ガンダム40周年 最初はすべて自作!「神様」が語るガンプラ秘史 | FRIDAYデジタル

ガンダム40周年 最初はすべて自作!「神様」が語るガンプラ秘史

「ガンプラ発売前」にシャアザクを完全手作りし『プラモ狂四郎』にも登場した天才モデラー「川口名人」とは?

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「川口名人」こと川口克己氏と「月刊Hobby JAPAN」(1981年8月号)、Hobby JAPAN別冊「HOW TO BUILD GUNDAM」、「HOW TO BUILD GUNDAM2」。Hobby JAPAN誌では、「HOW TO BUILD GUNDAM」が、最初に刊行された、丸々1冊ガンプラだけの雑誌となり、川口名人も作例を寄稿している。(写真:竹内みちまろ)
「川口名人」こと川口克己氏と「月刊Hobby JAPAN」(1981年8月号)、Hobby JAPAN別冊「HOW TO BUILD GUNDAM」、「HOW TO BUILD GUNDAM2」。Hobby JAPAN誌では、「HOW TO BUILD GUNDAM」が、最初に刊行された、丸々1冊ガンプラだけの雑誌となり、川口名人も作例を寄稿している。(写真:竹内みちまろ)

「ガンプラ界の神様」、「川口名人」として知られる川口克己氏(57歳、1961年12月10日生)。テレビアニメ『機動戦士ガンダム』(1979年4月7日〜1980年1月26日)の初放送時は高校3年生だった彼は、劇中に登場するモビルスーツ(戦闘用人型巨大兵器)「シャア専用ザク」(1/100)の模型を、ガンプラ(ガンダムシリーズのプラモデル)が発売される前になんと自主製作! 模型専門雑誌「月刊ホビージャパン」に掲載されると反響を呼んだ。

大学在学中は、少年向けマンガ雑誌「コミックボンボン」(講談社)連載のガンプラマンガ『プラモ狂四郎』(やまと虹一&クラフト団)にアイデア提供をしたり、各種プラモデル企画に参加。1985年、天才モデラーは、そのまま玩具メーカーのバンダイに入社し、以後、長くガンプラを手掛け、40年が経過した今も関わっている。ガンダムに出会った高校時代からモデラーとして活躍した大学生時代、「川口名人」の青春時代を紹介したい。

【後編】ガンダム40周年 天才モデラーが社員として創ったガンプラとは? を読む

MG 1/100 フルアーマー・ガンダムVer.Ka(GUNDAM THUNDERBOLT版)  MG Ver.Ka(マスターグレード バージョンカトキ/デザイナー カトキ・ハジメ氏がプロデュースするマスターグレード ブランド)
MG 1/100 フルアーマー・ガンダムVer.Ka(GUNDAM THUNDERBOLT版)  MG Ver.Ka(マスターグレード バージョンカトキ/デザイナー カトキ・ハジメ氏がプロデュースするマスターグレード ブランド)

■高3で出会った「ガンダム」、これまでのロボットアニメとは違う!

——プラモデルを作り始めたのはいつ?

川口克己氏(以下、川口名人):プラモデルとして意識して買い始めたのは、小学校2、3年生くらいのころです。学校のそばに、駄菓子や雑貨も売っている文房具店があり、学校帰りに必ず寄っていたのですが、そこで50円や100円くらいのものを買っていました。最初のプラモデルは、(模型メーカーの)アオシマさんが出していた「のらくろ」などのTVキャラクターや、「サンダーバード」などです。戦車や飛行機、船などのスケールモデルを作り始めたのは、小学校4年生くらいから。模型専門店に行くようになったのは、ずっと後です。

【スケールモデル】
スケール (縮尺) に基づいて忠実に再現した模型のこと。プラモデルの分野では、実在のものを再現するプラモデルの呼称として用いられ、アニメに登場する架空のロボットや、オリジナルの創作物のプラモデルと区別する際に使われることもある。旧日本軍の戦艦「大和」、アメリカの宇宙船「アポロ11号」、F1ドライバー中嶋悟が乗った黄色い「ロータス」のプラモデルなどはスケールモデルと呼ばれる。

——アニメ「機動戦士ガンダム」(1979年4月放送開始)を観たときは、どう感じましたか?

