薬物を断ち切れず…ある天才ボクサーの家族が明かした悔悟 | FRIDAYデジタル

薬物を断ち切れず…ある天才ボクサーの家族が明かした悔悟

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タピアの遺した家に飾られている写真

きわどい判定

1999年6月26日、プロデビュー以来49戦目にして初黒星を喫したジョニー・タピアはWBAバンタム級タイトルを失った。

ジャッジ2名が113-116、残る1名が113-115と採点しての敗北だった。新王者となったポーリー・アヤラの述懐。

「第3ラウンドが終了した折、ジョニーのトレーナーであるフレディ・ローチは、『落ち着きを取り戻したな。フットワークを使って捌け』という指示を出したらしい。ジョニーは足を使えばアドバンテージを得た筈なのに、僕に打ち勝つ策を選んだ。打ち合いは、こちらの得意とするところ。ハードな試合だったけれど、何度もいいショットを浴びせることができた」

テレサも振り返った。

(前編<45歳でこの世を去った「ある天才ボクサー」の悲壮死の真相>はこちらから)

「アリーナは、これ以上ないというほど盛り上がっていたわね。妻として、また、プロボクサーのマネジャーとして発言するけれど、ドローでもおかしくなかった気がします。あるいは1-2でジョニーの負けという見方もあり得たんじゃないかな。彼の母親を殺害した犯人が死亡していた件を知らないままだったら、私はジョニーが勝っていたように思うわ」

テレサは続けた。

「ジョニーは計量を終えると、試合前に必ずSNICKERSを食べた。『母からパワーをもらうんだ』って言ってね。ポーリー戦の時もそうだった。リングに上がれる状態じゃなかったのに、魂の籠った闘いを見せたわよね。それが彼なの。

けれど、ポーリー戦後、『もう生きていたくない』『母よりも長生きしたくないんだ』って繰り返すようになった。そして、2カ月半、私たちの前から消えたの。また、闇の世界の住民たちとドラッグ漬けの生活をしていたのよ。

自宅に戻って来たと思ったら、自殺未遂をした。1度目はラスベガスの自宅で銃を手にした。2度目はアルバカーキの家で、ステーキナイフで自分を刺そうとした。寸前のところで私が気付いた。彼が自らの生命を断とうとしたことなんて、数え切れないわ……」

涙を流しながらタピアについて語る夫人のテレサさん

そんなタピアに寄り添うテレサも、闘いを強いられた。

「ジョニーは重度のPTSDに苦しんでいた。母親の死を乗り越えたい。辛い過去を消し去りたい。でも、どうしてもできない!って嘆いていた。私は、自分が夫を支えなければ、この人は死んでしまうって、いつも感じたものよ」

心理学者に診てもらい、心療内科にも通ったが、効果は無かった。

「ポーリー戦から、5カ月後くらいのことだったかしら。急に顔つきが変わったの。『俺は、闘うよ。まずはリマッチで、ポーリーに借りを返す』って言った。意欲的にトレーニングにも向かうようになった。

ジョニーは敬虔なクリスチャンだった。水曜、土曜、日曜と週に3度も教会に通っていたの。バイブルを支えとして、もう一度リングに上がることを決めた。私も全力でサポートしなきゃって思ったわ」

試合で身に着けたトランクスの数々

2000年1月8日、タピアは再起戦でWBOバンタム級タイトルを獲得。自身にとって4本目となる世界のベルトを腰に巻いた。同タイトルの初防衛戦も問題なくクリアし、2000年10月7日、ポーリー・アヤラと再び拳を交える。両者はバンタムから2階級上げ、フェザー級で対峙した。

第一戦の反省を生かしたタピアは、フットワークを駆使し、対サウスポーの鉄則通り、右ストレートを何度もクリーンヒットさせる。試合をコントロールしたかに見えたが、またしても0-3(112-116、113-115、113-115)の判定負けでタピアは敗者となる。

