お嬢さん育ちの31歳は、切断した愛人の局所を身につけて逃走した
羨ましいほど愛に生きた「阿部定事件」の現場を歩くー亀山早苗レポート
殺した男の太ももに、男の血で「定吉二人(さだ きち ふたり)」と書いた。切り取った局所を大切に包んで身につけ、逃走した。「阿部定(あべさだ)事件」だ。のちに映画「愛のコリーダ」など芸術作品にも昇華されたこの事件。お嬢さん育ちだった娘、定が31歳で見つけた「本物の愛」を命懸けで守った物語だった。「定に惹かれ続けている」ライター亀山早苗がその足跡をたどった。
先日、20代後半の女性たちと話す機会があった。彼女たちは口々に「30歳までに結婚したい」と言う。結婚して専業主婦になりたいわけではない。居心地のいいパートナーとの生活で「癒やされたい」というのである。1990年代に生まれ、「人生で景気のいい時代など一度もなかった」と嘆く世代だ。代わりに、物心ついたときには携帯電話があるのは当たり前で、「不便」など感じなかった世代でもある。
彼女たちがパートナーを求めるためにもっぱら使っているのがマッチングアプリだ。条件を絞って相手を探し、メッセージのやりとりを重ねてから会ってみる。
「その段階で、こんなはずじゃなかったということはあまりないから、つきあうことになりますね。リアルで知り合って恋愛に発展させるよりずっと効率はいい」
確かに効率はよさそうだが、出会い頭に電流が走って「これは恋に発展する」と思ったり、地道な友情関係から不意に恋心が生まれたり、そういう恋愛はあり得ないのではないか。
「確かに」と今度は彼女たちがうなずく。そして、言った。
「でも、それって必要ですか?」
全身全霊で恋愛をした「阿部定 」が愛人を殺すまで
現代のアラサー女性たちの感覚とは対極にある、効率など考えない全身全霊の恋愛を生きたのが、「阿部定」である。彼女は当時31歳。
阿部定事件というと、不倫相手を殺害、その下腹部を切断して持って歩いた猟奇的な事件ととらえられがちだが、実は彼女ほど「心身共に相手を強烈に欲するあまり、自分の欲求に素直に生きた」女性はいない。もちろん殺人は御法度であるが、彼女は相手を「どうしても自分のものにしたかった」のだ。85年前に起こった史上まれに見る猟奇的事件は、史上まれに見る純愛の涯(はて)でもあった。
昭和11(1936)年。二・二六事件があり、日本は暗い雰囲気に包まれていた。その約3ヶ月後に起こった阿部定の一件は大きく報道され、彼女のファム・ファタール的な色気と妖気があいまって人々を熱狂させた。
阿部定が、自分の勤め先の料理屋の主人である吉蔵と「わりない仲」になったことを妻や他の奉公人に知られ、道行き(駆け落ち)を決め込んで流れ着いた先が荒川区尾久の待合「満佐喜」(満さき、まさき、という表記もあり)である。尾久は都内でも有数の三業地だった。当時も走っていた都電の「宮ノ前」停留所で降り、満佐喜のあったあたりをぶらぶらと歩いてみる。三業地らしい、くねった細道の多い町である。
「この町はすっかり変わってしまって、三業地の面影はほとんどないのよ」
そう言いながら、かつて待合だった建物を外から解説してくれた人がいた。1階は大きめの広間などがあり、2階は小座敷がいくつかあったそうだ。角の煙草屋の主人のお母さんが、かつて阿部定と話したことがあると言っていたとか。地元ではまだ「阿部定」が生きていた。
阿部定は、5月18日の朝、細紐で吉蔵を絞殺、数日前に「切ってやる」と戯れ言を言うために買った牛刀で、本当にペニスと睾丸を切り取った。うまく切れず牛刀が滑って彼の太ももを傷つけた。太ももには血で「定吉二人」、敷布には「定吉二人キリ」と書いた。左腕には「定」と刻み込んだという。吉蔵の顔にはタオルがかけてあった。
彼女は切り取った局所を雑誌の包み紙(表紙のことか)にくるみ、吉蔵のふんどしに包んで身につけた。そして彼のシャツとステテコを着こんで逃走したのである。20日の夕方、泊まっていた品川の宿に警察がやってくると、彼女は「阿部定を探しているんでしょ。あたしがお探しの阿部定ですよ」とさらりと言って刑事たちを驚かせたという。逮捕時の新聞写真では、彼女は婀娜(あだ)っぽく微笑んでおり、周りの刑事たちも笑っている。「悪党を逮捕した」という雰囲気とはほど遠い。
