福岡スナックママ連続保険金殺人事件 家政婦が見ていた「裏の顔」

平成を振り返る ノンフィクションライター・小野一光「凶悪事件」の現場から 第7回

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平成に起きた多くの「凶悪事件」。ノンフィクションライター小野一光氏は事件発生当時、それぞれの現場で取材を敢行した。猟奇的な大量殺人や身内による犯行など事件の全貌が明らかになるまで何ヶ月もかかるものもあった。今回は福岡で起きたスナックママによる連続保険金殺人事件の後編。貴重な証言を元に事件の全容を振り返る。

客を恐喝した容疑で逮捕されたスナックママの髙橋裕子。その後、夫二人の殺害容疑へと捜査が広がる

2004年7月に逮捕された博多・中洲の元スナックママ・高橋裕子(逮捕時48)。元夫2人を保険金目当てで殺害した彼女が変貌したきっかけは、スナックで働くようになってからだという最初の夫の証言を、前回(第6回)記した。

幼少期には「白雪姫」と呼ばれるなど、お嬢さま育ちの裕子がスナックで働くようになったのは、2番目の夫である野田昭二さん(仮名=死亡時34)が存命中のこと。野田さんのやっていた建築設計事務所が、バブル崩壊のあおりを受けて経営難に至り、自宅を出ることを余儀なくされたことがきっかけだった。

当初、彼女がかつて中洲でスナックを経営していたことから、スナック勤務のスタートは中洲だと予想して探したが、該当する店は見つからずにいた。

そんな折、友人の福岡県警担当記者から、彼女が働いていた店についての情報がもたらされたのである。それは歓楽街から離れた、とある町の住宅地にあるスナックだった。

すぐにその店を訪ねたところ、実は同店のママである山下有紀さん(仮名)は以前、裕子と野田さんが住んでいた家の家政婦をしていたことがわかった。つまり、事件の前後の裕子について、詳しく知る人物だったのだ。以下、有紀さんの証言である。

「その頃も、私はいまのスナックを経営していたんですが、昼間になにもしないのがもったいないと思って、家政婦の仕事をすることにしたんですね。それで働くことになったのが、野田家でした」

時期は1993年12月頃。誰かの紹介ではなく、家政婦募集との新聞広告を見て応募した仕事だった。

「野田さんの家には、夫婦のほかに13歳の長女と10歳の長男、それに1歳の次女がいました。1階が野田さんの事務所と座敷になっていて、2階がリビングとダイニング、それから夫婦の寝室がありました。そして3階が子供部屋です。10人は座れるテーブルやグランドピアノもあり、豪華な造りでした」

有紀さんの仕事は掃除、洗濯、買い出し、夕飯の準備など。

「夕飯の買い出しは、決まった場所に1~2万円の入った財布が置かれていて、買い物をすると、その内容と金額をノートに書き、領収書を貼り付けることになっていました。それでおカネが補充される仕組みです」

この時期、裕子は長男の家庭教師である大学院生と不倫関係にあったことが、後の裁判で明らかになっている。

「野田家はリビングを通らずに子供部屋に上がれる構造のため、家庭教師の顔は見ていません。何度かお茶とお菓子を持って行きましたが、裕子さんが受け取って部屋に入るので、様子はわからないんです。ただ、その家庭教師が家に来ているときに、リビングに戻った裕子さんから『家庭教師の子が私にホの字なのよ。困ってるのよね。私にダンナがいるってわかってるのに、そうなんだから』という話を聞きました。とはいえ、満更でもない表情だったので、幼い子供もいるのに、よくそういうことが言えるなと思っていました」

このように裕子が時折”裏の顔”を見せることはあったが、仕事そのものは平穏だったという。ところが、やがて異変が生じるようになった。

「働き始めて3カ月くらい経った94年の2月になると、ノートでわかっているはずなのに、おカネの補充がなくなったんです。それで私が2万円くらい立て替えていました」

じつはこの時期、野田さんの事務所は自転車操業に陥っており、倒産は不可避な状況だった。そのため3月になると、裕子は家のなかの金目になりそうなものを現金に換えて実家に預け、破産手続きを取ろうとしていたのである。

