『お笑いマンガ道場』プロデューサーに聞く伝説番組の舞台裏 | FRIDAYデジタル

『お笑いマンガ道場』プロデューサーに聞く伝説番組の舞台裏

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漫画家・富永一朗さんが老衰のため、96歳で死去したことが報じられると、多数の嘆きと共に『お笑いマンガ道場』のファンからは「富永先生が腕をピーンとのばして手を挙げていたのが印象的」「土管から出てくる鈴木先生ファミリーが懐かしい」「富永先生の描く長いおっぱいが忘れられない」などなど、様々な懐かしい場面がつぶやかれていた。 

それにしても、同番組のファンは漏れなく好きだったであろう「鈴木義司VS.富永一朗の戦い」は、いつ、どのように始まったのか。1976年から94年まで放送された長寿番組において、1983年4月から2年半、AD~ディレクターを担当し、レギュラー陣の高齢化に合わせて東京収録になって以降の1990年10月から2年半はプロデューサーを務めた中京テレビの瀬古隆司さんにお話を伺った。

昭和59(1984)年12月22日放送より

「鈴木義司VS.富永一朗の戦い」誕生のヒントは『笑点』!?

「初代のプロデューサーが、最初に鈴木義司先生に交渉したそうです。それで、もう1人漫画家の先生をレギュラー出演者にしたいとご相談したら、鈴木先生が推薦してくださったのが、富永一朗先生でした」

鈴木義司先生は途中ケガで欠席したこともあったというが、富永一朗先生は初回から最終回まで皆勤だったという。

「スタート当初はお二人とも漫画家として作品性の高いものを描かれて、車だん吉さんやエバさんなど、他のレギュラー陣がコミカルな部分を請け負う役割分担になっていました。 

実は番組スタート時、『笑点』で名物となっていた歌丸師匠と小圓遊師匠の罵倒合戦を意識して、対立軸を作ろうという思いがあったようです。そこから、ちょっとキザな鈴木先生と恰幅が良くて勢いのある富永先生で対決させようと意図したと聞いています」

最初は「コミカル担当」とは一線を画したポジションだった二人は、おそらくタイプが好対照であったこともきっかけとなり、「対立軸」を担い、「コミカルな部分」も最前線で引っ張っていくことになる。さらに80年代に入ると、その対立構造は演出によって、より盛り上がっていったようだ。

「鈴木先生はキザで、ちょっと嫌味を言う大金持ちキャラの設定でしたが、衣装は基本ご自前でお願いしていたんですよ。あのトレードマークの蝶ネクタイもかなり前からですが、放送200回時点ではストールを巻いていますね。 

また、富永先生は、放送開始当初はまだ51歳で、男性としてギラギラした部分が結構ありました(笑)。すごくまじめで優しく、裏表のない実直な方だったので、実際にちょっとキザなところのある鈴木先生と良い対比になって、バトルの構図が作りやすかったのではないかと思います」

お二人は、キャラクターと同様に、漫画の作風も対照的で、役割分担がしっかりなされていたという。

「鈴木先生が先に振って、富永先生はリアクションする感じですかね。 

スマートな鈴木先生に、勢いのある元気なおじさんの富永さんが構い、ときには積極的に攻撃もする。でも、鈴木先生はそれに対してあんまり相手にせずに、スマートでお洒落な絵で反撃したりする、みたいな。 

富永先生の方がアグレッシブで、答えも富永先生の方が毎回ちょっとだけ多く考えられていました。大体1問ごとに2枚以上描いていただくんですが、富永先生はどんな問題でも3枚は描かせてくれと言っていたんですよ(笑)」

鈴木先生が富永先生ことを「オバケナマコ」「オオサンショウウオ」と罵ったり、逆に富永先生は鈴木先生一家が土管に住んでいる漫画を描いたり――そうした設定は、台本上のものだったのだろうか。

「最初に鈴木先生がお金持ちネタをやり出して、それを見た富永先生が鈴木先生は土管に住んでいるとか、貧乏ネタをやり始めたんですね。 

だったら、鈴木先生が富永さんにやり返す画があったら面白いよねという話を、放送作家さんを交えて練っていきました。そうしたやりとりは、収録当日にお知らせする、プロレスの段取りみたいなもんなんです(笑) ただ、本番でそれが馬鹿ウケすると、富永先生はときたまムッとしましたよ(笑)  

自分がバカにされることではなく、相手の作品がウケたことが悔しいんですよ。だから、鈴木先生はいつもニコニコ、ある意味ポーカーフェイスで大人の対応だったのに対し、富永先生は何事にも真剣な方だったので、『鈴木を題材にしてもっとウケる答えを出すぞ!』みたいな感じで。 

やっぱり漫画家ですから、『出した漫画がいかにウケるか』に、特に富永先生はこだわっていらっしゃいましたね」 

ちなみに、富永先生といえば、おっぱい全開の裸が必ず登場するイメージがあった。

「あっけらかんとしているからか、おっぱいなんだけど、エロさはなくて、意外と女性ウケは良かったんですよね。スタジオのお客さんには中高年の女性が多く、自由で笑える雰囲気になっていました。『富永先生と言えば』みたいなところもあるので、お馴染みの十八番としておっぱいが出てくるのを直で見られると、お客さんは喜んでいました。 

富永先生も、お客さんを盛り上げることにプライドをかけていましたので、ウケないと本当にがっかりしてましたから。『この面白さが分からないのかな』みたいな感じで」 

富永先生といえば、このおっぱい全開の裸…(南砺市立福光美術館蔵)■そのほかの貴重なフリップをご覧になるのにはこちらをクリック!

