広瀬すず『なつぞら』東洋動画で働く人たちのモデルとなった人物録

三村茜(渡辺麻友)≒大田朱美/露木重彦(木下ほうか)≒藪下泰司/大沢麻子(貫地谷しほり)≒中村和子/森田桃代(伊原六花)≒保田道世/下山克己(川島明)≒大塚康生/井戸原昇(小手伸也)≒大工原章/仲努(井浦新)≒森康二/大杉満(角野卓造)≒大川博 『なつぞら』東洋動画モデルの人々

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NHK朝の連続テレビ小説『なつぞら』。4月1日のスタート以来、高視聴率を維持している。北海道を舞台に始まった物語は、このまま「十勝編」だけでも良いのでは? と思ってしまうほどの満足度だったが、「日本のアニメーションの草創期」がメインテーマということで、ヒロインの奥原なつ(広瀬すず)は東京・新宿に拠点を移し、自らの夢であるアニメーターになるべく奮闘している。

画像は『NHKドラマ・ガイド 連続テレビ小説 なつぞら Part1』(NHK出版)の書影より

『なつぞら』は脚本家の大森寿美男が執筆したオリジナル作品だ。とはいえ、アニメーションの勃興期を知る様々な関係者たちに入念に取材し、登場人物の造形やエピソード、設定などに活かしている。

何といっても、ヒロインの「奥原なつ」が、実在のアニメーター「奥山玲子」をモデル、モチーフにしている。⇒〔朝ドラ『なつぞら』広瀬すずヒロインのモデル・奥山玲子さんの全て〕 を読む

そして、実在の制作会社「東映動画」と長編漫画映画『白蛇伝』が、ドラマでは「東洋動画」『白蛇姫』とそれぞれ名前を変えつつも、重要なモデルになっている。当然、奥原なつが働く「東洋動画」の社長、先輩、同僚たちも、実在の人物をヒントにして設計されている。

本稿では、そうしたヒントとなった実在の人物をご紹介する。ドラマ独自の展開や解釈を大いに楽しみつつ、実在の人物の業績にも思いをはせる一助にしていただきたい。

※6月11日現在、8名の人物を紹介しているが、最終的に10名ほどの人物録とする予定。文中、敬称略。

三村茜(みむら・あかね):渡辺麻友

絵を描くのが大好きな、おっとりとした女の子。漫画映画をよく知らず、東洋動画には見習いとして就職するが、その面白さにひかれていく。なつと一緒に受けた社内試験では繊細な絵が評価され合格。なつより一足先に正式にアニメーターとなる。※『なつぞら』公式サイト(NHK)より抜粋

⇒★太田朱美(おおた・あけみ);モデル、ヒントと思われる人物◆

1938年生まれ。父親は版画家の大田耕士。アニメーターとして東映動画に入社し、新人として『白蛇伝』の動画に加わった。その後も長編漫画映画の動画スタッフとして、『少年猿飛佐助』『西遊記』『安寿と厨子王』『アラビアンナイト シンドバッドの冒険』『わんぱく王子の大蛇退治』などに携わった。森康二は大田が描く絵を高く評価しており、アニメーターとして将来を嘱望されていた。

当時、東映動画に在籍していた演出家の芹川有吾が、後にインタビューで大田のことを「女だてらに無愛想で、とってもオッカナイ少女だった。おっかないだけに、たまにニッコリ笑ってくれる顔はとてもチャーミングだった」と言及している。

1965年10月に、後輩にあたる宮崎駿と結婚。結婚後も共働きの約束をしており、『ガリバーの宇宙旅行』(1965年)、『長靴をはいた猫』(1969年)、『アリババと40匹の盗賊』(1971年)などの動画を担当した。

その間、1967年1月に長男の吾朗(後にアニメ監督)、1969年4月には次男の敬介(後に版画家)を出産した。しかし、駿が東映動画を辞めてAプロダクションに移籍すると、深夜帰宅が続くようになり「共働きは無理」と断念。朱美は退職し、育児に専念するようになった。スタジオジブリで精力的に仕事をこなす夫の駿のために手作り弁当を作り続けたなど、夫婦仲の良さを語るエピソードも多い。

