心臓病でJリーグを断念した元選手が見つけた「新たな生きがい」 | FRIDAYデジタル

心臓病でJリーグを断念した元選手が見つけた「新たな生きがい」

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昨年6月、天皇杯2回戦・FC東京戦でゴールを奪った白井海斗さん(左、撮影:飯嶋玲子)

プロサッカー選手。サッカーを志す多くの子供たちが抱く夢だ。そして多くが挫折を経験する夢でもある。ただしその理由が病気にあったらどうだろうか。現実を受け入れることから始めないといけないかもしれない。

日本に300人しかいない難病

白井海斗さん。この春に順天堂大学を卒業し、おもに体育会系学生の就職支援を行う「株式会社 Maenomery(マエノメリ)」に就職した。1970年代後半から高校サッカー界をリードしてきた静岡の名門・清水桜が丘高校(旧・清水市立商業)在籍中から名を馳せ、順大4年時には天皇杯でFC東京やザスパクサツ群馬からゴールを奪った。サッカーファンであれば一度は名前を耳にしたことがあるほどで、プロからも声がかかる存在だった。

白井さんが「もしかしたらプロになれないかもしれない」と認識する出来事があったのは、中学3年生の時だった。持病を持って生まれてきたことは、小学生のころには自認していたが、清水エスパルスのジュニアユースからユースに昇格が内定した時に行ったメディカルチェックで、日本サッカー協会の規定に引っ掛かることが判明した。

問題となったのは「エプスタイン病」だった。右心房と右心室の間にある弁の発達不全が逆流を引き起こす先天性の心臓病で、指定難病に認定されている。『難病情報センター』のホームページによると、患者数は日本全国で約300人にのぼる。

当時は決して楽観視していたわけではないが、「ユースに上がれなかったので終わったとかはなくて、高校サッカーへの憧れもあったし、逆に高校サッカーができるなら」と、すぐに高体連でサッカーを続けることに頭を切り替えることができたという。

しかしこの病は最後まで、白井さんの夢に影響を与えることになる。

名門・清水商高の後継校である清水桜が丘高で1年から公式戦に出場し、上級生になると伝統の背番号8を背負いプレー。プレースタイルからOBの元日本代表MF藤田俊哉さんと重ねて期待を寄せる声も少なくなかった。

キャプテンとして過ごした高校3年生の時は、高校選手権の静岡県予選でMVPに輝く活躍。校名変更後初の全国高校選手権出場へと導いた。本大会では直前に負った左ひじの脱臼の影響で思うようなプレーが出来ず、さらにPK戦で失敗して初戦敗退という屈辱を味わったが、試合後に流した涙もまたドラマ性を持たせた。

関東の強豪である順天堂大に進学してからも1年生の時から、名古新太郎(現鹿島)や旗手怜央(現セルティック)といった錚々たるメンバーらがいる中で、試合出場を重ねた。進路を決める最終学年になる直前に行われたデンソーカップチャレンジでは、関東選抜Aの一員として大活躍。集結したスカウトにも好印象を与え、プロサッカー選手への階段を着実に上っていた。

非情通告があったのはそんな時期だった。

「順大で診てもらっていた医師は、サッカーの代表遠征にも帯同するような方でした。なので僕の心臓の情報を、サッカー協会の審査にかけてほしいですと2月末くらいにお願いしました。その結果が出たのが3月末くらい。そこでJFL以上ではメディカルの規定があるからサッカーはできないよ、と改めて説明されました」

中学3年生の時にサッカーの進路に影響が出ると診断を受けてからも、年1回の定期診断を欠かすことはなかった。手術をすれば治るのか。医師に確認したことは一度ではない。ただ答えは決まって根本的には治らない、むしろリスクがあるということだった。いずれは如何を問わず手術が必要になると言われた記憶もある。

「薄々感じてはいましたが、いざ大学4年で事実を言われた時はめちゃくちゃ落ち込んでしまって。ちょうど2部練習の間だったのですが、午後練習は何も集中できなかった。3日間くらい集中できなくて、私生活も周りに言われないとできないくらいでした」

これまで自覚症状が一度も出ていないことが、より理解を難しくした。

全国高校サッカー選手権の高川学園戦で相手を抜き去る白井さん(左、写真:アフロ)
高校3年時に初めて全国高校選手権に出場。PK戦で失敗してしまい1回戦敗退の悔し涙を流した(写真:アフロ)