なにが「世紀の妖婦」を作ったのか
阿部定は、神田新銀町で江戸時代から続く畳職人の父のもと、明治38(1905)年5月28日に7人きょうだいの末っ子、四女として生まれた。職人が15人もいるような裕福な家庭で甘やかされて育った定は近所でも評判の美少女で、三味線や踊り、常磐津などを習っていたという。
彼女が通った神田尋常小学校は現在の千代田小学校。ここから歩いてすぐのところに定の実家の畳屋があった。15歳のころ、近所の家に遊びに来ていた慶応大学の学生に強姦された。まだ初潮もきていない少女にとって衝撃は大きかった。母が学生の家へ談判に行ったが相手にされず、泣き寝入りせざるを得なかった。定は「もうお嫁に行けない」と自棄になり、家からお金を持ち出しては近所の不良たちと浅草へ行って遊び回るようになった。
しかもこの時期、定の自宅では、兄や姉がそれぞれ夫婦問題、男女問題を抱えており、家の中はゴタゴタしていた。両親は、定の心のうちをゆっくり考えてやれなかったのかもしれない。
定が金を持ち出す頻度と額は増える一方だった。そのうち長男が全財産を持って家出したのをきっかけに、両親は神田の家を売り払い、娘のひとりが嫁いだ埼玉県坂戸の近くに家を建て、定と3人で移り住んだ。都内に5、6軒の貸家があったため、経済的には決して困っていなかったが、子どもたちの行状に疲れて隠居を決め込んだのかもしれない。
浅草で遊べなくなり、憂さがたまったのは定だ。近所の男性と懇意になったり、ひとりで洋食屋に出入りしたりしたことが噂になり、父が激怒、「そんなに男が好きなら娼妓に売る」と言い出した。泣いて頼んでも父は翻意しない。そして遠縁の稲葉という男に頼って本当に芸者として売ってしまった。
「どうせヒビの入った体だし、どうとでもなれ。もう二度と親元には帰らない」と定は決意した。父としては、一度そういう商売をすれば嫌になって戻ってくるに違いないと思ったらしい。だが、定はそんな性格ではなかった。
そこから定の流転が始まる。そもそも稲葉と男女の関係を持ったのが不運の始まりだった。生活費をすべて払わされたり、前借金を横取りされたり。彼と縁を切るためにいっそ娼妓になろうと、大阪・飛田に流れ着いたのが22歳のときだった。
飛田では一流店で売れっ子になったが、ひとところにおさまらないのが定という女だ。名古屋、大阪、東京、兵庫などをさまようたびに店の格は落ちていく。まさに流れ流れていったのである。最後は前借金をそのままに脱走して、神戸でカフェの女給となった。昭和のモガだが、彼女の性には合わなかったのだろう。数週間でカフェを抜け出すと、高等淫売をしたり妾になったりと、直接的な男女関係を自ら求めるようになっていく。定の20代はそうやって過ぎていった。
事件前年の昭和10年春、定は名古屋の小料理屋で女中として働いていた。よく働く気の利く女で、裁縫も字も上手、客受けもよかったという。男相手の商売や待つだけの妾生活に倦んだのだろうか。まじめに働いていたようだ。定という女の一面が浮き彫りになる。
そのころ知り合ったのが、名古屋市議会議員で中京商業学校校長の大宮五郎だ。彼女の過去を聞いて、まじめに働くよう諭したという。自身もときおり関係を持ちながらも、なんとか彼女を更生させようとしたのは、男が抱える矛盾なのか。あるいは抗えない定の魔力だったのか。定のほうは大宮を尊敬はしていたが、恋愛感情は見受けられない。
いずれ一軒店を持たせたいからと、大宮が翌春、紹介したのが東京・新宿の口入れ屋。そこを介して定は中野の鰻料理店・吉田屋で働くようになる。そこは、運命の男・石田吉蔵が経営する店だった。
運命の男に出会ってしまった
2月10日、勤務初日から定は吉蔵に好印象を抱いた。吉蔵のほうも2月下旬には定の手を握ったりキスをしかけたりしている。男と女の暗黙の了解はすでにできあがっていた。
