「お笑いっていうのは…」懺悔の神様・ブッチー武者が忘れられない”軍団への勧誘”とたけしの言葉
’80年代伝説のお笑い番組『オレたちひょうきん族』の人気コーナーの”懺悔の神様”として知られるブッチー武者が前編【「台本ペラッペラ」「ハプニングだらけ」懺悔の神様・ブッチー武者が語る「ひょうきん族」の舞台ウラ】に続いて当時の思い出を語る。
芸人といえば、収録終わりには飲みに繰り出すようなイメージだが、一番最後に仕事を終えて帰る武者はいつも1人寂しく風呂で白塗りのメイクを落とし、1人新宿へ飲みに出るのが常だったという。だが、ある時たけしから声をかけられたことがあった。
「僕が風呂入っていたらガラガラと戸が開いて、誰が来たんだろうと思ってたら、たけしさん。『上で飲んでるから、ちょっときなよ』と言うので行ったら、たけしさんとその頃所属していた太田プロの社長がいたんです」
それは意外にも『たけし軍団』への勧誘だったという。
「『俺、これから若い連中と組んで、いろんな面白いことやりたいんだよね。君もどうかな』っていう話だったんですよ。結構真面目なスカウトだったんです。『でも僕はレオナルド熊の弟子だから、ちょっとそういうわけにいかないんですよ』『あ、なんだ君、熊さんの弟子だったんか。それはダメだわな』っていう話になったんです。
当時はまだたけし軍団ができた頃で、その時はまだグレート義太夫は入っていなかったんですよ、僕が断ったあとに入った。たけしさん、デブキャラ欲しかったんだなと思いました(笑) 。
でもね、それで帰っちゃうのも変じゃないですか。それで飲んでいるうちに、お笑いってなんでしょうねっていう話になったんです。
たけしさんは『お笑いっていうのは、簡単に言えばガンジーだな。まあ、あれだよ、無抵抗の抵抗ってやつかな』 と。たけしさん、深いこと言うなと思いましたね。『アメリカはね、あいつらが一番あちこちに兵器を売って、あちこちで戦争いっぱいやって、それで金儲けしてる連中だぜ。で、お笑いってのはさ、そういう意味で言ったらね、平和の武器がお笑いなんだよ』と。あれから僕は隠れたけしファンになった。
それから10年以上経って、僕はアフガンの兵士の前でお笑いをやりに行くんですけど、その時、髭面の兵士たちにネタを見せて、実際こう、心が通じ合ってみたら、みんないい顔してるんですよ。その時に、 たけしさんが言ってたのはこのことかなって思いましたね」
’89年に『ひょうきん族』は終了。その後も“神様”のおかげで営業には事欠かなかったという武者だが、どこか毎日が虚しかったという。“最高峰のお笑い”をもとめてアフガンに密入国してネタをやりに行ったこともあった。
その後は芸能界から離れると決めて、’97年に歌舞伎町に『女無BAR』をオープン。店は盛況で忙しい日々が続いたが、どこか気持ちは晴れなかったという。そこで劇団を立ち上げて芝居作りを始める。LGBTなど、当時としては早すぎるテーマを取り上げていた武者が、あるきっかけで出会ったテーマは「認知症と介護」だった。
「僕もお世話になった知り合いのお母さんが認知症になったんです。それがきっかけで、認知症や介護に関心を持つようになって’06年に京都で起きた介護殺人の事件を知りました。認知症のお母さんの介護で生活苦になって心中しようとした息子が、母親の殺人に問われた事件。
その裁判官の言葉がすごくよくてね。 判例だと実刑になるケースが執行猶予になって、裁判官があなたは生きなさい、お母さんの分も生きなさいって。そういう判決文が出たんです。それを知ってすごいなと思った。このことを風化させちゃいけないなと思って僕は『生きる』という芝居を作ったんです。
今度の9月で21回目の公演で、もう10年近くやってます。芝居っていうのは、はっきり言って儲かるもんじゃないし、重たい重たいネタなんで。でも絶対必要だから、やるんです」
神様の活動は今も続いている。



プロフィール:ブッチー武者(武者博和)
1952年長野県生まれ。「お笑いオンステージ」(NHK)のオーディションに合格、レオナルド熊氏に師事し、お笑いの道へ。劇団ZANGE、BMCエンタープライズ代表。舞台『生きる』は9月3日、上尾市文化センターにて
取材協力:N.Kナーツ