『なつぞら』モデル奥山玲子さん&時代考証・小田部夫妻創作の日々

【独占インタビュー】「『なつぞら』アニメーション時代考証・小田部羊一氏と東映動画のスゴい人々」に続く第3弾

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アニメーション映画『わんわん忠臣蔵』の頃の奥山玲子さん。「週刊文春」(1963年7月22日号)掲載用に撮影された写真から(写真提供 文藝春秋)。この記事はインタビュー3ページ、モノクログラビア4ページで構成されており、当時の注目の大きさがうかがえる

連続テレビ小説『なつぞら』(NHK)は、第1週の平均視聴率22.1%と快調なスタートを切った。日本のアニメーションの勃興期を描く半年間の朝ドラは、「北海道・十勝編」から舞台を移し、「アニメーション編」が始まっている。ヒロイン奥原なつ(広瀬すず)は、ついにアニメーションの世界に飛び込み、「東洋動画」でアニメーターを目指して奮闘中だ。

『なつぞら』で「アニメーション時代考証」を務める小田部羊一氏は、「ヒロイン:奥原なつ」のモデル、ヒントとなった奥山玲子さんの夫である。そして、ご自身も大学卒業後、東映動画に入社しアニメーションの黎明期を体験した。

様々な作品に関わり、『アルプスの少女ハイジ』『母を訪ねて三千里』を創り上げた(小田部氏はキャラクターデザインと作画監督を担当し作品の質を保ち続けた)。ゲームの世界に転じて、任天堂で「スーパーマリオブラザーズ」や「ポケットモンスター」のキャラクターデザイン監修、アニメーション監修を務める事になる、アニメ~ゲームの領域にまたがる名匠である。

小田部氏独占インタビューの第3弾(最終回)は、奥山玲子さんと小田部羊一さんの二人のアニメーターの出会いや共同生活を伺った。『なつぞら』の奥原なつは、ドラマのヒロインとしての物語を歩んでゆきます。そして、奥山さんが小田部さんと共に歩むを姿も、とても新鮮でドラマチックな女性像です。文中「※」は、本記事末に解説を設けています。

⇒【独占インタビュー第1弾】「朝ドラ『なつぞら』広瀬すずヒロインのモデル・奥山玲子さんの全て」を読む

⇒【独占インタビュー第2弾】「『なつぞら』アニメ時代考証・小田部羊一氏と東映動画のスゴい人々」を読む

ペラっと

ーー奥山さんと小田部さんが初めてお話しされたのはお仕事を通じてですか? それともプライベートで?

小田部『安寿と厨子王』のとき、奥山は原画担当で、僕は奥山の班で第二原画※1担当でした。
原画と原画の間にもう1枚の絵を入れて、それを奥山に見てもらうんです。そしたらね、やおらその原画をペラっと裏返しされたんです。絵を裏返して透視台にかざすと、なんとデッサンがものすごく狂って見えるんですよ。

学校ではそんなことされたことないし、裏返ししてデッサンを確認するなんてことはやらない。いつも感覚で描いてました。

そしたら奥山自身も、原画になる前は森康二さんからペラっとされてたらしい(笑)。森さん自身、しょっちゅう自身で描いた絵を裏返して確認していましたよ。

ーー小田部さんはやったんですか? 下の人にペラっと。

小田部:もちろん(笑)。後に任天堂に行っても、しょっちゅうペラっとやって嫌がられました。奥山とはそんなことが最初の付き合いでしたね。

小田部羊一氏  撮影:水野昭子

ダンスがきっかけ

小田部:その当時、奥山は男性にも積極的で、別の人と恋仲だったんですよ。僕は全然圏外でした。

ーーそれがどういうきっかけでご結婚に?

小田部:一時期、社内で社交ダンスが流行ったんですよ。ステップの仕方をガリ版で刷って、レコードも用意して。5時以降に会社の会議室を利用したり、誰かの広い家でダンスパーティをやったりね。

ある時、友人の家でダンスをやっていたときに、ふと、僕の方から手を握っちゃったんだよね(笑)。それがきっかけ。そんなことになっちゃった(笑)。

ーーへえー!!「さぁ、踊りましょう」という感じで?

小田部:いやいや(笑)踊った後だと思うんですよ。

ーーお酒に酔った勢いとかでもなく?

小田部:違うんですよね〜。何が弾みになるかわからないというか(笑)。
あとから僕らの仲を知った誰もがね「えー!奥山と小田部が?」とビックリするくらい意外な組み合わせだった。で、奥山はちゃんとけじめを付ける人だから「元恋人にちゃんとあいさつしてね」って。それで挨拶に行きましたが、その元恋人は僕の学校の先輩だったんですよ〜(笑)。

ーーご結婚式はなさったんですか?