白井さんによると、サッカーを続けられるかどうかは国によるようだ。東南アジアなど比較的規定の緩い国に行けばサッカーを続けることができたかもしれないが、何かあってからでは遅い。いろいろな人に相談したが、その中にはパリ五輪の日本代表・大岩剛監督やU-19日本代表の川口能活GKコーチ、いまだに札幌で現役を続ける元日本代表MF小野伸二ら数多くの清商OBを育てた大滝雅良氏もいた。

名将からは「サッカーを続けたらどうだ」と具体的なチーム名まであげて説得されたが、自分で決めた決断は揺るがなかった。むしろ、早い段階で現実を突きつけてもらったことが、次第に白井さんを冷静にさせていった。

複数のJクラブから問い合わせもあった

宣告から1か月後には、就職活動を開始した。5月中旬には内定をもらうこともできた。

「サッカーを頑張ろう」。気持ちを上手く切り替えた白井さんは、天皇杯でFC東京やザスパクサツ群馬を相手に連続ゴールを決めるなど存在感を見せつけ、複数のJクラブから問い合わせが届くまでになった。

「シーズンが始まる前に決めたのが、4年生で結果を出して、最終的に『何で白井海斗はプロに行っていないの?』と言われるようになろうという目標でした。結果的に大満足のシーズンだったかというとそうではなかったかもしれないけど、個人的には4年間で一番貢献できたという達成感はありました」

また10月に転機が訪れた。知り合いを通じ、株式会社 Maenomery(マエノメリ)で働く、大学までサッカーを続けた経験のある小宮嶺さん(静岡学園高→拓殖大)から声をかけてもらった。体育会の学生の就職サポートをする会社で、白井さん自身も就職活動でお世話になっていた。サッカーへの未練ではないが、内定をもらっていた会社はサッカーとは全く関係のない会社。「このままでいいのかな」。そんな悩みが、小宮さんと話をする中で、一気に晴れていく感覚があったという。

「そこで目的と手段というお話をしてもらいました。プロサッカー選手になってお金を稼ぐのも一つの手段だし、社会人の仕事も一つの手段。大学サッカーの経験者も多く、みんなサッカーではプロになれなかったけど、社会人としてプロ意識を持って働いていてカッコいいな、自分もああなりたいなと思ったので、入社させてもらうことにしました」

「サッカーに関われること」の幸せ

サッカーの猛練習に明け暮れた生活からガラリと変わった。今では「社内にボールが転がっているので、それを蹴るくらい」。会社の人たちとフットサル大会に出場したが、「経歴だけが先行しているチームなので、すぐ疲れちゃう。交代選手がいないとしんどいです」と笑う。

ただ「サッカーに関われること」に何よりの幸せを感じている。マエノメリでは体育会の学生はもちろん、Jリーグを引退した元サッカー選手の就職支援も行う。白井さんが希望する「サッカーへの恩返し」が、この仕事にはあると考えているからだ。

「自分も就活で悩んだ。今度は自分と同じような立場だった人を助けて、満足してもらえるようなことがしたい。これまで戦ってきた仲間でプロに行った人たちはたくさんいるけど、選手の寿命は長くない。

自分の場合は病気でサッカーは続けられませんでしたが、そもそもマイナスだと思っていません。人生において何もマイナスじゃないと思うし、むしろ多くの人が経験できることではない。逆にアドバンテージとして使っていければと思いますし、セカンドキャリアの部分は誰にとってもいつか決断する時がくるので、自分の経験が助けになれればいいなと思います」

社会人としての新生活がはじまって2か月。夢は見つかったのだろうか。

「正直、将来の夢はプロサッカー選手でやってきたので、今の夢という夢は見つかっていません。あえて言うならカッコいい大人になりたい。今の職場は男性職員も女性職員もキラキラしている。他人のためにやるし、それがめちゃくちゃカッコいい。自分もカッコいい社会人になりたいですね」

  • 取材・文・写真児玉幸洋

    1983年生まれ。三重県志摩市出身。スポーツ新聞社勤務を経て、2011年より講談社のサッカーサイト『ゲキサカ』の編集者として活動中

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