カメラが回ってない時の二人は…

番組内では毎回バトルで盛り上げてくれた鈴木先生と富永先生だが、カメラが回ってないところでのやりとりはどうだったのだろうか。

「カメラが回っていないところは、完全にお友達でしたね。本当に仲良くいろんな話をしていましたよ。 

漫画の話や食べ物の話を富永先生はよくなさっていて、鈴木先生はすごく博識な方だったので、海外での見聞などを披露されるんですが、富永先生は『ああ、そうなの』とさりげなく聞き流している風な感じもありました(笑)」

また、番組で一番大変だったことを伺うと、とっさに名古屋収録時代の「朝10時集合」を挙げる瀬古さん。

「私たちは良いですが、レギュラー陣の皆さん、朝10時に中京テレビに来なければいけないわけですから。1番家が遠い車だん吉さんなんか5時起きだったんですよ(笑)。 

元から楽屋も大部屋しかありませんでしたので、みんなオンオフの切り替えなく和気藹々と『今日も楽しい問題だね』みたいな感じで、温め合いながら進んでいきました。番組的にも出演者の皆さんの人間関係的にも心配が全くない、そこに関してはとても楽でしたね」

また、楽屋の様子については、懐かしそうにこんな話をしてくれた。

「楽屋は長机をロの字型に並べて座り、出演者さんごとに担当ディレクターがついて、本番に向けて準備の打ち合わせをしながら、試しで描いてもらったりしていました。 

問題はあらかじめ伝えていたんですよ。もちろんきっちりチェックはしませんが、勘違いの答えやかぶりがないように程度です。ずっと同じ部屋にいていただいたほうが、演出側も調整がしやすかったので、私たちスタッフが準備やチェックを行う間、出演者さんはそれぞれ世間話などされていましたね。 

川島なお美ちゃんとか森山祐子ちゃんとか若い女性レギュラーから流行しているモノの話などを聞くのもすごく楽しみにしていらっしゃったようです」

ふたりの芸人顔負けのタレント性が開花した『恐怖のしりとりマンガ』

最初に瀬古さんが担当した83年時は、新しいことに果敢に挑戦していた時期でもあった。特に、最後の問題ではゲーム性のあるものを次々に取り入れている。

「鈴木先生も富永先生も、新しいものにチャレンジする意欲を強くお持ちで、新提案に関してもすごく積極的に演出意図を汲み取っていただけました。 

通常は席に座ってフリップに絵を描いていますので、テレビ番組とはいえ、基本的には漫画作品という形で発表されていたんですが、そうしたスタイルから大きく離れたのが、例えば『恐怖のしりとりマンガ』です。マス目1つずつしりとりで絵を描き、その間頭上で風船が膨らみ続け、風船が割れたときに描いていた人が負けという、今のバラエティでもときどき見かける手法ですね。 

芸人さんでもタレントさんでもない漫画家の先生方が、風船怖さに、絵の仕上がりとか関係なく、少しでも早く描いて風船から逃れようとする懸命さはおかしさも可愛さもあり、好評でした。 

お客さんも120人くらい入っていただいていましたが、目の前でリアクションが見られるので、盛り上がりましたね」

写真は、1982年7月31日放送第330回の「恐怖のしりとり歌合戦」でのシーン。どんどん膨らんで行く風船の下、コワゴワ絵を描いているのが富永一朗先生。その左で耳栓しているのが秋ひとみさん。この回では、川島なお美さんがゲストで初出演した

もともと漫画家としてオファーされた二人は、その対応力の高さも手伝って、どんどんタレント的要素を求められるようになる。

「私がプロデューサーをやっていた終盤には、漫画のほうが二次的要素くらいのこともありました。例えば、居酒屋の設定で小芝居を見せ、オチだけ漫画としてフリップで見せるようなケースもあったんですが、お二人は芝居の間合いをつかむことなども含めて、能力・才能を開花されて。 

しかも、ずっと長くやってこられただけに、途中からはゲストをもてなすような心配りも見せてくださっていました」

鈴木先生が亡くなったのが2004年。富永先生を『お笑いマンガ道場』に推薦した鈴木先生は、「富永さんじゃなきゃできなかった」と語っており、また、富永先生は誘ってくれた鈴木先生にずっと恩義を感じていたという。

ところで、業界内にもファンが非常に多い『お笑いマンガ道場』は、1992年には、ダウンタウン・松本人志が『おまけコーナー』へハガキを送っていたご縁から『ダウンタウンのごっつええ感じ』に招待され、レギュラー陣がみんな出演するという、系列を超えたコラボが放送されたこともあった。

さらに、8月上旬には『復活!令和もお笑いマンガ道場』がYouTubeで復活する。

「とある企業のブランディング推進部署の担当者が番組ファンだったそうで、お声掛けいただき、実現しました。80年代中盤のセットを丸々復刻し、司会の柏村武昭さんには青いブレザーを着てもらうつもりです。出演は車だん吉さんのほか、くっきー!さん、ナイツ土屋さん、プロの漫画家枠では島本和彦さん。『おまけコーナー』もやろうと思っています。どうぞ令和版もご覧ください」

  • 取材・文田幸和歌子

    1973年生まれ。出版社、広告制作会社勤務を経てフリーランスのライターに。週刊誌・月刊誌等で俳優などのインタビューを手掛けるほか、ドラマコラムを様々な媒体で執筆中。主な著書に、『大切なことはみんな朝ドラが教えてくれた』(太田出版)、『KinKiKids おわりなき道』『Hey!Say!JUMP 9つのトビラが開くとき』(ともにアールズ出版)など。

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