小田部:やりました。ユニークな結婚式でね。ぼくらのは会費制の人前式。

ーーすごく今っぽいですね。

小田部:当時としてはかなり先端でしたね。職場の人たちが「結婚準備委員会」っていうのを作って、チラシ作りとか司会とか受付とかカメラ係とか、みんなで分担してくれて、会社の仲間をあげて手作りでやりました。

面白かったのがね、僕、『わんぱく王子の大蛇退治』の時に、パクさん(高畑勲氏の愛称)と喧嘩したんですよ。
パクさんに絵コンテの流れ上「こうするべきでは? これはおかしい」と指摘されたんだけど、僕は「何言ってんだ。俺はこうやりたいんだ!」って言い返して、自分の描いたものをそのまま通しちゃったの。

結婚してから奥山に「あのパクさんとやりあえるなんてスゴイと思った」って言われてね。こちらとしては単にカンシャクおこしただけなんだけど、スゴイと勘違いされた(笑)。

ーー奥山さんは当時まだ演出助手だった高畑さんに一目置いていたってことですか?

小田部:組合活動を通じて、高畑勲という人のちゃんとした発言力とか人間性をみて尊敬してましたね。

ーー小田部さんが東映動画を辞められてAプロダクション※2に移った時、奥山さんに何か言われましたか?

小田部:僕が東映動画を辞めた時、奥山は黙っててくれました。
「行くならどうぞ。自分は東映動画に残って、残った連中とがんばって制作体制や組合を維持していく」って。
奥山は義理堅いというか、さっきも言ったようにけじめをちゃんと付ける人でした。労働組合で闘争があって会社からクビになった人のために組合として会社と交渉して、ちゃんとその人が復職したのを見届けてから自分は東映動画を辞めるとかね。

ーー結婚されてからの共働きは大変でしたか?

小田部:僕が『アルプスの少女ハイジ』※3をやることになった時、奥山は女性で初めての作画監督として『アンデルセン童話 にんぎょ姫』※4に参加することになって、2作品の制作時期がぶつかっていたんですよ。あのときは大変な忙しさでした。子どもがいましたからね。

子どもは小学生でしたが、朝ごはんを食べさせるために、朝、僕が仕事から帰ってきて、そのまま朝食を食べさせるとか、奥山が会社で残業してもなんとかその日のうちに家に帰ってくるとか、お互いの時間のやりくりが大変で。それで二人の仕事を維持をするために家政婦さんを頼みましたね。

ーー当時、家政婦を雇うなんて珍しいですね。

小田部:来てくれた人が、偶然、東映の俳優、江原真二郎・中原ひとみ夫妻の家政婦をやっていた人で、この人がとってもいい人でね、子どもを学童保育に迎えに行って夕食を作ってから帰るというのをやってもらっていました。

ーー奥山さんが『アンデルセン童話 にんぎょ姫』で作画監督になったのは、会社の命令ですか?

小田部:会社は「社内だけでは作れないから、外部スタジオの人を作画監督にする」と言ってて、その時、奥山が「私がいるじゃないですか」と自分で立候補してやったそうです。

『アンデルセン童話 にんぎょ姫』で女性初の作画監督になった奥山玲子さんがデザインしたヒロインのキャラクター案(小田部氏提供)

ーーアニメーションを作る上で、夫婦になったことで何か変化はありましたか?

小田部:例えばキャラクターを作る時、なぜか自分に似ちゃうんですよ。僕は手が短いんです。背広を買ってもサイズは合ってるのに袖だけが長い。だから描くキャラクターも手が短くなりがちで、奥山にいつも「何この手、短いわよ」って(笑)。

でもそういうのありがたいですよ。何か変だと思っても周りは何も言ってくれないから。それをズバっと夫婦だから言い合えるんですよね。

ーー逆に奥山さんに対してアドバイスは?

小田部:それは、あんまりした覚えはないですね。結婚してからは、奥山の意志の強さとか見てるから自然と認めるほかなかったのかな。

共働きが当たり前だったから、子どもが生まれたら僕もちゃんと協力して。奥山に「育児が大変だから仕事を辞めてくれ」なんて思う気持ちも全くないし。もし言ったとしたら奥山から「辞めるのは、あんたよ」って言われたと思う(笑)。それくらい強い人でしたから。

ーー先程、家政婦さんのお話が出ましたが、奥山さんご自身は料理をお作りになられたんですか?

