TikTokで人気再燃!「あのねのね」原田伸郎が語る壮絶芸歴
時代の先を行った「ネコニャンニャンニャン」
TikTokであのねのねの「ネコニャンニャンニャン」が若者たちの間でバズるという”珍現象“が話題になった。さらにその後、あのねのねの原田伸郎が「ご本人ですよ」としてTikTokに懐かしの「ネコニャンニャンニャン」を投稿。現在、日々、様々な曲を精力的にあげ続けている。
原田は、きっかけについてこう語る。
「ネコニャンニャンがブレイクしてるよと言われたとき、『そんなアホなことが?』とびっくりしました。40年以上前、1979年のリリースですから。
今年は2022年2月22日がスーパー猫の日だとかで、誰かが遊び始めてくれて広がっていたのかなと思っています。
あんな昔の曲でも皆さんの琴線に触れるものがあったんやなあと嬉しいですね」(あのねのねの原田伸郎 以下同)
現在70歳の原田がTikTokを始めたのは、「皆さんが遊んでくれている動画を拝見するため」だったというが、今は「魚屋のオッサンの唄」「ヌルヌルの唄」など、短い曲を1日1曲投稿している。
「TikTokで30秒40秒の短いセンテンスでひとつ笑いを作るというのは、僕らが昔からやってきたことと同じだから、相性が良いのかもしれません」
かなり先を行くセンスだったわけだ。
それにしても、本家を全く知らずTikTokにネコニャンニャンニャン動画をあげて遊ぶ若い世代に「あのねのね」を説明するには、何と言おうか。
「あのねのね」って!?
清水国明と原田伸郎を中心に結成され、メジャーデビューは1973年、「赤とんぼの唄」が36万枚のヒットとなった。フォークソングやコミックソングを歌った歌手で、司会者で、「いたぁーいなにすんの?」など、一発ギャグ(?)も多数生み出した。
フォークデュオならゆずかコブクロか、お笑いもできる歌手ならSMAPか、はたまたドリフか。司会もできるコンビとなると、とんねるずか。いや、どれも違う、形容しがたい不思議な存在である。
「『雪が降っています』とか、河島英五に作ってもらった『青春旅情』とか、真面目な曲もたくさんあるんですよ。本当は真面目な曲をやりたかったので、赤とんぼでデビューして大ヒットしたとき、『つかみはOK 、これから自分たちのやりたい真面目な歌を歌える』と思いました。でも、周りの人たちは『真面目な歌はいいから面白い曲をやって』と言うんですよね(笑)。たくさんの人に聴いてもらうのが一番良いわけですが」
「あのねのね」の相方・清水国明と鶴瓶との出会い
相方・清水国明の出会いを語るとき、欠かせないのが、笑福亭鶴瓶である。
「僕が京都産業大学の落語研究会で鶴瓶と出会ったんですね。それで、鶴瓶が住み込みで旅館のアルバイトをしていて、『俺辞めるから原田やらないか』と言って、旅館に行ったら、そこにいたのが1年先輩の清水国明さんでした。でも、僕、その旅館をクビになってるんです。隣の旅館がアルバイト代を200円値上げしたので、値上げ交渉をしたら、却下されて、ストライキを……となって、それが僕がけしかけたということになって」
だが、それが「あのねのね」の原点となる。
「アルバイトがなくなって困っていたところ、清水さんが京都の河原町のビルの屋上で歌を歌うアルバイトを 探してきて『二人でコンビを組んで歌おう』と言うんです。
旅館の玄関で修学旅行生相手に『みんなでいっしょに歌おう』と言って、即興で歌を作って歌ったり、落語の小噺をやったりしていました。思えばそこで、今の仕事に結びつくようなことをしていたんですよね」
さらに、「たまたまレコードを出すことになり、たまたまヒットした」と笑う。
「本当に知らない間にこの世界に入ってしまった。こんなことはいつまでも続かないから、大学は卒業しないとダメだと思って、『オールナイトニッポン』など、全ての仕事を休ませてもらって、一年間休業したんです。
でも、大学を卒業し、1年の休業を経て復帰したら、芸能界がだいぶ変わっていて、『オールナイトニッポン』にも知らない人がたくさん入っていて。笑福亭鶴光さんなんて『あのねのねがいなくなったおかげでオールナイトニッポンに入れた』と言っているくらい(笑)」
しかし、復帰後すぐに「ネコニャンニャンニャン」が大ヒット。
