「衝撃裁判」犯罪心理学のプロはなぜ刑務官の妻を殺したのか① | FRIDAYデジタル

「衝撃裁判」犯罪心理学のプロはなぜ刑務官の妻を殺したのか①

第一回 凄絶な刺殺現場と戦慄の動機「殺す、殺されるという争いをしているという意識を持ちました」

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犯行現場。胸に包丁が突き刺さったまま倒れている妻の隣で、浅野正被告は正座していた

「夜ご飯、何が食べたい?」

「唐揚げがいい」

「そう。じゃあ買ってくるね」

それが彼女と母親の最後の会話となった。

2020年3月16日、18時2分。さいたま市高砂3丁目を走る国道463号線、国際興業バスの停留所「埼玉県庁前」付近で、彼女の母親である浅野法代は殺害された。犯行に及んだのは実の父親である浅野正。正は逮捕時、文教大学人間科学部の准教授であった。

この日の18時少し前、正はJR浦和駅前からバスに乗り、殺害現場にやって来る。法代が勤務するさいたま少年鑑別所の終業時刻は17時30分。「妻は3人の子供と暮らす法務省職員宿舎に一旦戻ってから夕食の買い出しに行く」「このバス停を通る」と正は予測。法代は次女と冒頭のやり取りをした後、自転車を漕いで浦和駅東口駅前のパルコに向かった。地下1階にあるヤオコーで、唐揚げを含めた夕食の総菜を買うためだった。バス停前で待ち伏せていた正は、法代の姿を認めると自転車の後部に手をかけて妻を倒した。そして背負っていたリュックサックの中から10日前に購入した刃渡り17センチの包丁を取り出し、左前胸部を複数回刺した。

警察や救急車が駆け付けた折、正は傷付いた妻の隣で正座していたという。法代は胸に包丁が突き刺さった状態でさいたま赤十字病院に搬送される。彼女の胸の傷は6.5センチ。刃は心臓にかかる大動脈を通り、食道に達していた。そして失血によって死を迎えた。享年53。

2019年に高校に入学した次女は、2022年5月17日にさいたま地裁A棟201法廷で行われた審議に”声”で出廷した。実の母親が父親の手で殺められるという経験をしてから、2年2ヵ月。18歳となった彼女が、検察側の質問にも、弁護側の質問にも気丈に応じる様が痛々しかった。

休日は、軽井沢、グアム、お台場、高尾山

殺人および、銃砲刀剣類所持取締法違反で起訴され、判決を待つ身の正は1968年6月25日に岐阜県で生を享けた。父親は郵便局員、母親は専業主婦。4歳上の兄に継ぐ次男である。母親によれば、正は手の掛からない子だった。小学3年くらいから勉強に目覚め、学業も運動も優秀。中学時代はバレーボールに打ち込みもしたが、県立岐阜高校進学後は、ひたすら勉学に励み、一橋大学社会学部に現役で合格する。母親は法廷で息子を「頑張り屋さん」と評した。

一橋大学1年時から、将来は大学の教壇に立ちたいと考えるようになった正は、保健センターに勤務する教諭のゼミに入って、本格的に心理学を学ぶ。ただ、麻雀に熱中するなど大学卒業までに6年を要した。博士課程のある院への受験には失敗したものの、横浜国立大学の修士に進学。発達障害の子供やその親と接しながら、国家公務員一種試験をパスし、1995年に法務省に入省。官僚として、少年鑑別所や刑務所で犯罪者と関わるようになった。「犯罪者がどう生きてきて、犯罪に至ったか。いかに社会復帰するか」を受刑者と共に考えながら業務をこなしていた。

同期である法代とは2年目の研修を一緒に受けたことがきっかけとなって、愛を育み、1998年に結婚する。その年に長女が生まれた。浅野夫婦は自身が勤務する少年鑑別所や少年院の官舎で別々に暮らしていたが、育児休暇をとって練馬官舎で共に生活するようになる。休日は、軽井沢、グアム、お台場、高尾山などに3名で出かける家族であった。正は、この時期について「心理学を生かして、楽しく仕事していました」と振り返っている。

2003年、「視野を広げたい、もっと勉強したい。大学の先生になりたい」と考えた正はアメリカ・南イリノイ大学の大学院に留学する。異国で専門的に心理学を学習する日々を「本当に楽しかったです。人生で一番と言っていいくらい楽しい時期でした。好きな道に進ませてくれた妻に、感謝の気持ちを書いた手紙を出しました」と回想する。

この留学中に、日本で次女が誕生した。法代は里帰り出産している。帰国後、正は千葉刑務所に勤めながら、大学での働き口を探し始める。時に書類選考で落ち、時に面接で落ちるなか、2007年に文教大学専任講師となる。その際に提出した書類は、法代が添削してくれた。埼玉県越谷市に建つ文教大学では心理検査の授業などを受け持ち、犯罪者の心理を教えた。当時、妻が東京都狛江市の官舎にいたので、そこで暮らしている。狛江から文教大のある越谷は、片道90分ほど掛かる。夫婦は、2人の娘を狛江の法務省官舎で育てるか、正がマンションを買って、越谷で成長させるかを話し合うようになった。2012年には三女も誕生。いよいよ、官舎は手狭となる。