小田部:料理はうまかったですよ! どこかで食べて美味しいと思ったら、それを応用してましたね。作るのは奥山、僕は食べたあとの食器を洗う係(笑)。小さいメモ書きに「仙台風の雑煮」とか奥山が書いたレシピが残っていて、今でも使ってます。

ーー奥山さんは海外がお好きだったそうですが、ご一緒にどんなところに行かれました?

小田部:ニューヨークが好きでしたね。でも突然「トンガ友の会」っていうのを新聞で見つけて、その会に入ってトンガに一緒に行ったりもしました。

ーー(取材陣一斉に)トンガ?

小田部:トンガ(笑)。南太平洋のトンガです。

ーー奥山さんがどんどん新しいものに向かって行ってたんですね。

小田部:だからいっしょにいて、とても楽しかったですよ。

いつも奥山さんが後押し

ーー『龍の子太郎』※5に関わる際、奥山さんが小田部さんの後押しをされたと聞いたのですが。

小田部:『太陽の王子ホルスの大冒険』をやるとき、まず大塚康生さんと高畑勲さんが出した初期案は『龍の子太郎』でした。でも会社から却下されて最終的に『太陽の王子ホルスの大冒険』になったんです。

そういう事情を知ってるもんですから、僕のところに『龍の子太郎』のオファーが来た時、やるんだったら高畑勲を監督にしてくれって。他のスタッフも指名して。でもその提案は却下されて、さらに提示されたギャランティがテレビに比べてぐんっと低かったんですよ。高畑監督案もダメ、給料も低い……だから一度は参加を断ったんです。

そしたら奥山が「東映動画としてはいい条件を出している。高畑さんではないけれど、あなたは『龍の子太郎』をやりたくないの?」って。

奥山は東映動画に長く在籍してたので、低迷期なんかも含めて会社の事情をよく知ってるんですよ。だから、東映動画が僕に出した条件は、会社としてはかなり頑張っていて、出来る範囲で最上の条件で僕を迎え入れようとしてくれているんだと。

僕も奥山の問いかけに「いや、やりたいよ」と言ったので、奥山が「だったらもう一回考え直してみたら?私が東映動画に電話するから」と。

書影は『幻の「長くつ下のピッピ」』(著・高畑 勲 、宮崎 駿 、小田部羊一。岩波書店刊) 。東映動画を離れた高畑、宮崎、小田部はAプロダクションへ。1971年当時、3人が構想を練っていた「ピッピ」のアニメ企画は残念ながら幻に終わるが、その後、様々な企画を生み出して行く

ーー奥山さんは小田部さんのマネージャーみたいですね。

小田部:そうなんですよ。結果的に『龍の子太郎』は、やって良かったです。

ーー『じゃりン子チエ 劇場版』※6の参加は、奥山さんが原作漫画がお好きだったからということを語られていますね。

小田部:その頃、いつも昼休みに行っていたお店に『じゃりン子チエ』が載ってる雑誌が置いてあって、僕はガハハと大きな口を開けているのばかりが目について、あまり好きじゃなくて飛ばして『がんばれタブチくん』みたいな方を好んで読んでたんです。そしたら奥山が「何言ってんの。『じゃりン子チエ』が一番面白いわよ〜」って。

それであらためて読み返して、世界観や人間味がしっかり出来ているので感心して。ちょうどそんなときに『じゃりん子チエ 劇場版』の作画監督とキャラクターデザインの話がきたから「やります!」ってね(笑)

ーー高畑さんの『火垂るの墓』※7に奥山さんとご一緒に参加されてますが(小田部氏はノンクレジット)、こちらの経緯は?

小田部:高畑氏から直接、奥山にやってくれないかと依頼が来ました。ただし浜辺のシーンで水も出るから、水は小田部さんにやってもらうって。まぁ水だけならと思って描いたけど、これがキャラクターと合わせるのが大変で(笑)。

ーーキャラクターは奥山さんが?

小田部:えぇ。僕は水だけです。僕はすでに任天堂に所属してたからスタッフロールには名前を載せられないので名前は出ていません。

任天堂に行くことも、奥山が推してくれたんですよ。ある時からフリーで奥山と二人でTVシリーズの1話分のうち半分を請け負っていくみたいな、そんな作り方を自宅でやってました。

ーーその時はご自宅で動画机をふたつ並べて作業されていたんですか?