後に、自分は夫よりも絵がうまいが、結婚したら自分が絵を描く仕事をやめることになったと、アニメーターの仕事に対して未練があったことを知人に話したという。この決断に関しては、宮崎駿も「女房には申し訳なかったと、いまもそう思っています」と、中日新聞のインタビューで触れている。

大田は、働きながら子育てをしていた5年間の様子をスケッチ日記にしたためており、2人の子どもは、小学校低学年までそのスケッチ日記を眺めて楽しんでいたという。そのスケッチ日記は、『ゴローとケイスケ −お母さんの育児絵日記−』(徳間書店/1987年)として発売。また『トトロの生まれたところ』(岩波書店/2018年/宮崎駿監修/スタジオジブリ編)で、所沢の四季折々の自然な魅力や植生をスケッチ日記で紹介する「ふるさとスケッチ日記」のパートを担当するなど、現在も絵を描き続けている。

【参考サイト】

日本映画データベース

女性自身 宮崎駿監督 知人語る引退後……「妻と一緒にアニメ制作も」

ジブリの世界 宮崎朱美の育児絵日記『ゴローとケイスケ』

岩波書店 トトロの生まれたところ

露木重彦(つゆき・しげひこ):木下ほうか

東洋映画所属のベテラン映画監督。日本初の長編アニメーションの監督に起用されるが実写映画しか経験がなく、不慣れなアニメーションの世界に戸惑うばかり。アニメーターたちと時にぶつかり、時に協力して、成功に尽力する。※『なつぞら』公式サイト(NHK)より抜粋

⇒★薮下泰司(やぶした・たいじ):モデル、ヒントと思われる人物◆

藪下泰司(やぶしたたいじ)1903(明治36)年に大阪府で生まれる。1925(大正14)年に東京美術学校(現・東京芸術大学美術学部)の写真科を卒業し、松竹蒲田撮影所に入社。現像部でフィルム多色処理を研究した。1927(昭和2)年に、文部省社会教育局の嘱託で映画制作設備を創設し、ツェッペリン号飛来時の無声記録短編映画などを担当し、記録映画の制作をしていた。

アニメーション作品の制作に初めて参加したのは、1948年に創立された日本動画株式会社(後に日動映画株式会社に名称変更)への入社がきっかけ。『トラちゃんと花嫁』『ポッポやさん』シリーズで撮影や制作を担当したほか、『子うさぎものがたり』では脚本、『うかれバイオリン』では演出・脚本をこなす一方、会社の代表取締役に就任するなど、経営・制作面にまたがるオールマイティーな活躍を見せた。

1956年に、日動映画が東映動画に吸収された後も、引き続き演出を担当し、短編漫画映画『こねこのらくがき』を制作。続いて『白蛇伝』の演出を務めて興行的に成功を収め、『安寿と厨子王丸』『少年猿飛佐助』などの長編漫画映画の演出を連続して担当した。長編漫画映画の制作にあたり、森康二とともにスタッフの採用や新人演出家の育成にも尽力した。

1967年に『ひょっこりひょうたん島』の興行的不振を受けて、東映動画の演出部門から退いた。後に『日本漫画映画発達史漫画誕生』と『日本漫画映画発達史アニメ新画帖』の2本の映画を制作。多くのアニメ業界人や研究家の協力を得て、戦前から戦後にかけての日本国内のアニメーションの歩みを紹介した、貴重なフィルムを残し、演出の現場から離れた。

晩年は、東京デザイナー学院や東京写真専門学校で講師を通じて後進の育成・指導をしたり、アニメーションについての体系的な文献、『映画の創造』や『アニメ原論』の著書を執筆したりするなど、日本アニメ界の土台を築いた。

藪下の孫で、映画監督の高橋玄によると、藪下は大正育ちのモダンボーイで、普段からシャッポ(帽子)に紐ネクタイでパイプの煙草を吸っていたダンディでオシャレだったという。孫が学校をサボっても、そういうのが楽しいんだと擁護してくれたといい、社会常識にこだわらないアーティスト気質な人物だったことが伺える。

【参考サイト】
コトバンク 藪下泰司

exciteニュース 宮崎駿も惚れた「萌え」の原点を創った男——孫が語る藪下泰司の伝説

allcinema「日本漫画映画発達史・漫画映画誕生」

allcinema「日本漫画映画発達史・アニメ新画帖」

大沢麻子(おおさわ・あさこ):貫地谷しほり

美大卒業後、東洋動画に入社したスゴ腕アニメーター。通称「マコ」。作画監督の仲をサポートし、現場をまとめる。クールに見えるが内面は熱く、誰に対しても物おじしない性格から、社内で孤立することも。なつにとっては厳しい先輩。『なつぞら』公式サイト(NHK)より抜粋