「試合を放映したSHOWTIMEのアナウンサーと解説者が異を唱えたように、あのファイトはジョニーの勝ちよ。『あなたが勝ったことは、目にした人全員が知っているわよ』って告げた。私自身、ボクシングで、あれほど不可解な判定は見たことが無いもの」

が、タピアもアヤラもバンタム級では光ったが、フェザー級としては小さかった。それでもタピアは2002年4月にIBFフェザー級タイトルを奪取し、5度の世界タイトル獲得と3階級制覇を達成する。

タピアが獲ったベルトの数々。改めてその偉大さがわかる

最後のビッグマッチ

同年11月2日、そんなタピアにメキシコの人気王者、マルコ・アントニオ・バレラとのビッグマッチが用意される。

「ジョニーはバレラを心から尊敬していた。大切な友人でもあった。ビジネスだと割り切ったけれど、実は闘いたくなかったの。彼にとって、キャリアで最も辛い試合だった。

試合前、ジョニーはバレラに対して『素敵な家族がいて、教養もあるお前が、なぜリングで闘おうと思うんだ?』って発言したけれど、本心だったでしょうね」

バレラ戦のタピアは精彩を欠いた。フェザー級では細く、小さく、35歳となっていた彼は衰えを見せる。

タピアが9歳からボクシングのトレーニングに通っていた地域の施設

バレラも「ジョニーは自分にとって本当の家族だ」と語りながら、「パンチが無いのに驚いた」と想起する。タピアにとって、このファイトが最後の大舞台となった。自身が下り坂に来ていることを悟ったタピアは、更に薬物に溺れていく。コカイン使用が多かったが、ヘロインにまで手を出した。

「病院はもちろん、カウンセリングを受けさせたり、リハビリセンターに連れて行ったりと、私もできる限りのことをしたけれど、どうしようもなかった……。ジョニーがドラッグをやらなかった時期って、ボクサーライセンスを剥奪され、私とワンルームの部屋で過ごしていた7カ月だけよ」

コカインの過剰摂取で昏睡状態に陥って入院したり、警察に踏み込まれて逮捕され、18カ月間収監されたりと、タピアはダークな部分ばかりがクローズアップされていく。

「今、思い起こせば、バレラ戦後のジョニーは死んだような状態だったわ…」

2012年5月27日は、長男であるジョニー・タピア・ジュニアの12歳の誕生日の翌日だった。前日、愛息を家族で祝い、この日はテレサの妹も交えて映画鑑賞に行く予定を立てていた。だが、直前になってタピアは「疲れているので、俺は止めておく。家で寝ていたい」と言い始める。テレサ、2人の息子、彼女の妹という顔ぶれで映画館に向かったが、なぜかテレサは胸騒ぎが止まらなかった。

 

「『疲れている』とか『眠る』と言っても、自分が家にいて私たちが外出すると、ジョニーは5分おきに電話してくる人だった。でも、あの日に限ってそれが無かった。子供たちを妹に任せ、映画館を出て自宅に戻った。嫌な感じがしたのよ。

2階の寝室に駆け上がる途中で、床に倒れているジョニーの足が目に飛び込んできた。普段、彼は室内でも必ずテニスシューズを履いていたの。『もし賊が入って来た際、家族を守れるように』って言ってね。でも、靴下に黒いバスケットショーツという格好だった」

タピアは意識を失っていた。夫を抱え、テレサが頬にキスすると、まだ体は温かかった。

「『起きて、ジョニー!』『起きるのよ、ジョニー!!』って叫んだわ。直ぐに救急車を呼んだけど、私も気が動転していて、住所を正確に伝えられなかった。家の外に出て数分間、救急車の到着を待った。物凄く長い時間に感じた。『待たせちゃってごめんなさい、ジョニー!』って、今も慙愧に堪えないわ。

