45歳でこの世を去った「ある天才ボクサー」の悲壮死の真相 | FRIDAYデジタル

45歳でこの世を去った「ある天才ボクサー」の悲壮死の真相

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伝説の一戦

WBA/IBFバンタム級タイトルを保持する井上尚弥の名は、本場アメリカでも広く知れ渡っている。ボクシング関係者はもちろん、ファンも熱い眼差しを送る。RING誌が選んだ2019年度「年間最優秀試合」を獲得したノニト・ドネア戦で、一気に株を上げた。

井上が日本人未踏のステージを上っていくなか、現地ジャーナリストとの会話中に度々引き合いに出されるファイトがある。1999年度の同「年間最優秀試合」を受賞したWBAバンタム級タイトルマッチ、ジョニー・タピアvs.ポーリー・アヤラ戦だ。

いまでも歴史に残る一戦としてファンに語り継がれるタピア・アラヤ戦(AFLO)
いまでも歴史に残る一戦としてファンに語り継がれるタピア・アラヤ戦(AFLO)

実際に拳を交えたことのないモハメド・アリとマイク・タイソンが闘ったら、どちらが強かったか? といった調子の議論が、井上vs.タピア、あるいは井上vs.アヤラとして語られているのだ。

1999年6月26日にラスベガスで催された同ファイトは、ボクシングという競技が持つ芸術性や高貴さを十二分に伝えた。私もリングサイドの記者席から彼らの戦いを見詰めたが、5ラウンド以降、ずっと鳥肌が立っていたことを記憶している。オープニングから試合終了まで、両者は一歩も引かずにハイグレードな攻防を披露した。

3階級制覇を成し遂げ<ニカラグアの貴公子>と謳われたアレクシス・アルゲリョも生観戦し、「間違いなく、バンタム級史上最高の試合だ」と話していた。

当時32歳だったチャンピオンのタピアは僅差の判定で敗れ、アヤラがベルトを獲得した。試合前、挑戦者がリングアナウンサーによって名前をコールされている最中、タピアは彼に近付き、両の拳でアヤラを突き飛ばしている。

だが、試合後は互いにライバルを抱え上げ、相手への敬意を表した。ファイト内容だけでなく、リングを降りていく2人に向かってアルゲリョは「美しい」という言葉を発した。

この試合からおよそ13年後の2012年5月27日、タピアは45歳で永眠している。どうしても薬物を止められない人生だった。そして、”あの一戦”の直前にタピアの心理状態を大きく揺さぶった出来事が、断片的に伝わって来た。

2004年、国際ボクシング殿堂の取材に出向いた私は、帰りの空港でタピア夫妻と出会っている。名刺を交換し、「近々あなたをインタビューしたいです。次の試合前に3日間、密着させて頂けませんか?」と訊ねると、OKという返事だった。

その後、アポイントメントを入れようとしたのだが、実現しかかる度にタピアの薬物問題が発覚し、キャンセルとなった。10度やり取りした後、私は彼への取材を断念した。

タピアの死後、様々な情報を耳にしながら、私は彼にインタビューしなかったことを心から悔いた。どんなことをしても、タピアの肉声を聞いておくべきだった。

今回、私はタピアの故郷であり、彼が眠るニューメキシコ州アルバカーキを訪ねた。本人へのインタビューは叶わないが、未亡人であるテレサ、そして2人の息子と会うことにしたのだ。

母は強姦され殺された

二人の息子とともに夫の獲ったベルトを掲げる妻・テレサ
二人の息子とともに夫の獲ったベルトを掲げる妻・テレサ

アメリカ合衆国の南西に位置するニューメキシコ州は、トルコ石、金、銀、銅、鉛、石炭、天然ガス、石油などが採取される地だが、最も有名なのは毎年10月に行われるバルーン・フェスタではないか。世界中から700余りの気球が集結し、空を彩る光景は幻想的だ。

そんな土地で、ジョニー・タピアは1967年2月13日に生を享けた。彼は父親を知らない。「お前が生まれる前に殺害された」と聞かされて育った。

1975年5月24日、土曜日のことだった。タピアの母、ヴァージニアは8歳の息子を自身の両親に預け、夜の街に踊りに出る。シングルマザーとして、日々の雑事と子育てに追われるヴァージニアは、土曜の夜を息抜きとしていた。

この日に限って、タピアは「ママ、今日は行かないで。僕と一緒にいて!」とタダをこねる。ヴァージニアは「心配しなくても、ちゃんと戻るわよ」と、タピアを宥めながら2本の棒チョコレート「SNICKERS」を握らせ、友人との待ち合わせ場所に向かう。

それが、ジョニー・タピアと母親の最後の会話となった。翌朝になっても、ヴァージニアは帰宅しなかった。そればかりか、アルバカーキ市内で白いブラウスとブルーのスラックスを着た女性が殺害されたというニュースが伝わる。

5月28日、ヴァージニアは遺体となって発見された。レイプされた後に、鋭利な凶器で滅多刺しにされていた。その日以来タピアは、白いブラウスとブルーのスラックス姿の母をひと時も忘れることはなかった。

犯人だと思って闘った

母方の祖父母に引き取られたタピアに、母の死を受け入れる余裕は無かった。ヴァージニアは12人きょうだいの長姉だった。従兄弟など15名の年長者たちと3ベッドルームでの共同生活が始まる。食べ物の奪い合いは日常のことで、病気になっても、医者に診てもらうカネさえ無かった。タピアがヴァージニアを思い出し、涙ぐんでいても、空腹は満たされない。家の外に出れば、6歳も上の隣人たちから喧嘩を吹っ掛けられた。己を守るには、立ち向かうしかない。そうしなければ、生きていけなかった。