⇒★中村和子(なかむらかずこ):モデル、ヒントと思われる人物

満州生まれ。女子美美術大学洋画科に在学中、フランスの長編漫画映画『やぶにらみの暴言』(1952年/ポール・グリモア監督)を観てアニメーターに関心を持ち、卒業後、東映動画にスタジオ開設とともに入社。『白蛇伝』(1958年)、『少年猿飛佐助』(1959年)、『西遊記』(1960年)に動画として参加した。

『西遊記』の制作スタッフとして関わった手塚治虫に気に入られ、1962年頃に株式会社虫プロダクションに移籍。『鉄腕アトム』『リボンの騎士』などの作画を担当し、技術面で虫プロの黎明期を支えた。

東映動画時代から美人アニメーター「ワコさん」として知られ、東映の守衛に女優に間違えられたというエピソードや、「週刊漫画TIMES」(芳文社)による取材記事が残されている。手塚も虫プロイチの美人と認め、『三つ目がとおる』のヒロイン・和登千代子のモデルにした、ともいわれる。

「絵は生活の一部」と言うほどで、ヒマさえあれば展覧会を見に出かけ、アニメーターの仕事で多忙を極める日々でも油絵の創作をしていた。また、着ている服はすべて自分でデザインするというこだわり屋の面もあった。

広告代理店「萬年社」の穴見薫氏(後に虫プロダクションの常務に就任)と結婚し、穴見和子の名義を使用するようになった。

車好きのアニメーター大塚康生に、いすゞの新車・ベレットを見せに行った際、運転を誤った大塚が車をブロック塀に激突させて、廃車にしてしまった。虫プロに謝罪に訪れた大塚に、夫の薫は車のことは気にしなくても良いから、替わりに『W3』(ワンダースリー)のオープニング作画をやって欲しいと依頼したという。

【参考サイト】
WEBアニメスタイル「東映長編研究 第11回 白川大作インタビュー(4)」

【参考文献】
『TVアニメ創作秘話〜手塚治虫とアニメを作った若者たち〜』秋田書店/原作:宮﨑克(「さき」は「立」)、作画:野上武志

森田桃代(もりた・ももよ):伊原六花

通称「モモッチ」。絵が好きという理由だけで、高校卒業後、アニメーションのことは全く知らず東洋動画に入社する。セル画の彩色を担当しており、なつの親友となる。なつからアニメーションの面白さを教えられ、その魅力にとりつかれていく。※『なつぞら』公式サイト(NHK)より抜粋

⇒★保田道世(やすだ・みちよ)モデル、ヒントと思われる人物◆

1939(昭和14)年に東京都で生まれる。高校卒業を控えた時期に就職する道を選択するが、「普通のOLにだけは絶対なるまい!」と心に決め、アニメーションに関する知識はほとんどない状態で、東映動画の「仕上げ」の試験を受けた。小さい頃から絵を描くのが好きで、展覧会での受賞経験もあったおかげか、試験に見事合格し、CM制作部の仕上げ部門に配属。そこで、トレース・色塗り・仕上げ検査の全ての作業を一から学んだ。しかし不況によりCM制作部の仕上げが解散したため、新設された仕上げ課のテレビアニメーションに異動し、『狼少年ケン』のトレースを担当した。

後輩の高畑勲や宮崎駿と出会い交流を深めたのは、1964(昭和39)年に書記に就任した労働組合の活動がきっかけだった。その縁で高畑が監督をする『太陽の王子 ホルスの大冒険』の制作に参加する。

東映動画の同僚から「魔術師みたいな描き方」と評された保田のトレースは、正確でスピードも速く、高畑と宮崎からの信頼も厚かった。しかし、トレースマシンが登場すると、せっかくの技術を活かす場がなくなったため、演出助手に転向したいと高畑に相談するが実現せず、労働組合の活動にも矛盾を感じるようになったため、『長靴をはいた猫』を最後に東映動画を退社し、高畑、宮崎が移籍したAプロダクションに入社した。

