井手上漠が明かす「奇跡の島」と呼ばれる故郷・海士町への思い | FRIDAYデジタル

井手上漠が明かす「奇跡の島」と呼ばれる故郷・海士町への思い

スペシャルインタビュー ジェンダーレスな生き方が注目を浴びる18歳

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話題の18歳。モデルの井手上漠(いでがみ・ばく)
話題の18歳。モデルの井手上漠(いでがみ・ばく)

可憐なルックスと、性別に囚われない生き方で注目を集める、モデルでタレントの井手上漠(いでがみ・ばく・18)。

井手上がこの春に上京するまで生まれ育ったのは、島根県・隠岐の島にある島のひとつ、海士町(あまちょう)だ。人口はわずか2300人ほど。東京や大阪から向かうと、飛行機と船を乗り継いで最短でもおよそ6時間を要する、文字通りの離島である。

のどかで自然豊かな海士町と、都会的ともいえる洗練された雰囲気の井手上。2つのイメージはすぐには交わらないようにも感じられるが−−。

「海士町育ちでなければ、いまの私はありません。絶対に」

当の本人は、そう断言する。井手上に大切な故郷・海士町への思いを聞いた。

コンビニもファストフードもないけれど

青く澄んだ海士町の海と空。刊行されたばかりの井手上のフォトエッセイもこの地を中心に撮影された(撮影:三宮幹史/井手上漠フォトエッセイ normal? より)
青く澄んだ海士町の海と空。刊行されたばかりの井手上のフォトエッセイもこの地を中心に撮影された(撮影:三宮幹史/井手上漠フォトエッセイ normal? より)

「海士町は島全体がアットホームで家族みたいなんです。学校に行く時に島の人とすれ違ったら、相手が誰なのか知らなくても『おはよう』『いってきます』なんて言葉を交わすのが当たり前。都会では考えられないかもしれませんが、これが島の日常なんです」

海士町には有名なキャッチフレーズがある。「ないものはない」。”大事なものはすべてここにある”という意味、そして”ないものはない”というまさに言葉通りのダブルミーニングだ。

「海士町にはコンビニもないし、ファストフードのお店もありません。だけど農業や漁業がさかんだから、採れたての野菜や釣ったばかりのお魚をご近所さんからおすそ分けしてもらえるんですよ。都会と比べると”ないもの”ばかりだけど、不思議と不便さは感じたことはありません」

海士町の玄関口の菱浦港周辺。穏やかな水面に太陽の光が輝くように反射することから「鏡ヶ浦」の異名をもつ。この島を愛した明治の文豪・小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)がつけた名前だ(撮影:三宮幹史/井手上漠フォトエッセイ normal? より)
海士町の玄関口の菱浦港周辺。穏やかな水面に太陽の光が輝くように反射することから「鏡ヶ浦」の異名をもつ。この島を愛した明治の文豪・小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)がつけた名前だ(撮影:三宮幹史/井手上漠フォトエッセイ normal? より)

”第2の夕張市”からの復活

井手上が生まれる数年前、2000年頃の海士町は、多くの地方自治体の例に漏れず、深刻な財政難にあえいでいた。都市への人口流出と少子高齢化などのあおりを受け、抱えた借金額は約100億円。一時期は”第2の夕張市”と言われるほどの逼迫した状況だった。

海士町にはこうした苦境を前に、徹底したコストカットやIターンの積極支援、島の新鮮な魚介類のための新たな冷凍技術の導入といった思い切った改革を実施。それらが功を奏し、いまでは地方創生のモデルケースとして全国的な注目を浴びるほどの奇跡的な財政立て直しを果たしている。

とりわけIターンを始めとする、島の外の人たちの力や考えを受け入れる姿勢は、この町で育つ子どもたちにも大きな影響を与えていった。

「小さいころから海士町出身以外の大人とも交流する機会がとても多かったと思います。学校や町が東京などからスポーツ選手を島に呼んでくれたこともよくありました。私が一番覚えているのは、バレーボールの大林素子さんが来てくださった時のこと。一緒にバレーしたのが懐かしいです。