川口名人:1979年4月の初回放送のときは、高校3年生でした。高校の友達に、アニメが好きで同人の集まりに顔を出すような人がいて、その人から、「ガンダムとかいうやつは、これまでのアニメと雰囲気がぜんぜん違うらしいぜ」と教えてもらい、興味を持ちました。「ガンダム」第1話の冒頭で、宇宙を飛んでいたモビルスーツ「ザク」がスペースコロニー「サイド7(セブン)」に侵入していくシーンを観たとき、“パワードスーツもの”なのかなと思いました(「パワードスーツ」とは、電動機器などが装備された軍事・作業用の強化ボディスーツ)。

ただ、「サイド7」の中に入ったザクが、「サイド7」の内壁を滑り降りて、立ち上がったときに、木の高さがザクの胴体くらいでした。そして、お腹にあるコクピットの中からパイロットが出てき。「パワードスーツではなく、やはり、巨大ロボットなのだ」と実感しました。学校の図書室で(第2次世界大戦などの)戦記物の本も読んだり、趣味でスケールモデルを作っていたので、「ガンダム」の第1話を観終わって、「ガンダム」は、「マジンガーZ」(1972年〜1974年)などのこれまでの巨大ロボットアニメとは違い、戦争をしっかりと取り上げている作品なんだ、と感じました。

【アニメ「機動戦士ガンダム」】
1979年4月7日〜1980年1月26日に放送されたテレビアニメ。内部に人工大地を持つ巨大なスペースコロニーを利用して、人類が宇宙に住み始めた時代が舞台。スペースコロニー「サイド3(スリー)」が「ジオン共和国」を名乗り、宇宙移民者たちの主権を訴え、地球連邦からの独立を宣言したことで、ジオンと地球連邦の間に戦争が始まる。ジオンは「ザク」などのモビルスーツ(巨大人型兵器)を実戦に投入し戦果をあげる。少年アムロ・レイは、モビルスーツ開発での遅れを挽回するため地球連邦が開発した新型モビルスーツ「ガンダム」のパイロットになり、「赤い彗星」と恐れられたジオンのパイロット「シャア・アズナブル 」や、歴戦の軍人「ランバ・ラル」らと戦う。初回放送当時は視聴率は上がらなかったが、再放送が繰り返され、劇場版3部作(「機動戦士ガンダム」1981年3月、「機動戦士ガンダムII 哀・戦士編」1981年7月、「機動戦士ガンダムIII めぐりあい宇宙編」1982年3月)が公開される中で、社会現象になる人気を博した。ガンプラは、1980年7月に発売。近年、静岡とお台場(東京)に展示されていた実物大(1/1に縮尺)のガンダム像は、約18メートル。1/100に縮尺したプラモデルのガンダムは、約18センチメートル。

■ガンプラ発売前に「シャア専用ザク」を完全手作り(フルスクラッチ)

——初回放送当時は、ガンプラ発売前でした。

川口名人:高校のときに通っていた模型店のスケールモデルサークルに同じ高校の仲間たちもいました。そこで何人かと「ガンダム、おもしろいよね」となり、そこから「ストリームベース」と名付けられたモデラー集団が後にできます。サークルの中に、当時フィギュアを使ったウォーゲームが人気で、それを「ガンダムでやりたい」という人がいました。「やろうよ」、「駒が必要だよね」、「じゃあ、みんなで作ろうよ」という話になりました。(模型メーカーの)タミヤさんが行っている「人形改造コンテスト」(身長5センチほどの兵士のミニチュアフィギュアを改造し、技術や発想などを競うコンテスト)というものがあるのですが、その「〜コンテスト」のノリで、ミリタリーフィギュアを改造してガンダムに登場するモビルスーツを作ったのが、僕にとっての最初の手作りガンプラです。それから、モビルスーツが立体としてかっこいいので、自分たちで作り始めました。

——それで、「シャア専用ザク」(1/100)の模型を完全に手作り(フルスクラッチ)で完成させるのですね。

川口名人:モビルスーツへの思い入れは、ガンダムよりもザクの方が強かったです。サークルの中に、模型専門誌の「月刊Hobby JAPAN」(以下、「ホビージャパン」)さんや「月刊モデルアート」さんで作品を発表していたモデラーもいいて、「ホビージャパン」さんから、「『スター・ウォーズ/帝国の逆襲』のプラモデルや造形作品をメインに紹介するSF映画特集を組む、その中で「ガンダム」も取り上げたいので、作れる人がいたらやってみない?」と声を掛けてもらいました。まだ、ガンプラ発売前だったのですが、僕は自分で図面を書いて、プラ板(改造などに使うためのプラスチックの板)とパテ(改造などに使用するペースト状の材料。チューブなどに入っており、時間が経つと乾いて固まる)を利用して、半年くらいかけて作りました。掲載されたのが確か1980年7月号なので、放送が終わって半年くらいのタイミングでしょうか。その後、「ホビージャパン」さんの誌面にガンプラがひんぱんに載るようになり、僕も12月号くらいのタイミングで、発売されたばかりのガンプラの作例を載せるようになりました。