自分の仕事におもしろさを感じて真面目に取り組みつつも、徹夜でディスコで遊んだり、オシャレを楽しんだりと、プライベートも満喫していた。常に自分の生き方や作品との関わり方を真剣に考え、自分なりの答えを持って道を選択する強い心の持ち主だったという。

高畑を慕っていた保田は、Aプロダクション退社後、高畑と宮崎を追いかけるようにプロダクションを移動しながら、『アルプスの少女ハイジ』『フランダースの犬』など世界名作アニメで、仕上げや仕上げ検査を担当する。宮崎の初監督作『未来少年コナン』では、初めて単独で色指定と色設計を担当し、以後数々の名作の色指定を手がけていった。

その後、1983年に『風の谷のナウシカ』への参加を決め、他の作品と掛け持ちしながら色指定を担当。以後フリーランスとして、『天使のたまご』(1985年/押井守監督)、『天空の城ラピュタ』の色指定を担当する。スタジオジブリ作品同時公開となった『火垂るの墓』(高畑勲監督)と『となりのトトロ』(宮崎駿監督)に、掛け持ちで参加した。『火垂るの墓』の制作時に47歳になっていた保田は、年齢や体力の衰えを感じており、仕事の間隔を空けようと考えていたが、宮崎や高畑の要請でその後のジブリ作品のほとんどに参加。ジブリのCG部誕生や、ペイントのデジタル化など、制作環境の刷新にも寄与した。

数多の作品を共に作り上げた高畑からは「同志」、宮崎からは「戦友」と呼ばれ、その2人が保田には頭が上がらなかった様子から、ジブリの“影の支配者”と言われていたという噂もある。『崖の上のポニョ』でいったん引退するも、宮崎の要請で『風立ちぬ』の色彩設計を担当。これが遺作となった。

【参考サイト】
BuzzFeedNews 宮崎駿の“戦友”だった、ある女性の物語。彼女は「ジブリの色職人」と呼ばれた

保田道代 バイオグラフィー

gooテレビ番組 1億人の大質問!?笑ってコラえて! ジブリ3時間SP

【参考文献】
『アニメーションの色職人』徳間書店/柴口育子・著

下山克己(しもやま・かつみ)川島明

元警察官という異色の経歴を持つアニメーター。ひょうきんで明るい性格で周りを楽しませるのが大好き。その一方、ディズニーアニメを独自に分析して、新しい動画表現を研究するという努力家でもある。後輩の面倒見が良く、なつの優しい先輩。※『なつぞら』公式サイト(NHK)より抜粋

⇒★大塚康生(おおつか・やすお):モデル、ヒントと思われる人物

1931(昭和6)年に島根県で生まれる。絵が非常にうまかった祖父の作品に強く影響を受け、小学校をさぼっては蒸気機関車を丹念にスケッチする子ども時代を過ごす。終戦後は、米軍のジープやトラックなどの軍用車両のスケッチに夢中になり、車の構造や英語の知識を得た。その後、山口県庁で働きつつ、「山口新聞」に時事風刺漫画の連載を持つなど絵でも活躍した。

1951(昭和26)年に政治漫画家を目指して上京し、厚生省関東甲信地区麻薬取締官事務所で働きながら、デッサン塾に通ったり漫画を模写したりと、絵を描き続けていた。この頃に、ソ連のアニメ『せむしの仔馬』(1949年日本公開)や、フランスの長編アニメ『やぶにらみの暴君』(1955年日本公開)に感動し、アニメーションに興味をもつようになる。

アニメーション制作の世界に飛び込んだきっかけは、『白蛇伝』制作決定の新聞記事。日本動画社を訪れて、アニメーター森康二が作成した「とても重たい鍬を持った男が、土を耕す動きを6枚で表現する」というテストに見事合格し、臨時採用で働きながら、動画の練習をしたという。その後、東映動画第1期生として臨時採用され、大工原章の下で短編アニメを制作しながら技術を磨き、『白蛇伝』で第二原画を担当することになった。

朝ドラ『なつぞら』で描かれるのは、ちょうどこの時代の様子。ドラマでは「元麻薬取締官」ではなく「元警察官」という設定になっているが、奥原なつのモデル、ヒントになった奥山玲子さんの、毎日違った組み合わせでコーディネートされる服装を、こっそり観察して絵を描き始めたというエピソードが、ドラマにどう反映されるのか注目。