小田部:動画机は、奥山が会社からもらったちゃんとしたやつを使っていて、僕はテーブルに置いて使えるトレース台だけのやつを使っていました。でも仕事が面白くなくてね〜。アニメーションは制作工程全てに参加するのが面白いのに、外注では作画なら作画だけ、と決められたものをやるだけですから……。

そんな時に東映動画時代の同期だった池田宏氏※8から話が来たんです。いつの間にか彼は、なんと任天堂のスーパーマリオを開発してる部署の部長でした。

その彼が、今後アニメーションのノウハウが必要になるから、任天堂に来て手伝ってくれと。僕はゲームなんてやらないし何のことやらわからなくて、オファーにちょっと躊躇していたんです。

そしたら奥山の方が「行ってみれば?」って。
奥山は先を見通してたんですね。歳とともにだんだん目は衰えてくる、描くスピードも遅くなってくる。でも任天堂に入れば給料は保証されるし条件もそんなに悪くない。行ってみれば?って。

じゃあ、せいぜい1〜2年だったら手伝ってもいいかなって任天堂に入ったら、居心地良くってなんと20年も在籍することになりました(笑)。
やっぱりちゃんと先のことを見てたんでしょうね。それで奥山自身も銅版画をやれるようになったし(笑)。
ホント不思議なことに、僕の経歴は、僕が積極的に選んだものはひとつもないんですよね。

奥山玲子さん作の銅版画「ニーナ・Standing」

インタビューを終えて 小田部さんと奥山さんの共同作業は今も続く

小田部羊一さんと奥山玲子さんはアニメーション界のおしどり夫婦で有名でした。会社での先輩後輩の関係から夫婦となり、一緒に仕事と家庭を両立させてこられてきた生涯一のパートナーを、小田部さんは公の場では「奥山」と呼ばれます。

お互いに才能を含めて全てを認めあってきたからこそ、そしてお互いに生き方や考え方を尊重してきたからこそ、ごく自然にそれぞれの姓で呼びあえるのだと思いました。とても羨ましい関係です。

小田部さんのお仕事の変化は、イコール日本のアニメーション界やゲーム界での大きな変化を起こしています。そして、このインタビューでも分かるように、そこには必ず奥山さんの存在があります。
小田部さんご自身の素晴らしい才能やたゆまぬ努力があってのことは当然のことながら、そこに奥山さんが後押しをしなければ、日本のアニメーションもゲームも今のようにはなっていなかったでしょう。

このインタビューでは奥山玲子さんという方を、パートナーの小田部さんを通して、仕事と私生活の両面からクローズアップしました。

そこから見えてきたのは、一人の女性が、自分のしたいことや自分が正しいと思うことを実現していく清々しい力強さと、その道を共に行く良き理解者の存在でした。

誰もが認める名匠でありながら、その優しいお人柄で数々の貴重な思い出話を気さくに長時間に渡って楽しくお話してくださった、小田部羊一さん、本当にありがとうございました。

※本項では「アニメ」と略さずに「アニメーション」と記載している。これは小田部羊一氏のこだわりに倣ったものである。

人物・用語の説明

※1 第二原画:当時のアニメーション制作において、動きのキーフレームを描く原画と、原画で描かれた動きの間を描く動画の中間職として、原画を清書し原画を補足するキーフレームとなる画を追加して描く、原画のアシスタント的な役割が配置されていた。

※2 Aプロダクション:現シンエイ動画株式会社の前身。東映動画のアニメーター楠部大吉郎氏が独立して立ち上げたスタジオ。代表作は『巨人の星』『ルパン三世』『ドラえもん』『クレヨンしんちゃん』など多数。小田部氏は高畑勲、宮崎駿氏と共に『長靴下のピッピ』制作のためにAプロダクションに移籍したが諸事情で企画が頓挫。しかしこれが後の『アルプスの少女ハイジ』への布石となる。

※3 アルプスの少女ハイジ:1974年放映。ヨハンナ・スピリの小説をTVアニメ化した。全52話。アルプスの山小屋に住むおんじの元に預けられた7歳の少女ハイジの生活ぶりをアニメーションで丁寧に描き大ヒットを記録した。小田部氏は演出高畑勲、画面構成:宮崎駿と共にメインスタッフとしてキャラクターデザインと作画監督を担当。

※4 アンデルセン童話 にんぎょ姫:1975年公開、監督は勝間田具治。「人魚姫」原作者のハンス・クリスチャン・アンデルセン没後100年に「春の東映まんがまつり」内の作品として上映された70分弱の中編。日本で初めて女性の作画監督が表記されたアニメーション映画。

※5 龍の子太郎:1979年公開。監督:浦山桐郎。松谷みよ子初の長編児童文学の映画化。鬼にさらわれた幼馴染を助ける旅に出た太郎は龍になった母と再会し……というお話。小田部氏と奥山氏はキャラクターデザイン・作画監督で参加。奥山氏は主に女性キャラクターを担当。