「3月末には『これ以上お給料を払えないから、辞めてほしい』と言われ、立て替え分や3月分の給料は結局、曖昧にされたまま払ってもらえませんでした」

自宅に借金取りが来ることを恐れた裕子は、5月になると子供たちを連れて福岡市中央区の高級マンションに移り住む。時を同じくして、彼女は不義理をした有紀さんのもとを訪ね、あることを切り出したそうだ。

「私は自分がスナックをやっていることを話していたんですが、そこで働かせてほしいと言うのです。経験はないけど見栄えはいいですからね。時給1000円で働いてもらうことにしました」

こうして初めてスナックで働くことになった裕子だが、音大出で歌がうまいうえに美人であることから、すぐに人気を集めたと有紀さんは言う。

「いつも膝上丈のミニスカートでスタイルが良く、客当たりも柔らかなので、水商売に向いていると思いました。カラオケではよくテレサ・テンの『つぐない』や森高千里の『私がオバさんになっても』といった曲を歌ってました」

裕子は1カ月ほど真面目に出勤したが、徐々に働く日数が減り、やがて有紀さんの店に客として男性を連れて来るようになった。

「あとで本人から聞いたのですが、じつは彼女、うちに出なくなった時期に、娘の友だちの母親がやっている中洲のクラブで働いていたそうなんです」

一方、家での裕子は、夫である野田さんに対し、「どうして死なんと? 借金はどうして返すのよ」と詰め寄り、自殺するように迫っていた。その段階で野田さんが書いた遺書の存在により、同年10月に彼が裕子から刺殺された際、”自殺”と判断された結果を生んだのである。その直後にも裕子は有紀さんに電話を入れている。

「いきなり『主人が亡くなりました』と電話があったんです。実際は自宅で殺されたのに、『主人の友人のところで自殺しました。遺言状を私と子供らに1つ1つ書き残してくれてました』と話していました」

野田さんの”自殺”で、約1億6000万円の死亡保険金が支払われている。さらに自宅が5000万円で売却され、これまでの借金を差し引いても、1億円以上の現金が手元に残ったとされる。このカネを元手に、95年9月に裕子は中洲にスナック『フリージア』を開店させたのだった。

「彼女はうちで働き始めたときから『店をやるなら中洲でしょ』と話していて、すごい自信だなと思っていました。それで実際に店を開店させたのだから、とにかく驚きました」

中州にあった自分のスナックの前で常連客と写真を撮る髙橋裕子(当時43歳)

中洲のクラブで働いていた時期に、彼女は銀行の幹部など”上客”を掴まえていた。さらにそうした相手に対する”枕営業”についても、彼女は有紀さんに話している。

「うちのお客さんでAさんという方がいるんですけど、彼が『フリージア』に来ていると裕子さんから聞きました。それで、彼女はあっけらかんと肉体関係があったことを話すんです。後日、それとなしにAさんに話を振ると、彼女に40万円を貸したまま戻ってこないと告白されました」

やがて裕子は『フリージア』に客として来ていた高倉博之さん(仮名=死亡時54)を籠絡し、妻と離婚させた末に入籍する。だがその後、デベロッパー会社の社員として、東北地方の高級旅館の総支配人をしていた彼が降格され、経済的に困窮したことによって、ふたたび彼女の殺意に火がついたのである。

これが2000年11月のことだ。2度の夫殺しの成功体験が、まさか破綻することなど想像もしていなかった裕子は、逮捕直前まで新たな男性との逢瀬を繰り返し、趣味のパチンコに通い続けていた。

東京の音大を卒業した髙橋裕子は、かつてピアノ教室を開いていた。生徒との記念写真より(当時29歳)
  • 取材・文小野一光

    1966年生まれ。福岡県北九州市出身。雑誌編集者、雑誌記者を経てフリーライターに。アフガン内戦や東日本大震災、さまざまな事件現場で取材を行う。主な著書に『新装 家族喰い 尼崎連続変死事件の真相』(文春新書)、『全告白 後妻業の女: 「近畿連続青酸死事件」筧千佐子が語ったこと』(小学館)、『人殺しの論理 凶悪殺人犯へのインタビュー』 (幻冬舎新書)ほか

Photo Gallary3

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