文教大学のHPに掲載されていた浅野正被告の自己紹介。鑑別所や刑務所での勤務経験も豊富だった

2015年、正は准教授に昇格する。「学生と付き合う時に一番大切なことは、よく話を聞き、何を考えているのか理解することです。それに気を付けていれば問題はありません」というのが、持論であった。狛江で三女を保育園へ送ることは、毎朝正が担当した。妻は起床から5分後には出勤のため家を出る。帰宅も22時過ぎになることが多く、仕事に忙殺される日々だった。そのうえ、週に2回は宿直もあり、子供を遊びにつれていく余裕などない勤務形態であった。正は越谷にマンションを購入しようと考えたが、妻は一戸建てがいいと譲らず、結局住居は官舎のままであった。

「犯罪学のプロ」が転落していく

2019年4月、法代がさいたま少年鑑別所に転勤となり、3LDKの浦和の官舎に引っ越すこととなる。その折、正は長女に「お父さんの荷物が多すぎる」と文句を言われ、口論になった。正曰く、「それ以来、妻が僕に話しかけることは一切なくなり、こちらが声を掛けても『はい』『いいえ』くらいしか返ってこなくなりました。翌月、僕はお詫びの手紙を妻に書きましたが、まったく反応無しで、なぜ怒っているのか分からない状態でした」。

その後も複数回、正は妻に謝罪の手紙を書いた。しかし、相変わらず口をきいてもらえず、同年8月から離婚を考えるようになる。弁護士にも相談した。正は法廷で「謝る手紙を出し切りました」と話した。

同年から高校生となった次女の進学先は、電車で約80分掛かった。そこで、正と次女は通学に便利な神奈川県川崎市多摩区「登戸」駅近くのマンションに引っ越し、9月から新生活を始めた。正は娘の登校時間の前に家を出て、文教大に向かう。次女はアルバイトに力を注ぎ、帰宅が遅く、ほとんど会話の無い日々が続く。登戸での生活を「次女に将来のことを考えている様子が見られず、落胆しました」と正は想起する。

越谷までの、片道90分の通勤に疲れた正は、次女とうまくやっていけのるかという不安、そして、妻が何かしらのアクションを起こしてくるのではないかという恐怖を覚える。更には、過去にもっとこうしておけば良かったという後悔が入り混ざって、鬱病を発症。10月から慈恵第3病院に通院するようになり、自殺を考えるようになっていく。

「自分を自殺に追い込もうとしている」

同時に正は、妻が自分と次女の関係を悪くさせたいがために、娘をアルバイトに没頭させているのだ、自分を困難な状況に追い込むように妻が仕向けているのだ、と感じるようになる。ある時、正は慈恵第3病院で処方された薬が一粒、自宅の絨毯の上に落ちているのを見付ける。彼は「次女が自分を自殺に追い込もうとしている。それは妻の指示だ」「私たちは、あなたが鬱であることを知っていると、誇示するための行為だ」と捉えた。また、スマートフォンを忘れて大学に行き、帰宅すると自身の机の上にそれが置かれていることがあった。「自殺」をキーワードにネット検索していた正は、自分の考えを知られたのかと不気味さを覚える。

11月に慈恵第3病院で診断を受けた正は、「死にたい気持ちが強くなっている」と伝え、クローゼット内のハンガーポールにタオルやベルトを引っかけて首を吊ることを試みる。そんな頃、次女が家じゅうの扉を開け放っていることに気を留めた彼は、妻子が「あなたは、自殺しようとしているんでしょ。知っているんだよ。死になさい。最後までやり切りなさい」なるメッセージを送っているのだと受け止め、恐怖を感じると共に、自分の死を望んでいる妻と次女に怒りを覚えた。

次女は法廷で登戸での父の様子を質問されても「自分の事で精一杯だったので、覚えていない」と答えることが多かった。ただ、2020年2月11日に登戸のマンションを出て、父と共に越谷に引っ越した日の会話は記憶していた。新居に着くや否や、正が「いつ出ていくの?」と訊ねたからだ。「『そんな風に言うのは、あんまりじゃない! 私のこと、嫌いなの?』と言ったら、頷かれちゃって、悲しくてマンションを飛び出して、浦和に行きました」と証言した。

3月4日、正は登戸のマンションのポストの中に、次女が自分に内緒で作った合鍵を見付ける。正はその時の心境を次のように説明した。

「勝手に作ったんだ。僕に嘘をついたんだと、怒りを感じました。次女が私をからかい、勝ち誇っているような気がしました。妻と次女が一緒になった一人の人を刺そうと思いました。殺す、殺されるという争いをしているという意識を持ちました」

検察官に母親の人柄を訊ねられた次女は、「仕事熱心で真面目な人です。親孝行出来なかったです」と応じ、父親については「一言では言えません。処罰に関しても、怖くて言えません」と話した。(文中敬称略。つづく)

  • 取材・文林壮一

    1969年生まれ。ジュニアライト級でボクシングのプロテストに合格するも、左肘のケガで挫折。週刊誌記者を経て、ノンフィクションライターに。1996年に渡米し、アメリカの公立高校で教壇に立つなど教育者としても活動。2014年、東京大学大学院情報学環教育部修了。著書に『マイノリティーの拳』『アメリカ下層教育現場』『アメリカ問題児再生教室』(全て光文社電子書籍)『神様のリング』『世の中への扉 進め! サムライブルー』、『ほめて伸ばすコーチング』(全て講談社)などがある。

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