関係ができたのが4月中旬。家で客遊びをする吉蔵の座敷に芸者とともに定が呼ばれた。吉蔵の歌う清元に、定は惚れ込んだ。芸者が席を外したちょっとした間に、ふたりは初めて体を交えた。その数日後、真っ暗な応接間で関係しようとしているときに女中に見つかり、家中に知れ渡る。
示し合わせて23日に家出し、都内の待合を転々とする。30日には金の工面のため名古屋まで大宮に会いに行き、100円を手にした。事件まで数回、大宮から金を受け取っているが、そうまでしても吉蔵との関係を続けたかったのだ。5月7日、吉蔵がいったん自宅に戻ると、定は眠ることもできず鬱々と過ごす。11日にようやく連絡がとれると、気持ちの高まりを抑えきれない。このあたりはまるで少女のようにウブだ。
吉蔵は感情家で無邪気で、定が自分の赤い長襦袢を着せるとそのまま寝るような、母性をくすぐるところのある男だった。
「寝間が巧者で情事のときは、自分は長く辛抱して私がじゅうぶん気持ちよくなるように」してくれるのだという。定が月経のときにも吉蔵は嫌がることなく、触ったりなめたりしてくれ、彼女は自分が愛されていると確信した。同時に嫉妬がわきおこる。「誰ともいいことをしないように殺しちまおうかしら」と言うと、吉蔵は「おまえのためなら死んでやるよ」と告げた。
ふたりは11日に尾久の満佐喜に泊まる。それから事件当日まで、風呂にも入らず、ろくに眠りもせず、互いをむさぼり合った。蒸れた匂いが漂ってくるようだ。ときおり定は、「家で女将さんと何をした」と責めた。吉蔵をかわいいと思う半面、憎くもなる。そんな自分の気持ちを持て余したことだろう。
首を絞めながら「交わる」ことに夢中になって
16日の夜のこと。吉蔵が喉を絞めながら交わるといいらしいと話したことを思い出した定は「紐で締めるわよ」と試してみた。交わったまま首を絞めると、定の中に入った吉蔵のあそこがビクビクして、確かに気持ちがいい。そんなことを2時間ほどしているうち、うっかり手に力が入った。自分の中の吉蔵が急に小さくなったので、定はあわてた。首には紐のあとがくっきりついて目が腫れ上がった。そうなるまで、定は自分の快楽に溺れていたのだ。
翌日、定は薬局で吉蔵の首について相談している。そして薬やらスイカやら西洋菓子やらを買って帰って看病した。吉蔵は満佐喜の女中に見られてきまりが悪いし、勘定も足りないから一度自宅に帰ると言い出す。数日会えなかったつらさを思い出し、もう二度とあんな寂しさには耐えられないと感じ、吉蔵の話が耳に入ってこなくなった。
交わったあと、ウトウトしている吉蔵の顔をしみじみと眺めながら、いっそ殺して永遠に自分のものにするしかないと徐々に決意を固めていく。ときおり目を開けて定がいるのを見てまた目を閉じていた吉蔵が、ふと「おまえ、オレが寝たらまた締めるんだろうな」と言った。定が「うん」と言うと、「締めるなら途中で手を離すなよ、あとがとても苦しいから」とつぶやいた。
好きな男を永遠に自分のものにするために
吉蔵が眠り込んだのを見計らって、彼女はついに自分の腰紐を吉蔵の首に二重にまきつけて力一杯引いた。「勘弁して」と泣きながら。恋情と情念と執着が入り交じった定の激しい感情が、腰紐への力となったのだろう。吉蔵は事切れた。すべてが解き放たれた瞬間であり、定の強い思いが成就した瞬間でもある。これで吉蔵は永遠に自分のものになったと定は安心した。好きな男を永遠に自分のものにするには、自分が手を下すしかなかったのだ。
自分も死のうと思ったが、その前に大宮にお詫びをしなくてはと思い立つ。そこで満佐喜を発つにあたり、吉蔵と一緒に行こうと局所を切りとるのである。永遠に自分のものにしたからには体の一部が一緒でなければ意味がなかった。
逮捕時、大阪へ行くつもりだったと報道されたが、定は逃亡する気があったのだろうか。いちばん好きな人を自分のものにした達成感とそこから来る虚無感にさいなまれて、動く気などなかったのではないか。逃亡を考えたとしたら、罪を逃れるためではなく、いつまでも吉蔵の「体の一部」とともにいたかったからだろう。