1958年『少年猿飛佐助』で正式に原画マンになると、その後、東映動画の退社までの長編漫画動画の原画をすべて担当した。長編第10作『太陽の王子 ホルスの大冒険』では、演出・高畑勲と組んで作画監督となり、完成までの3年間、直属の上司として宮崎駿や小田部羊一らを指導育成した。

1969年『長靴をはいた猫』の原画を最後に、東映動画を退社し、Aプロダクション(後のシンエイ動画)に移籍。テレビシリーズ『ムーミン』『ルパン三世』に携わる。1972年『パンダコパンダ』で再び高畑、宮崎、小田部と一緒に仕事をするようになり、『パンダコパンダ 雨降りサーカスの巻』『未来少年コナン』『ルパン三世 カリオストロの城』の作画監督を務める。

一方で、軍用車に関する連載記事や写真集などを執筆し、1983年には「ラジコン・バギー“WILD WILLY”」の原型デザインを担当するなど、軍用自動車研究家としても活躍した。

大塚のこだわりは「動き」。1日40枚の原画を描く速筆にもかかわらず、波飛沫の一粒一粒まで描き動かす緻密な作画から生み出された映像は、観る者を圧倒するパワーに溢れていた。時に現場に負担をかけ、時に納品期日を巡り会社やスポンサーに責められながらも、己が納得するクオリティを追求し、粘り強く作画に取り組む姿は、後進に多大な影響を与えた。

『なつぞら』で下山がなつの描いた薪割りの動画を見て、「重力を感じる」と評したセリフは、大塚のアニメーションに対する情熱からインスパイアされているのだ。

現場を退いた後は、後進の育成に従事し、現在もイベントなどで登壇することが多い。

【参考サイト】

大塚康生さんの世界

キャラクターも演技者であれ−−−−大塚康生×上田文人対談〜もっと上手くなりたい!動かす力〜

井戸原昇(いどはら・のぼる)小手伸也

作画監督としてアニメーターをけん引するツートップのひとり。芸術家肌の仲とは対照的に、驚異的なスピードで上質な作画を仕上げる実務家肌。大柄な体格ながらも、繊細な心の持ち主。※『なつぞら』公式サイト(NHK)より抜粋

⇒★大工原章(だいくばら・あきら):モデル、ヒントと思われる人物

1917(大正6)年に長野県で生まれる。小さい頃から絵を描くのが好きで、戦前には、背景画家として漫画映画制作に携わったり、雑誌の挿絵などを描いたりしていた。戦後、設立されたばかりの日本漫画映画社に入社し、原画や背景を担当する。昭和23年、彩画を担当していた女性と社内結婚。その後、日本動画社の買収に伴い森康二や藪下泰司らと共に東映動画に入社する。

森康二と協同で『白蛇伝』の原画を描いたほか、キャラクターデザインを担当した。『少年猿飛佐助』『西遊記』『アラビアンナイト シンドバッドの冒険』の原画、『わんわん忠臣蔵』『アンデルセン物語』『アリババと40匹の盗賊』の作画監督など、多くの長編漫画映画作品の制作に携わり、東映動画のみならず、日本のアニメーション制作の礎を作り上げた。

東映動画の発足時から、森と2人で100人近い新人アニメーターの指導にあたり、中村和子や大塚康生、宮崎駿など多くの才能を育てる。特に宮崎に関しては、原画の指定以上の絵を描く作家性とおもしろいアイデアに関心し、一目置いていたという。

絵に関しては厳しかったが、各自の個性を尊重する柔軟な指導とみんなで楽しく仕事ができる雰囲気づくりを心がけていた。長編漫画映画の制作が終わると、毎回慰労会を開催し、チームごとに出し物をするなど率先して楽しむオチャメな面も。反面、とても恥ずかしがり屋で、人前で講義のように教えるのは得意ではなく、人に見られていると絵が描けなかった。

どんな絵柄にも合わせる器用さもあったが、自身はオリジナリティにこだわり、常に新しいものを作ろうと模索し続けた。テレビアニメの台頭で映画産業の衰退期に入り、後進だけでなく森も東映動画を去ったが、大川社長と会社に恩義を感じていた大工原は最後まで会社に残り、尽力した。