※6 じゃりン子チエ 劇場版:1981年公開。監督:高畑勲。人気コミックの映画化でのちにTVシリーズとなった。声優には中山千夏ほか、当時売れっ子の関西お笑い芸人たちが起用された。小田部氏はキャラクターデザイン・作画監督(大塚康生氏と共同)、奥山氏は原画で参加。

※7 火垂るの墓:1988年公開、監督:高畑勲。同時公開『となりのトトロ』。14歳の兄と4歳の妹が終戦前後、2人だけで生きていく様を描いた。
奥山さんと小田部さんが担当したのは、浜辺で母が見守る中、主人公が海で遊ぶという回想シーン。

※8 池田宏(1934〜):演出助手第1期生として1959年東映動画入社。『空飛ぶゆうれい船』『どうぶつ宝島』などの監督・脚本を担当。『空飛ぶゆうれい船』は小田部氏が作画監督、『どうぶつ宝島』では小田部氏はのちに日本のアニメーションの波表現のデフォルトとなるスタイルを池田氏の要請で作り上げている。1985年には任天堂株式会社に入社し情報開発部長に就任、任天堂のゲーム開発に多大な功績を残した。多くの教育機関でアニメーションの教育を行い多くの人材を輩出、70年代からアニメーションに関する数々の研究にも取り組んでいる。

小田部羊一(こたべ よういち)プロフィール

1936年台湾台北市生まれ。1959年、東京藝術大学美術学部日本画科卒業後、東映動画株式会社(現:東映アニメーション)へ入社。『わんぱく王子の大蛇退治』(1963)『太陽の王子ホルスの大冒険』(1968)『長靴をはいた猫』(1969)『どうぶつ宝島』(1971)などの劇場長編映画で活躍。『空飛ぶゆうれい船』(1969)で初の劇場作品作画監督。東映動画退社後、高畑勲、宮崎駿と共にメインスタッフとして『パンダコパンダ』(1972)『アルプスの少女ハイジ』(1974)『母をたずねて三千里』(1976)のキャラクターデザイン・作画監督を担当。
その他劇場作品の『龍の子太郎』(1979)、『じゃりン子チエ 劇場版』(1981)でキャラクターデザイン・作画監督。
1985年、開発アドバイザーとして任天堂(株)に入社。「スーパーマリオブラザーズ」「ポケットモンスター」シリーズなどのキャラクターデザインおよびアニメーション映像の監修。2007年任天堂退社後フリー。2015年度第19回文化庁メディア 芸術祭で功労賞を受賞。

小田部羊一氏  撮影:水野昭子

奥山玲子(おくやま れいこ)プロフィール

奥山玲子さん。仕事場に設置してある銅版画用のプレス機と共に。1990年前後に撮影

1935年宮城県仙台市生まれ。宮城学院高等学校卒業。東北大学教育学部中退。1958年東映動画(現・東映アニメーション)入社。『白蛇伝』(動画)、『わんぱく王子の大蛇退治』(原画)、『太陽の王子ホルスの大冒険』(原画)、『アンデルセン童話 人魚姫』(作画監督)、『龍の子太郎』(作画監督補)、『注文の多い料理店』(原画)、『冬の日』(絵コンテ・原画)。1985年より東京デザイナー学院アニメーション科講師。1988年より銅版画制作。2007年、逝去。

⇒【独占インタビュー第1弾】「朝ドラ『なつぞら』広瀬すずヒロインのモデル・奥山玲子さんの全て」を読む

⇒【独占インタビュー第2弾】「『なつぞら』アニメ時代考証・小田部羊一氏と東映動画のスゴい人々」を読む

取材・構成・文:藤田健次 E-SAKUGA公式サイト

企画協力:木川明彦

  • 取材・構成・文藤田健次

    (ふじたけんじ)(株)ワンビリング代表取締役。電子書籍アニメ原画集・資料集E-SAKUGAシリーズを企画・制作。アニメ・アーカイブのデジタルでの利活用を提案・プロデュースしている。東映アニメーション60周年記念ドキュメント「僕とアニメと大泉スタジオ」、アニメビジネス情報番組「ジャパコンTV」(BSフジ)共に企画・監修。

  • 企画協力木川明彦

    (きかわあきひこ)(株)ジェネット代表取締役。アニメ、特撮、SF、ゲーム関連の雑誌・書籍の企画編集に関わる。特に設定考察、図解にこだわる 自称「図解博士」。近著に小説『高速バスター ミナル』(スペースシャワーネットワーク)がある。

Photo Gallary7

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