ジョニーがこんな状態になったことは、過去に何度もあった。でも、その度に彼は意識を取り戻したから、『今回も戻ってくるわよね』『また笑顔を見せてくれるわよね』って信じていたんだけど……」

テレサの目から涙が零れた。死後9年が過ぎたが、彼女が今でも亡き夫をどれだけ愛しているかが伝わってくる。

ジョニー・タピアが目を覚ますことはなかった。享年45。息子の12歳の誕生日の翌日であり、母の37回目の命日の1日前であった。後にタピアの死因は、薬物過剰摂取であることが明らかになる。

「私ね、薬物を断ち切れないジョニーに、『私や子供たちの存在は、あなたの人生に幸せをもたらさないの? 私たちじゃ不十分なの?』って何度も訊ねた。彼はその質問には答えなかったけれど、やっぱり足りなかったのかな……。私たちを残して、彼だけ遠いところに行ってしまった」

絞り出すようにそこまで語ると、テレサは号泣した。私の彼女へのインタビューは、タピアが現役時代に身に纏ったトランクスやガウン、使用したシューズ、グローブ、獲得したベルトなどが飾られた部屋で行われた。

残された息子らが住む家にはリングが設けられている

「このベッドも、私たちが使っていたものよ」

タピアが亡くなった家は手放したものの、2人の寝室は当時のまま再現していると、テレサは言った。彼女は亡き夫の息遣いを消さないように、思い出と共に生きていた。

タピアは立派な家を残してこの世を去った

その部屋の壁には、タピアが現役時代に愛用した数々のトランクスが掛けられていた。右腿の部分に「MAMA 1942-1975」、あるいは母の名である「Virginia」という刺繍が入っている。1999年の年間最優秀試合となったポーリー・アヤラ戦で使用したトランクスも、翌年の再戦で履いた一枚にも、刺繍が入れられていたことを、私は思い出した。

インタビュー後、私はテレサ、そしてジョニー・タピア・ジュニアと共に、タピアの墓に向かった。リングの形をした墓標に、元チャンピオンは眠っていた。私は2本のSNICKERSを供えた。献花よりも、適切なように思えたからだ。

タピア家から墓までは、車で25分の距離だった。ハンドルを握る21歳のジュニアに、私は問い掛けた。

―――お父さんとの思い出で、あなたの胸に最も美しく刻まれているものは?

「毎日のように、父のトレーニングに連れて行ってもらったことですね。僕は幼かったので、どんな技術だったかとか、詳細は覚えていません。でも、父が優しく接してくれたことを記憶しています」

―――あなたもボクシングをやっているんですよね?

「6歳から、父の教えを受けました。8歳で最初の試合を経験しています。父にも色々習ったのですが、具体的なアドバイスは覚えていないんですよ。ただ、父のDNAが流れていることは間違いないので、納得のいくところまでやりたいですね」

―――あなたが父の人生から、学んだことって何でしょうか?

「どんな状況に置かれても、諦めてはいけない。不可能なことなんて無いということでしょうね。父が僕に語った『家族を大事にしろ。弱い者は助けてやれ。人生は短い。日々、何人もが亡くなっていく。とにかく、無駄な時間を過ごすなよ』という言葉は今でも耳に残っています。一秒一秒、父を感じながら生きています」

リングを模したタピアの墓

ジョニー・タピアは苦しみと共に45年の生涯を送った。その哀しみの重さは、本人にしか分からない。しかし、これだけは言える。父として、愛する息子にかけがえのない物を残した、と。

翌日、私はジュニアのトレーニング風景を見学した。全てのメニューを終えた後、彼は父が得意だったバック転を披露して、ニッコリと笑った。

トレーニングに勤しむタピアの長男

「あなたの息子、とてもいい青年に育ちましたね」

ジムの壁に貼られたジョニー・タピアの写真に向かって、私は声を掛けた。

ボクサーの形をしたタピアの墓。二本のスニッカーズを供えた
  • 取材・文林壮一

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