『ものまね王座決定戦』初期司会
一方、『ヤンヤン歌うスタジオ』で1977年からの9年間、『ものまね王座決定戦』では1979年春から1986年秋までと、長期にわたって務めた司会業の印象も強い。
「いつまでも自分達だけで歌っているのも限界があるだろうからアイドルの受け皿になって、アイドルと一緒にコントしたり、司会したりすることで、自分たちの器にいろんな人に入ってもらおうと思ったんです」
しかし、順調すぎる芸能生活は、後の苦悩にもつながってくる。
「普通だったら下積み時代を経てだんだん売れていくのに、僕らはいきなりレコード発売と同時にバーンと行きましたから。ああ簡単なんやなと、僕らを見て芸能界を舐めた人もいたでしょうし、僕ら自身が舐めていたのかもわかりません。
鶴瓶は、今はあんなに大活躍中ですが、あのねのねがデビューした頃はまだ修業中で、清水さんなんかは一年先輩でしたから、まだ全国的に知名度がなかった鶴瓶を『ローカル、ローカル』とからかっていたくらいです。
でも、修行時代の苦労がその人の力になっていくんだなあと後でわかりました。苦労は若いうちにしておかないとダメだと痛切に感じましたね」
ゴルフ番組、書道家…関西を中心に活動して30年
次第に個人の仕事が中心になり、拠点を東京から大阪に移し、原田伸郎事務所を作ったのが、1990年。そこから約30年、関西のラジオ番組やテレビ番組などを中心に活動し、地道に足場を固めてきた。
「一人になってみてわかったことは、一人のやり方も面白いなということ。もともと落語家に憧れて、落研に入って、コマーシャルとかのナレーションとかもしていたけど、清水さんを頼っていたところもあったと思います。でも、別に清水さんなしでも1人でもできることは結構あるんやなと気付きました」
1988年にスタートしたゴルフ番組は30年超の長寿番組になった。「いつのまにか肩書きがプロゴルファーって情報が回っていますが、プロゴルファーではないですよ」と笑う一方、「書道家」としての顔を持つ。
「50歳過ぎた頃に過労で顔面麻痺になって、1カ月ほど仕事を一切休ませてもらったら、毎日が暇で暇でしょうがない。
せっかくこんなに時間があるのだから、今のうちにできることはないかなと思って、子どもの頃からやっていた書道を50歳で再開したんですよ。でも、先生に教えてもらうのも嫌だから、自分で好きなように好きな字を書いてみようと。それがみんな面白いと言ってくれて、全国のデパートなどで個展をやらせてもらっています」
相方・清水国明との現在の関係性は?
「清水さんには、ゴルフの番組のゲストに来てもらって、あのねのねの漫才みたいなやりとりをしながらゴルフする時は楽しいですね。
実は今まで一回もけんかしたことがないんです。先輩後輩の良い距離感を大事にしてきた事がよかったのかなと。
清水さんは面倒見の良い人だから、アルバイトを探してきてくれ、レコードを出す段取をしてくれ、僕を芸能界の入り口につれて来てくれました。リスペクトしています。ただ、いろんな事業をされているから、大丈夫かなあと遠くから心配してることはありますが(笑)」
今振り返ってみて、あのねのねとは何だったのか。
「なんでしょうね。プロ意識がない、いつまでも大学生のままの感覚が良かったんでしょうか。清水さんと一緒になるときは、今も学生のノリに戻りますから」
さらに、こんな野望を語る。
「人生は70歳からと思えたのは、ネコニャンニャンニャンでバズったときからですね。こんなに歳がいっててもワクワクすることをプレゼントしてもらえるんやと思って。
70歳から始められることもいっぱいあると思うんですよ。ジムに通ってムキムキになるのも良いし。来年はデビュー50周年。いろんな曲を作りたい意欲が湧いてきています。僕は50周年ライブをやりたいんですけど、清水さんはあまり乗り気じゃないんじゃないかなあ。実業家の方で忙しいだろうし。無理ならゲストとして来てもらおうかな(笑)」
- 取材・文:田幸和歌子
ライター
1973年生まれ。出版社、広告制作会社勤務を経てフリーランスのライターに。週刊誌・月刊誌等で俳優などのインタビューを手掛けるほか、ドラマに関するコラムを様々な媒体で執筆中。主な著書に、『大切なことはみんな朝ドラが教えてくれた』(太田出版)など。