ただ、そのころはまだ「ガンダム」はそれほど注目を浴びていませんでした。発売してからしばらくは、模型店の棚に積まれていたそうです。年が明けて、「ホビージャパン」1981年3月号の頃にブレイクしたようなので、再放送を観た子どもたちが模型店に押し寄せたのでしょう。「ホビージャパン」では、1981年に「SF映画特集」から独立した「ガンダム特集」が組まれ、評判がよかったので、さらにガンプラだけを取り上げた別冊も出ました。

——バンダイから発売された最初のガンプラを手にしたときの感想も気になります。

川口名人:大学生だったのですが、正直にいうと、やはり物足りなさを感じました。アニメに登場する兵器や人物は、実物が存在せず、絵を観た人によっても解釈が違ってきます。僕らも、仲間内で「あのシーンのときにこうだったからこうなるんじゃない」などと話しながら、「自分はもっとこういうふうな形だと思っている」というイメージをベースに、改造していました。

■伝説の漫画「プラモ狂四郎」に本人役で登場!

——1981年11月には少年向け漫画雑誌「コミックボンボン」(講談社、/以下、「ボンボン」)が創刊され、ガンプラ漫画「プラモ狂四郎」(やまと虹一&クラフト団/1982年2月号から1986年11月号まで連載)がスタートしました。

【「プラモ狂四郎」】
ガンプラ少年の“プラモ狂四郎”こと京田四郎(第1話では、小学5年生)が、自作のガンプラに乗り込んで戦うことができるプラモシミュレーションマシーンを使って、ライバルたちとバトルを繰り広げるガンプラ漫画。第1話で、四郎は、バンダイから発売された「ガンダム」(1/144)の部品を改良し、足の関節の可動域を増やすことで、同じ小学校に通うライバル・丸山健が操縦する「シャア専用ザク」(1/144、改造していないので足首の関節が動かない)に勝利した。「プラモ狂四郎」がガンプラブームを牽引したともいわれる。劇中では、海外の優秀モデラーも招待したモデラー世界一決定戦「ワールドシミュレーション大会」も開催される。川口名人も、本人役(大学生で、ストリームベースのモデラー・川口克己)として登場し、自身のモデラーとしての可能性に疑問を抱く四郎らガンプラ少年たちを励ます。

ガンダム放送開始20周年の1999年に発売された「プラモ狂四郎 3巻」(講談社コミックスボンボンデラックス版)の巻末に、川口名人は「ガンプラブームと狂四郎」というエッセイを寄稿している。(写真:竹内みちまろ)
ガンダム放送開始20周年の1999年に発売された「プラモ狂四郎 3巻」(講談社コミックスボンボンデラックス版)の巻末に、川口名人は「ガンプラブームと狂四郎」というエッセイを寄稿している。(写真:竹内みちまろ)

 

川口名人:大学に入ってから、「ボンボン」という雑誌が創刊し、そこでガンプラを扱うという話を聞きました。「プラモ狂四郎」の連載が始まるまでは、巻頭カラーページでガンプラが紹介されていたのですが、月に1回、模型を作っているメンバーが講談社さんに集まり、ガンプラの撮影をしていました。そのときに、ガンプラ漫画が始まるということで、自然と「シャア専用ザク」(1/144)は足首が動かない……など、“ガンプラあるある”的なことをみんなでしゃべっていました。僕たちは漫画の原作やストーリーなどはまったく意識せず、「漫画の中でこんなことをしたら面白いんじゃないか」ということを話していただけなのですが、そこでしゃべっていたことが、「プラモ狂四郎」の中でネタとしてたくさん表現されていました。

■ガンプラは「邪道」だ! モデラ—同士の論争勃発!