【参考サイト】

文化庁メディア芸術祭 第10回功労賞 大工原章

【参考文献】
『伝説のアニメ職人たち 第1巻』まんだらけ出版部/星まころ編・著

◆仲 努(なか・つとむ)井浦新

東洋動画アニメーターのリーダー、日本初の長編アニメーションの作画監督として活躍。穏やかな物腰で人望が厚く、かわいいキャラクターデザイン、繊細な表現を得意とし、みんなから師と仰がれる。“漫画映画”に純真な思いを抱くなつを気に入り、“アニメーション”の世界に誘う。※『なつぞら』公式サイト(NHK)より抜粋

⇒★森康二(もり・やすじ):モデル、ヒントと思われる人物

1925(大正14年)に鳥取県で生まれ、幼少期を台湾で過ごす。建築家を目指して、東京美術学校(現東京芸大)建築科を卒業したが、政岡憲三脚本・撮影・監督の白黒アニメーション『くもとちゅうりっぷ』(1943年公開/松竹動画研究所)やアメリカのカラー短篇漫画を見て、アニメーターになるために、日本動画株式会社に入社。「アニメーションの父」と呼ばれる政岡に師事し、彩色を経て『トラちゃんと花嫁』の動画、『ポッポさん駅長の巻』の原画を担当した。

当時、彩色のアルバイトの大半は女子大生。「モテテ、モテテ、困ったものです」と後にガリ版誌「あしおと」に本人が書くほどにモテまくり、その中で後に妻となる女性と出会い、一悶着あったとか、なかったとか。

ところが会社の業務縮小により、西武デパートの宣伝部に転職。会社員として働きながら、「森やすじ」「もりやすじ」の名義でイラストレーター・絵本作家として活動を続けていた。その後、藪下泰司のもと、『子うさぎものがたり』(1954年発表/日動映画社)の監督でアニメーションの世界に復帰。

朝ドラ『なつぞら』で初めてスタジオを訪れた奥原なつにプレゼントした「うさぎのセル画」は、この作品の主人公の子うさぎがモチーフになっていると思われる。またドラマで描かれたように、森康二本人がアニメーターの試験問題を用意していたという。

1956年に東映動画が誕生すると、アニメーション製作の最前線で中心となって創作活動を行い、日本最初のカラー長編漫画映画『白蛇伝』をはじめ、『少年猿飛佐助』『西遊記』などの長編漫画映画を次々と製作。その製作過程で、大塚康生や『なつぞら』のヒロイン「奥原すず」のモデル、モチーフとなった奥山玲子をはじめ、高畑勲中村和子宮崎駿杉井ギサブローなどを育成・指導していった。
やがて重鎮となる彼らだが、当時は若手アニメーターだった面々からすると、東映動画時代の森さんは「とても怖い大先生」。怒鳴ったり怒ったりすることは一切なかったものの、黙々と若手アニメーターの絵を修正していたという。

1973(昭和48)年に東映動画を去った後は、日本アニメーション株式会社でメインスタッフとして活躍。『山ねずみロッキーチャック』『アルプスの少女ハイジ』『フランダースの犬』『シートン動物記 くまの子ジャッキー』など、数々の作品で設定・作画監督を務め、キャラクターデザインの基礎を作った。一方で、講談社や小学館、ポプラ社が出版した世界名作絵本の挿絵を多数手がけている。

丸く柔らかなタッチの絵柄が特徴で、特に動物のキャラクターを得意とした森。活き活きと動くキャラクターと同様、本人も愉快なひょうきん者で、社内パーティでバレリーナ姿になって踊ったなど楽しい逸話が残っており、今なお多くの人から慕われている。

【参考サイト】
ANIDO 人物名鑑 森康二

ANIDO もりさんの素顔

森康二の足跡 鉛筆1本の線から生まれたAnimation

togetter アニメの神様「森康二の足跡」トークショー

HatenaBlogらむど夢幻 アニメ千一夜日動のころ森やすじ東映動画ガリ版誌「あしおと」より

大杉満(おおすぎ・みのる)角野卓造

東洋動画の親会社・東洋映画社長。アニメーションに未来を感じ、東洋一のアニメスタジオを設立、日本初の長編アニメーション制作に取り組む。帯広の映画館で見た大杉社長からのメッセージ動画に、なつは心を動かされる。※『なつぞら』公式サイト(NHK)より抜粋