他にも高校に入ってからは学校とは別に、東京の学生さんが教えに来てくれる塾がありました。

昔から島の中にいても都会の人と触れ合える機会がたくさんあったんです。だから私のようにずっと島育ちだった子どもも、高校を卒業して都会に出ていくときに『東京が怖い』みたいな不安を抱くことがないんだと思います」

多様性が育まれる高校生活

隠岐島前高校から徒歩圏内にあるレインボービーチ。井手上は放課後を友人たちとこの場所で過ごしていた(撮影:三宮幹史/井手上漠フォトエッセイ normal? より)
隠岐島前高校から徒歩圏内にあるレインボービーチ。井手上は放課後を友人たちとこの場所で過ごしていた(撮影:三宮幹史/井手上漠フォトエッセイ normal? より)

井手上が高校生活を過ごした隠岐島前高校は”島留学”という制度が有名だ。島の少子化で一時期は廃校寸前にまで追い込まれた同校は、この制度で積極的に島の外からの生徒を募集し、生徒数がV字回復。現在は在校生の半数以上を島外からの生徒が占めている。

「入学当初は島出身の”島内生”と、外の地域から来た”島外生”にグループが分かれるんですよ。ちょっとぶつかり合ったりすることもあります。島外生は『コンビニ行くのに船乗らなきゃいけないの?』ってイジってきたり(笑)。島外生も多種多様で、同じ島根県の松江から来る人もいれば、大阪や東京、海外出身の人もいました。

最初はお互いに壁もあったけど、3年も一緒にいると自然と仲良くなるし、いろんなルーツの人たちがいるから、みんなの価値観が広がっていった気がします」

多様性が自然と育まれる環境のなかで、井手上は友人らとともに高校の”制服改革”を実現。同校は2020年の6月に、それまで学ランを”男子学生服”、ブレザーとスカートを”女子学生服”とする呼び名から、それぞれ”タイプ1””タイプ2”という呼び名に改めることになった。生徒が性別にとらわれずに希望する制服を選べるようになる画期的な取り組みはニュースにもなっている。

「高校は私にとって救いでした。髪の毛を伸ばしている私を奇異にみるような人もいませんでしたし、男とか女とかではなく、『漠ちゃんは漠ちゃんだよね』と言ってくれる友達に恵まれて」

「高校のなかだけではなく島の人達みんなにも感謝しています。私が弁論大会で全国大会へ行った時も、ジュノンボーイの選考を受けている時も、いつも町をあげて応援してくれました。”普通の男の子”とは違うことに悩んでいた自分が、これだけの人に味方されることがどれだけ力強かったことか。

いま私がこうしてジェンダーや様々なことにオープンでいられるのも海士町で育ったからこそ。私は環境すべてに恵まれていたんです」

海士町育ちでなければ、いまの私はありません――。その言葉の意味が、いまならよくわかる。

profile
井手上 漠 (いでがみばく)
2003年1月20日生まれ。
島根県隠岐郡海士町出身。
15歳でジュノン・スーパーボーイ・コンテスト〝DDセルフプロデュース賞〟を受賞して以来、『行列のできる法律相談所』(日本テレビ系)やサカナクション『モス』のMVに出演するなど、多方面で活躍。現在はファッション誌や美容誌などを中心にモデルとして活動する。

故郷の海士町を中心に撮影されたフォトパートと、4万字超のエッセイで構成された、初のフォトエッセイ『normal?』(講談社)。発売前重版もされ、セールスも好調だ。

撮影:三宮幹史/井手上漠フォトエッセイ normal? より
撮影:三宮幹史/井手上漠フォトエッセイ normal? より
撮影:三宮幹史/井手上漠フォトエッセイ normal? より
撮影:三宮幹史/井手上漠フォトエッセイ normal? より
井手上漠フォトエッセイ normal? 「目次」より
井手上漠フォトエッセイ normal? 「目次」より
  • 撮影カノウリョウマ(書籍カット以外)

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