——当時は、モデラーの中には、ガンプラなどのキャラクターモデルは「邪道」だと考えていた人も多かったそうですね。

川口名人:「プラモ狂四郎」の中にも、スケールモデラーと、四郎たちガンプラモデラーの戦いが登場しますが、描かれているスケールモデラーとガンプラモデラーの対立は実際にあったことで、「ガンプラなんて子どものおもちゃなので、模型専門誌にはガンプラを載せるべきではない」という投書などもあったようです。「スケールモデルが上位にあって、その下にキャラクターモデルがある」と考える人たちにとっては、スケールモデルこそがプラモデル=模型、なんですね。

線引きはあいまいではあるのですが、松本零士先生の戦場マンガシリーズは実録的なのでOK、「宇宙戦艦ヤマト」や「スター・ウォーズ」シリーズはギリギリOK、ガンプラはダメ、という感じでした(笑)。模型は嗜好品なのですが、自分の手で作り、作るプロセスを通じて楽しむので、思い入れが強くなり、その人のアイデンティティになってしまうのですね。なので、モデラーは、自分の価値観と合わないものを排除しがちになってしまうのです。ガンダムは今年40周年で、ガンプラは来年40周年で、今でこそ、ガンプラは日本のプラモデルの歴史の中でも半分以上の歴史を持ちますが、当時は、まだまだガンプラが「邪道」だと思われていました。そんな中、“どっちが上とか、下とかではなく、みんな、どっちも好きなんだからいいじゃん”という想いが「プラモ狂四郎」の芯に流れています。

——ガンプラが発売された当初は、ガンプラが40年、愛され続けることを予想できましたか?

川口名人:40年前は、ガンダムブームが終わったら、ガンプラも終わってしまうと思っていました(笑)。実物大のガンダム像に至っては想像すらできませんでした(笑)。ただ、「ホビージャパン」をはじめとする模型専門誌さんがあって、「ボンボン」で「プラモ狂四郎」が連載され、そういう土台があって、ガンプラがここまで来たのだなと実感しています。

***

ガンダム40周年の今年、川口名人にも例年以上にメディア取材があり、多忙な日々を送っている。ガンプラの魅力を語るときの嬉しそうな表情は、「プラモ狂四郎」に登場する大学生モデラーとしての笑顔と同じだった。

ガンプラファンも、「そういえば、ガンプラは長く作ってないなぁ」という方も、ぜひ、この機会に、ガンプラを手に取ってみてはいかがだろう。

インタビュー記事「後編」では、川口名人が、バンダイ入社後に直面した、会社員としてガンプラを手掛けることの難しさ、ガンプラのマニア向けラインナップ「マスターグレード」の誕生秘話、ガンプラの世界戦略までを聞いた。

【後編】ガンダム40周年 天才モデラーが社員として創ったガンプラとは? を読む

【プロフィール】川口克己(57歳、1961年12月10日生、福岡県北九州市出身)。幼少期からプラモデルに親しみ、高校3年生のときにテレビアニメ「機動戦士ガンダム」と出会う。ガンプラ発売前に、模型専門誌「月刊Hobby JAPAN」に、手作りで完成させた「シャア専用ザク」(1/100)の模型が掲載され反響を呼ぶ。法政大学進学後は、少年向けマンガ雑誌「コミックボンボン」(講談社)連載のガンプラマンガ『プラモ狂四郎』(やまと虹一&クラフト団)へのアイデア提供や、各種プラモデル企画に参加し活躍。1985年にバンダイ入社。長くホビーに関わり、ガンプラのマニア向けラインナップ「マスターグレード」を提案する。現在は、株式会社BANDAI SPIRITSのホビー事業部・ダイレクト販売チームに所属し、ガンプラの魅力を伝えている。

「プラモ狂四郎」に登場する大学生だった自分を指さす川口名人。「プラモ狂四郎」の中で、大学生だった川口青年は、四郎らガンプラ少年たちに「プラモの改造は外見だけじゃだめなんだぜ」と“極意”を伝授している。(写真:竹内みちまろ)
「プラモ狂四郎」に登場する大学生だった自分を指さす川口名人。「プラモ狂四郎」の中で、大学生だった川口青年は、四郎らガンプラ少年たちに「プラモの改造は外見だけじゃだめなんだぜ」と“極意”を伝授している。(写真:竹内みちまろ)

機動戦士ガンダム40周年(2019年)ガンプラ40周年(2020年)「ガンプラギャラリー」

HG 1/144 シャア専用ザクII(THE ORIGIN 版)
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RG 1/144 シャア専用ズゴック   RG(リアルグレード)
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パーフェクトジオング(オリジナル/GUNPLA BUILDER 佐藤哲夫)
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  • 取材・撮影・構成竹内みちまろ

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