⇒★大川博(おおかわ・ひろし):モデル、ヒントと思われる人物

1896(明治29)年、新潟県で生まれる。大学卒業後に鉄道院(後に鉄道省、運輸通信省)に入り、経理の手腕を発揮した。その腕を買われ、1942(昭和17)年に東京急行電鉄に入社した。
1951(昭和26)年に、経営危機に陥っていた東急映画配給会社(東映)の社長に就任。徹底した予算管理と原価管理で経営を回復させ、5年で黒字転換に成功する。その間、自らプロデューサーとして『ひめゆりの塔』(1953年:昭和28年)や『飢餓海峡』(1965年:昭和40年)などのヒット作を生み出し、東映を映画業界の売り上げトップに導いた。

アメリカ視察でテレビ時代の到来を察知した大川は、映画事業1本に頼らない経営の多角化に乗り出す。そのときに目をつけたのが、アニメーションだった。言語や文化の違いが原因で、日本の時代劇映画の海外進出に苦戦しているのに、戦後に公開ラッシュを迎えたアメリカやソ連など海外アニメーション映画は、日本でヒットしている。カラーアニメーションの鮮やかさと高い音楽性が、文化の壁を簡単に乗り越えられることを痛感した大川は、将来、アニメーション製作が世界的な産業になることを予測したのだ。「東洋のディズニーを目指す」という合言葉の元、1956(昭和31)年に東映動画を設立し、初代社長に就任したのだった。

性格は奔放でざっくばらん、人情に篤い一方、帳簿にはきわめて厳しいワンマン社長だったが、本人曰く映画やアニメは「素人」。経営者の目で「ディズニーと争っては負けが見えている。まずは東洋一を目指すべき」と判断し、日本初のフルカラー長編漫画映画の題材を、アジア圏の人々が親近感を抱きやすい中国の説話『白蛇伝』に決定した。勉強のために部下を渡米させたり、アメリカの技術をまねてマルチプレーンカメラなどの機材を開発したり、大規模な動画スタジオを建設したりと、制作体制を整えるための投資や技術開発を惜しむことはなかった。

後に東映の社長就任時を振り返った大川は、「上手くいくかどうかわからぬとしても、わからぬながらどこまでも一生懸命やってみると覚悟を決めた」という言葉を残している。

朝ドラ『なつぞら』第33話(5月8日放送)で、「東洋動画の大杉社長」が出演した映像は、実際の『白蛇伝』の予告編(DVD『白蛇伝』収録)をモチーフにしたもの。年間1本の長編漫画映画の制作を目標に掲げた大川は、『西遊記』(1960年)、『安寿と厨子王丸』(1961年)の予告編フィルムにも登場している。

ドラマで、「大杉」が相手を「アータ」と呼ぶのは、実際に「大川」が「チミィ」と呼んでいたというユニークなエピソードが反映されたものである。

また大川は、台頭してきたテレビ業界の動きに対応し、テレビアニメーションやテレビCM制作にも注力。1959年に日本教育テレビ(現・テレビ朝日)を開局させ、初代会長に就任。その後テレビ番組制作のための子会社を設立したほか、ホテル事業や不動産事業にも乗り出し、経営の多角化を推し進めた。晩年は、病床でも帳簿と格闘するほど、経営に意欲を燃やしていたが、1971年、74歳でその生涯を閉じている。

【参考サイト】

リーダーたちの名言集 名言DB 大川博の名言

練馬アニメーションサイト 映像講座「練馬のアニメスタジオの遺伝子」第1回 東映動画編 前編

⇒〔朝ドラ『なつぞら』広瀬すずヒロインのモデル・奥山玲子さんの全て〕 を読む

  • 取材・構成中村美奈子

    (なかむらみなこ)ライター。静岡県出身。ゲーム雑誌&書籍の編集ライターを経て、アニメ・漫画・映画ライターに。声優、アニメ監督、漫画家へのインタビュー記事をメインに執筆活動。WEBサイトの執筆場所は「アニメ!アニメ!」「シネマトゥデイ」「KIKI」など。紙媒体は、漫画ファンブック、声優イベントのパンフレット制作、「シネコンウォーカー」などに執筆。今はMCUとスターウォーズ、声優アイドルグループi☆Risの追っかけに夢中。好きなゲームは風来のシレンとパズル系。

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