(蒲島知事・以下同)
こんなときのために自衛隊や警察、消防とは常に「顔の見える関係」を築いてきた。これによって1700名の人命が救われた。
「けれども、これで終わりませんでした。およそ28時間後の16日午前1時25分にもう一度、震度7の地震が起きたんです。同じ場所で、この短時間に2度の震度7というのは、観測史上初めてです。熊本城の石垣が崩れ、天守閣が壊れ、阿蘇大橋が崩落しました」
さらに熊本地震の特徴は、余震がひっきりなしにあったこと。避難所には、最大18万3882人が避難した。余震が怖くて建物に入れない人たちも多かった。
関連死を含め死者273人、重軽傷者2736人、住宅全壊8642軒、半壊3万4393軒という大規模震災だった。
復興は「元に戻す」だけではなく
「すぐに、復旧・復興に向けた3つの大原則を発表しました。ひとつは被災された方々の痛みを最小化すること、2つめは、創造的復興を目指すこと。単に元の姿に戻すのではなく、新しい価値をプラスする。3つめは復旧・復興を熊本のさらなる発展につなげること」
まずは大原則を示した。そして旧知の仲であり、東日本大震災では政府の復興構想会議議長も務めた五百旗頭真(いおきべまこと)氏と連絡をとり、いち早く有識者会議を開いて復興のビジョンを描いた。
そこで策定された復旧・復興プランは「住まいの創造」「仕事の創造」「熊本の宝の創造」「世界とつながる創造」の4つの「創造」からなっている。
「住む場所がないと人は不安になります。避難所から仮設住宅へ、そして住まいを再建する方達への支援制度を整えました。今現在、仮設住宅に入居されているのは150世帯です」
「精神の自由」を武器に、新たな決断
震災からの復興が進む熊本を昨年7月、豪雨が襲った(令和2年7月豪雨)。県民に愛される球磨川で2カ所の堤防が決壊、一部では浸水の深さが9メートルにも及んだ。県内で65人の死亡が確認されている。
2008年に、建設計画の発表から40年以上経過していた「川辺川ダム」建設計画を白紙撤回し「ダムによらない治水」を選択した蒲島知事だが、今回の豪雨を経験して新たな決断をした。
「尊い命がなくなるような治水はしたくない。だけど環境にも配慮したい。そこで住民のみなさんの話を聞き、有識者会議を開いて、さまざまな意見をうかがいました。そして決めたのが『緑の流域治水』(グリーンニューディール)なんです。平常時には水をためない新たな流水型ダムを作ります。命と清流、両方守っていく選択をしました」
政治家が政策を変えるのは苦渋の決断だ。これが否定されたら潔く知事を辞めるつもりだったという。知事は無所属だが、実質的に与党の応援を受けて当選してきた。川辺川ダムの白紙撤回は、その与党の方針に反するものだったが、長い時間をかけて関係を築き直してきた。だから今回の政策転換が国の納得を得られたのだろう。そしてこの新しい治水の方向性を発表しても、県民の知事支持率は落ちなかった。
「どこかの政党だけと結びつくことはありません。私は野党もリスペクトしています。何より大事なのは『精神の自由』ですから」

高校を卒業して就職したものの3週間で退職、その後、農協に勤務し、農業研修のためアメリカに渡った。研修とは名ばかりの重労働の日々を経て、ネブラスカ大学での学科研修に進み、学ぶ喜びを知り、農業経済学で修士号を、その後ハーバード大学に進み政治経済学の博士号をおさめた。帰国後は筑波大から、東京大学の教授に。異色の経歴をもつ知事の県政は、前例にとらわれない自由さがある。そんななかから、くまモンが生まれ、育ったのだ。
被災地に行ったくまモンにお年寄りは
この5年間、蒲島知事はことあるごとにこう言ってきた。
「熊本には3つの宝があります。熊本城と阿蘇とくまモン。地震によって熊本城と阿蘇は傷つきましたが、くまモンは元気でした」
5年前、地震に怯えていたくまモンは、それでも「自分に何ができるのか」を考え続けた。80万人以上のフォロワーがいるツイッターも、一時期止まった。そんななか「くまモンに会いたい」という声は、日増しに高まっていった。
周囲は「こんなときに出かけていいものか」と考えたが、くまモンは決断した。5月5日、子どもの日に、被災地の保育園に行こう、と。
「わああ! くまモン!!」「くまモ〜ン!」「くまモンだー」
避難所にもなっていた西原村の保育園に行くと、子どもたちが大きな歓声で出迎えた。くまモンは全力で飛び跳ね、子どもたちは笑顔になった。それを見た大人たちにも笑みが浮かぶ。隅の椅子に座っていたお年寄りの元に、くまモンが走って行って肩を抱いた。その女性は、くまモンを拝んで泣いた。
それからのくまモンの活動には目を瞠るものがある。「復興」の名がつくイベントには必ず、彼の姿があった。
「くまモン関連商品の売り上げは、去年、ついに1698億円になりました。2011年からずっと前年を上回っています」
そして、熊本の現在地
4月14日の熊本地震犠牲者追悼式で、知事は改めて「誰ひとり取り残さない」と決意を述べた。この5年を振り返ると。
「長かったですね。やるべきことがたくさんあった。だけどとにかく県民のためにと思って、覚悟を決めてやってきました。私はアメリカから帰ってきて大学の先生をしてきたけど、学問は自分のためのもの。政治は県民のためのもの。県民のために仕事をするのは充実感があります」
隣でくまモンが、何度も何度も大きくうなずいて、フリップを見せた。
「これからも、ふっこうにむけて元気とハッピーをとどけるモン!」

最後に立って、2ショットの写真を撮る。これまで、知事の隣に腰掛けて、大人しく話を聞いていたくまモンが張り切ってポーズを取ってくれる。立つと、けっこう大きい。強力なタッグを組むコンビの「存在感」をあらためて感じた。
取材・文:亀山早苗












取材・文:亀山早苗