叔父や叔母たちの多くはドラッグに溺れ、留置所と刑務所と娑婆を出たり入ったりしていた。殺人犯として服役していた近隣住民も珍しくない。

9歳になったタピアは、祖父からボクシングの手解きを受ける。祖父は経験者で、アマチュアの州チャンピオンになったこともあった。

タピアは天賦の才に恵まれていた。ベースボールやゴルフなど止まっている時間が長い競技には向かなかったが、バスケットボールやテニス、器械体操など、何をやらせても抜群の動きで他を圧倒した。小学生であるタピアがジムで縄跳びをすると、その曲芸のようなテクニックに誰もが舌を巻いた。試合に出始めたタピアは、対戦相手を、母を殺害した犯人だと思って向かっていった。そして、勝利を収めるとリング上で鮮やかなバック転をきめた。

アマチュア時代から頭角を表し、プロでも確実に世界チャンピオンになる逸材だと評価されながらも、タピアはドラッグを手放せなかった。物心が付いた時には、常用者となっていた。夜、床に就こうとすると、タピアは母の死を思い出し、眠れなくなる。苦しみから逃れる術として、ドラッグを手にした。

ふとした瞬間に、母の死が胸を覆い尽くす。最後に目にした、白いブラウスとブルーのスラックスを身に纏った母の姿が蘇った。最愛の人を奪った殺人犯に対する憎悪は、日に日に大きくなっていった。

1990年10月、プロデビュー以来の戦績を21勝1引き分けとし、北米スーパーフライ級タイトルを4度防衛中だったタピアは、そろそろ世界に挑戦だと期待されていた。しかし、コカイン使用が明らかになり、ベルトを剥奪される。加えて3年半、リングに上がることを禁止された。

そんな謹慎中の身であった1993年の初春、タピアはアルバカーキで催されたバーベキューパティーで、恋に落ちる。後に伴侶となるテレサは当時19歳。保険会社に勤めながら、空き時間にコミュニティーカレッジでロシア語や考古学のクラスを履修し、将来はロシア語の通訳になる、という夢を持っていた。テレサは友人、そのボーイフレンドと共にバーベキューに参加していた。

「ジョニーはその日から毎日、私の勤務する保険会社のオフィスにやって来たわ。普段の彼は本当に楽しい人だった」

やがて、テレサもタピアの愛を受け止め、2人は入籍する。ワンルームの小さな部屋を借りて暮らすようになった。

「今、振り返れば、ジョニーとの暮らしの中で、あの頃が一番幸せだったわね。彼がドラッグもお酒も、一切断っていた時期だったから……。家賃が500ドルにも満たない小さな狭い部屋で、2人の時間を過ごせた。おカネは無かったけれどね」

タピアとテレサが過ごした家賃500ドル弱の家
タピアとテレサが過ごした家賃500ドル弱の家

心の闇

夫婦となって間も無く、テレサはタピアの口から、ヴァージニアが殺害された件について聞かされる。

「ジョニーがどれだけ苦しい人生を送って来たかを、知った。彼は何も悪くない。8歳の少年が、そんな重い現実に耐えられるわけない。ジョニーと出会うまで、私の周りにドラッグに手を染めている人間なんていなかった。でも、それには理由があったのよ。私がこの人を守ろう。支えようって決心したわ」

とはいえ、タピアの心の闇はテレサでも、消せなかった。

「私に向かって、苦しそうな表情を見せながら『どうしても母の死を思い出してしまう。眠れないんだ』って、何度言ったか…。すっと行方をくらまし、売人たちと寝泊まりするなんてこともしょっちゅうあった。リングでは、素晴らしいファイトをするのにね」

タピアの遺した家には栄光の記録がびっしりと貼られていた
タピアの遺した家には栄光の記録がびっしりと貼られていた

ほどなくテレサは、リングに復帰した夫のマネージャーとして共にリングに上がるようになる。インターバルにタラップを駆け上がって、スポンジに含ませた水をタピアの頭に掛ける係も担当した。

46勝(25KO)無敗2引き分けで、WBOスーパーフライ級、IBFスーパーフライ級、WBAバンタム級と3階級を制したタピアは、WBAバンタム級2位の挑戦者、ポーリー・アヤラとの防衛戦を迎える。アヤラ戦を控えたトレーニングキャンプに入る頃、タピアは言った。

「32歳になったな。母が亡くなった歳だ。まさか、自分がここまで生きるなんて思いもしなかったよ」

アヤラ戦の18日前、タピアはキャンプ地で一本の電話を受けた。本来はテレサが受話器を取るのだが、ちょうど買い物に出かけ15分ほど留守にしていた。タピアは、調査を依頼していた弁護士から、母を殺害した男が酒によってよろめき、車に撥ねられて死んでいたことを聞かされる。既に死後、16年が経過していた。

電話を切った後、タピアはジムの隅に座り込み、立てなくなった。以降、試合当日まで食事も喉を通らず、眠れない日々が続く。トレーニングにも向かえなくなった。

テレサは振り返る。

「私も含めて、トレーナーもスパーリングパートナーも、誰もがジョニーはリングに立てる状態にないと感じた。でも、SHOWTIMEでの放映も決まっていたし、延期は不可能だった」

確かにアヤラ戦でのタピアは、2度、足を滑らせている。卓越したボディバランスを持つ彼にしては珍しかった。

そんな精神状態で、あれほどの闘いができたのか——。今、私は改めてジョニー・タピアの力量に感服する。

【後編】へ続く

自宅内に創られたジムでトレーニングする次男のジョニー・タピア3世(16歳)
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現在21歳の長男は、アマチュアで3戦目のリングを目指し練習中
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  • 取材・文林壮一写真AFLO(一枚目)林壮一

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