逮捕。服役中に日本中からラブレターが届いた
裁判で定は懲役6年の判決を受け、控訴せず服役。服役中にファンレターや結婚の申し込みが数千通もあったという。1941年(昭和16年)に「紀元二千六百年」に際し、恩赦を受け出所した。36歳の定は、刑事から「吉井昌子」という名をもらい、終戦後はその名前で配給も受けたというから、まさに特別扱いだったのだ。
身の上を隠して一般の会社員と事実婚をして平穏に暮らしていたのだが、終戦直後に乱造された「お定本」と呼ばれるカストリ本の一つ『昭和好色一代女 お定色ざんげ』をどうしても許せず、著者と出版社を名誉毀損で告訴した。そのため阿部定であることがバレて夫は失踪した。彼女は自分が「変態」だと思われることが何よりつらかったのだ。47年には織田作之助が阿部定をモデルにした『妖婦』という小説を書き、坂口安吾は雑誌で阿部定と対談している。彼らにとって、定はまさにファム・ファタールだった。
その後は本名の阿部定を名乗り、一座を組んで巡業、京都で芸者、大阪のバーでホステス、伊豆で旅館の仲居など仕事も住む場所も転々としながらたくましく生きていく。やはり根は流れ者なのだ。
1954(昭和29)年、上野の料亭・星菊水の社長に前金10万円(現在の300万円ほど)で仲居としてスカウトされる。月給も他の仲居が3000円のところ、定は1万5千円もらっていた。下谷の長屋に住み、毎日、近所の小野照崎神社の鳥居に向かって手を合わせてからタクシーに乗って仕事に向かうのが日課だったという。小野照崎神社は、町中にひっそり静かにたたずむ神社である。定も本殿に来たこともあるはずだと思いながら柏手を打ってみた。
勤務先の星菊水では、宴会の最後に定が出てきて客をもてなすサービスがセットになっていた。4年後には東京料飲食同志組合から優良従業員として表彰されている。この時期が、定にとっていちばん落ち着いた平和な時間だったかもしれない。
10年近く勤めたあと、バーを開店するが従業員に金を持ち逃げされた。1967年には台東区竜泉に『若竹』というおにぎり屋を開店。実質はカウンターで酒を飲ませる店で、芸能人や有名力士、国会議員なども来ていたというから、人気は衰えを知らなかった。
69年には映画『明治・大正・昭和 猟奇女犯罪史』に63歳の定本人が出演している。事件のことを問われ、「そうね、人間一生に一人じゃないかしら、好きになるのは」と少しハスキーな下町言葉で答えている。年齢相応の外見ではあるが、インタビュアーに聞き返すときの上目遣い、すっと目線を流すときの表情などには妙な色気があり、なまなかな人生ではなかった人ならではの肝の据わり方が見てとれた。
70年に若竹が閉店、71年1月に千葉のホテルで働き始めるが、6月に浴衣1枚をもって失踪し、以後、定の行方はわからないままだ。浅草にいたとか伊豆にいたとか、都市伝説のように話が出ては消えた。生きていれば今年で116歳だ。
生涯でたったひとりの人を好きになり、その人を永遠に自分のものにした阿部定。不幸せなこともたくさんあったが、それでも惚れた男に惚れられた幸福の絶頂を知った経験をもつ人生だった。
コスパや条件ではなく、自分の心と体の感覚だけでひりつくような
【参考文献・資料】「命削る性愛の女 阿部定〈事件調書全文〉」(コスミック・インターナショナル)・「阿部定伝説」七北数人編 ちくま文庫・「昭和十一年の女 阿部定」(粟津潔・井伊多郎・穂坂久仁雄著/田端書店)・「花街の引力」(三浦展/清談社)・DVD「明治・大正・昭和 猟奇女犯罪史」(東映株式会社)
- 取材・文:亀山早苗
- 写真:共同通信社(モノクロ3点)
フリーライター
1960年東京都出身、明治大学文学部卒業後、雑誌のフリーライターに。男女関係に興味を持ち続け、さまざまな立場の男女に取材を重ねる。女性の生き方を中心に恋愛、結婚、性の問題に積極的に取り組む。『人はなぜ不倫をするのか』(SB新書)、『女の残り時間』(中公文庫)など、著書は50冊以上にのぼる